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木曽海道六拾九次に聞く!

◆おわりに

 広重・英泉の木曽海道六拾九次は、構造的には、保永堂版東海道五拾三次(55枚)に15枚を加えた70枚と考えた方が理解しやすいと言えます。つまり、55枚の部分は、英泉と保永堂とがタッグを組んで主導権を握り、木曽街道ブームという2匹目のドジョウを狙ったということです。ところが予想外にも、英泉を頼みとできない事情があったのか、早い段階で広重が参入することになり、55枚の完成それ自体も大変苦労する始末です。55枚を超えた残り15枚部分に保永堂が本当に関心があったのか疑問ですが、その余の部分は、結局、広重と錦樹堂との組み合わせで何とか完成に至ります。経緯を考えると、木曽海道六拾九次は広重と錦樹堂の功績と判断して良いのではないでしょうか。

 中山道を旅する重要な目的の1つに善光寺参りがあります。しかし、善光寺道と中山道は追分宿で分岐する結果、庶民に関心の高い善光寺道沿いのいくつかの名所が木曽海道六拾九次から排除されてしまいます。たとえば、川中島(合戦)、善光寺、更級・田毎の月などです。ところが、『岐蘓路安見絵図』や『東海木曾兩道中懷寳圖鑑』を見ると、追分から塩尻(洗馬)の間の中山道の北側に善光寺道が並行して描かれていて、道中絵図を売るには善光寺道を無視できないことが判ります。とすれば、木曽海道六拾九次を制作する絵師も同じことを考えるはずで、中山道の各情景を描く際、善光寺道の名所情緒を取り入れて表現するであろうことが想像できます。「小田井」で善光寺、「岩村田」「塩名田」で千曲川・川中島(合戦)、「望月」「芦田」「長久保」で更級・田毎の月の情緒を読み込む所以です。

 木曽海道六拾九次に一番ゆかりのある人物と言えば、木曽をその名に背負う「朝日将軍木曽義仲」です。名月、驟雨などの背後に、木曽義仲およびその一族の思いが仮託されていないか度々確認してきたところです。生前の朝日(将軍)と亡き後の名月という対比構造は、絵師にはかなり魅力的な題材と思われます。

 中山道を木曽街道と呼ぶのは、まさに木曽路を通るからです。その木曽路が始まる「本山」「贄川」では、その重みを意識した作品の読み解きが必要になります。また、木曽路を終え、美濃路が始まる「落合」において、広重のスケッチ帖を元絵とする作品が開始されることも象徴的です。美濃路は、刻々と「関ヶ原」に近づいて行くため、今日、私達が思う以上に絵師は相当気を遣って考案しているはずです。そのため、各作品をスケッチ帖に基づく実景描写であると安易に評価することだけは避けるよう努めました。もちろん、広重のスケッチ帖は、浮世絵制作の機微を知ることができ、大変、意義深いものがあります。しかし、構想作品であろうと、実景作品であろうと、浮世絵に変わりはないので、制作・営業意図や商品性という部分を見落とさないように作品を見つめました。その結果、構想作品にも有用な事実情報が提供されていること、実景作品にも深い構想が施されていることがそれぞれ判りました。

 最後は、自画自賛になってしまいましたが、木曽海道六拾九次に何度も問い(聞き)続けた結果、従来にはない新しい見方が得られたのであれば、望外の幸せです。(完)

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