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木曽海道六拾九次に聞く!

◆おわりに

 広重・英泉の木曽海道六拾九次は、構造的には、保永堂版東海道五拾三次(55枚)に15枚を加えた70枚と考えた方が理解しやすいと言えます。つまり、55枚の部分は、英泉と保永堂とがタッグを組んで主導権を握り、木曽街道ブームという2匹目のドジョウを狙ったということです。ところが予想外にも、英泉を頼みとできない事情があったのか、早い段階で広重が参入することになり、55枚の完成それ自体も大変苦労する始末です。55枚を超えた残り15枚部分に保永堂が本当に関心があったのか疑問ですが、その余の部分は、結局、広重と錦樹堂との組み合わせで何とか完成に至ります。経緯を考えると、木曽海道六拾九次は広重と錦樹堂の功績と判断して良いのではないでしょうか。

 中山道を旅する重要な目的の1つに善光寺参りがあります。しかし、善光寺道と中山道は追分宿で分岐する結果、庶民に関心の高い善光寺道沿いのいくつかの名所が木曽海道六拾九次から排除されてしまいます。たとえば、川中島(合戦)、善光寺、更級・田毎の月などです。ところが、『岐蘓路安見絵図』や『東海木曽両道中懐宝図鑑』を見ると、追分から塩尻(洗馬)の間の中山道の北側に善光寺道が並行して描かれていて、道中絵図を売るには善光寺道を無視できないことが判ります。とすれば、木曽海道六拾九次を制作する絵師も同じことを考えるはずで、中山道の各情景を描く際、善光寺道の名所情緒を取り入れて表現するであろうことが想像できます。「小田井」で善光寺、「岩村田」「塩なた」で千曲川・川中島(合戦)、「望月」「あし田」「長久保」で更級・田毎の月の情緒を読み込む所以です。

 木曽海道六拾九次に一番ゆかりのある人物と言えば、木曽をその名に背負う「朝日将軍木曽義仲」です。名月、驟雨などの背後に、木曽義仲およびその一族の思いが仮託されていないか度々確認してきたところです。生前の朝日(将軍)と亡き後の名月という対比構造は、絵師にはかなり魅力的な題材と思われます。

 中山道を木曽街道と呼ぶのは、まさに木曽路を通るからです。その木曽路が始まる「本山」「贄川」では、その重みを意識した作品の読み解きが必要になります。また、木曽路を終え、美濃路が始まる「落合」において、広重のスケッチ帖を元絵とする作品が開始されることも象徴的です。美濃路は、刻々と「関か原」に近づいて行くため、今日、私達が思う以上に絵師は相当気を遣って考案しているはずです。そのため、各作品をスケッチ帖に基づく実景描写であると安易に評価することだけは避けるよう努めました。もちろん、広重のスケッチ帖は、浮世絵制作の機微を知ることができ、大変、意義深いものがあります。しかし、構想作品であろうと、実景作品であろうと、浮世絵に変わりはないので、制作・営業意図や商品性という部分を見落とさないように作品を見つめました。その結果、構想作品にも有用な事実情報が提供されていること、実景作品にも深い構想が施されていることがそれぞれ判りました。

 最後は、自画自賛になってしまいましたが、木曽海道六拾九次に何度も問い(聞き)続けた結果、従来にはない新しい見方が得られたのであれば、望外の幸せです。(完)

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木曽海道六拾九次一覧

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まぼろしの山城国 「三條大橋」

広重の狂歌絵本『岐蘇名所圖會』初篇(嘉永4・1851年~) 春友亭


Photo 広重・英泉の木曽海道六拾九次には、残念ながら、山城国「三条大橋」もしくは「京師」の図はありません。保永堂版東海道の「京師」副題「三條大橋」で代替する趣旨かもしれません。また、制作上の制約という観点で言えば、日本橋1枚と宿場69枚の計70枚の偶数は、見開き2枚1組の画帳を念頭に置いた場合、作品数としてはちょうど良い枚数になります。ただし、もし、木曽海道シリーズに該当作品があれば、どんな名所絵になっていたのかは興味のあるところです。なお、上記は、広重の狂歌絵本『岐蘇名所圖會』初篇に描かれる作品です。人物群は、保永堂版東海道「三條大橋」とほぼ同じで、人物の向きを反対にとって表現されたものとなっています。被衣(かずき)を被った公家の子女と下女に日傘を差しかけて貰う商家の子女が擦れ違う様が描かれ、その前後にやはり日傘を差す武士と茶筅(ちゃせん)売りが歩いています。背景に、比叡山、日ノ岡山、粟田口が見えています。

 ちなみに、後掲『岐蘓路安見絵図』(三条橋)には、「平安城は山城国愛宕郡宇多の邑にあり。桓武天皇の帝の時、山城の国長岡の京より今の都に宮所をうつさせ給ふ」と記され、愛宕山を背景に二条城が描かれています。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(三条橋)

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70 近江国 「大津」

「七拾 木曽海道六拾九次之内 大津」  廣重画 錦樹堂


Dijital071 草津宿を発って、瀬田川に架かる大橋、小橋(勢田の唐橋)を渡り、湖畔に膳所(ぜぜ)城を見て進むと、街道左手に木曽義仲の墓所・義仲寺があります。そこには、松尾芭蕉の墓もあります。その先の立場を石場、この辺りの浜を打出の浜と言い、大津宿の東端に当たります。大津は天智天皇の大津宮の造営以来、政治的重要性はもちろんのこと、軍事上の要地であり、陸水運による物資の供給地として発展しました。近世においては、延暦寺・園城寺(おんじょうじ)(三井寺)の門前町として栄えました。『木曽路名所図会』(巻之1)には、「此駅は都よりはじめての所なればにや旅舎(たびや)人馬多くこぞりて喧(かまびす)し。濱邉のかたは淡海國に領ぜらる。諸侯の蔵屋しきならび入舩出舩賑ひ都(すべ)て大津の町の数九十六町あり…」とあります。札の辻の北側山頂にあった長等山(ながらさん)園城寺(三井寺)については、大友皇子の殿舎を後に寺に作り直したので「園城」の字を用いると記しています。なお、その観音堂は西国巡礼第14番の札所に当たります。

 後掲『岐蘓路安見絵図』(大津)を見ると、「三井寺道」の分岐点に高札場があり、いわゆる「札の辻」と呼ばれる場所から街道が(直角に)折れ、「相坂」(逢坂峠)に向かっているのが判ります。その先に「はしり井」があり、西方には伏見街道の追分があるという地理関係です。走井は、保永堂版東海道「大津」副題「走井茶屋」の画題です。これに対して、木曽海道シリーズで広重が描いたのは、札の辻から少し上った坂より琵琶湖方向を遠望する構図と考えられます。札の辻辺りが大津宿の中心ですから、その場所を見下ろす視点となります。広重のスケッチ帖に、「大津柴屋町遊女」(『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』p215)と題する図がありますが、風景スケッチではないので、当作品の元絵とは考えらません。つまり、当作品は書き下ろし作品ということになります。

 作品内容を見ると、左側、牛車で荷を上方へ運ぶ情景は、大津湊が物流の拠点であることを示すものです。対して右側、飾り(日除け)の付いた菅笠で坂を歩く女3人は、前掲「草津追分」と同様に、女達にも普及した寺社参詣・物見遊山あるいは見送り帰りの姿を表現するのかもしれません。街道両側に並ぶ旅籠・料理茶店などの先、遠近法上の消失点上に、札の辻(京町)・琵琶湖・白帆・比良の山々を描き、開放感のある空に雁の群れ、そして一文字ぼかしを入れる安定した構図です。しかし、店々の旗・暖簾・壁などに各種の文字が散りばめられていて、賑わしい印象を受けます。左側には、錦樹堂の版元印、「いせり」、「大當」、「新板」、「大吉」等、右側には、「丸金」、「中仙堂?」、「丸金」、「全」、「ヒロ」、「重」等と書かれています。一番大きな文字である壁の「全」は、全シリーズ完成を宣言するものです。版元・錦樹堂(伊勢屋利兵衛)と絵師・広重の当シリーズ版行がこれにて終了し、大当・大吉で金になることを願掛け(雁翔け)する、一種、楽屋落ちの最終作品です。大空の雁の群れをこのような意味に読み解いてみました。

 確かに制作者側の気持ちはよく判りますが、まだ京都まで3里残っていることを忘れてはなりません。伏見街道との追分を過ぎて逢坂山を越えると山城国に入り、日ノ岡山を越えると、ようやく粟田口(あわたぐち)から三条大橋に至ります。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(大津)

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69 近江国 「草津」

六拾八 木曽海道六拾九次之内 草津追分」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Dijital070 絵番号六拾九の誤記があります。さて、『木曽路名所図会』(巻之1)は、草津につき、「此駅東海道木曾路街道尾張道等喉口なれば賑し。宿中に立木明神のやしろ上善寺駒井氏が活人石(くわつじんせき)等あり。訪ねて見るべし」、また、「東仙道東海道別れ道宿端れに石標あり。右へ曲れは東海道石部の駅に出る。直道(すぐみち)は東山道木曾路なり。これまで東海道名所図會にくはしく出したれば漸(やうやう)貝原氏の木曽路之記にあるのみを補遺してこゝに拾ふ也」と記しています。なお、「草津川」について触れるところがあり、「常にはかり橋あり。霖雨(りんう)出水には歩行わたり也。渡しの者出て催(もよほ)す。水源は金勝谷(こんぜだに)よりながれて末は山田にて湖水に入」とあります。当作品の題名に「草津追分」とあるように、草津は、東海道と中山道の追分の宿であり、辺りに草津川が流れていることが特記事項と判ります。その余のことは、『東海道名所図会』に譲るという発想です。この発想は、広重にも影響を与えていると考えられ、その余のことは保永堂版東海道に譲るという思考でしょう。

 『岐蘓路安見絵図』で草津宿辺りを確認すると、中山道が草津川を越えた地点の左側に高札場があり、同所を左手に折れると「東海道入口」となることが判ります。中山道を直進すると、矢倉の立場に矢橋(やばせ)(船場)に向かう道があり、その辻に「うばがもちや」があります。広重が、保永堂版東海道「草津」副題「名物立場」で描いた餅屋です。佐々木源氏・六角氏の子孫であった幼児を乳母が餅を売って養ったという伝承があります(佐々木氏居城・観音寺山について、前掲「愛知川」参照)。

 当作品において、広重は、草津川北岸から高札場のあった追分方向を低い視点で描いています。制作過程は、スケッチ帖の後掲図版を元絵とするもので、追分の常夜燈や描かれた人物などもあわせて同スケッチ帖から転載されたものと考えられます。右肩に傘を担いで仮橋を渡る女の姿は、前掲「武佐」の手前の旅人が傘を荷物と一緒に背負う様子を思い起こさせます。雨傘なのか、日傘なのか、この辺りの風土を感じさせます。他方、京に向かう3人の春装束の女達は、寺社参詣もしくは物見遊山の旅と見えます。当作品の人物は女と子供が主体で、都近郊の平和な情景を伝えるものです。草津川両岸の砂地は天井川を表現し、背景の山々は都(山城国)を暗示するものです。イメージとしては比叡山、実景は音羽山辺りでしょうか。

 なお、『東海道名所図会』(巻之2)に、図版「草津追分」があり、追分の石標と高札場辺りを写しています。しかし、木曽海道シリーズの広重作品とは画趣を異にしていて、当作品への影響はないと考えられます。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号13(p215)

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68 近江国 「守山」

「六拾八 木曽海道六拾九次之内 守山」  廣重画 錦樹堂


Kisokaido69 『木曽路名所図会』(巻之1)は、「當宿の入口に守山川あり。橋爪に称名寺といふ西本願寺末の寺あり。蓮如上人建立也。金ケ森より此所に移したるとなり。守山古歌に詠ず」と書し、その最初の項目として、「守山観音堂は駅中にあり。天台宗にして東門院守山寺(しゆさんじ)と号す」と記しています。比叡山の東門を守る、この守山寺が宿名の元になっています。また、宿場の北にあった「野洲川(やすがは)」について、「東海道横田川の下流也。末は湖水に入。此河水をせき入て布をさらしたる者多し。至て白し」と記し、図版「野洲布晒」、「野洲川」を掲載しています。もう1つの図版は、「三上山三上神社」で、「一名杉山ともいふ。神社の上にあり。登路(のぼりみち)十八町巡り五十町。俗に蜈蚣(むかで)山ともいふ。秀郷の由縁よりいひならはしたる。絶嵿に八大龍王の祠あり」との説明があります。宿場を流れる守山川(吉川・境川)、布晒で有名な野洲川、そして近江富士と言われる三上山が主な名所ということです。なお、前掲「鳥居本」で触れた、朝鮮通信使節が利用した近江の下道(浜道・朝鮮人街道)は守山が分岐点に当たります。

 「野洲川」の図版と、大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p270)の記述「野洲河原ひろくして、むかひの河原に布をさらせるあり」とを参照すると、当作品に描かれる川は野洲川とは考えられず、おそらく、宿場南で中山道に交差し琵琶湖に流入する守山川と判定されます。本来は街道に直交する川ですが、街道に沿うように曲げられて描かれています。木曽海道シリーズにおいて、広重が時々見せていた手法です。広重のスケッチ帖に元絵を発見できないので、構想作品に戻ったと言えます。守山川に架けらた土橋辺りから、街道東側の旅籠・茶店などに視点を向け、その前後の山に咲く桜を見ながら、なによりも背景の三上山を眺望するという構図重視の作品です。そのため、街道西側の建物が見えないという不思議な図取りです。三上山を富士に例えて、満開の桜で飾り、雅な雰囲気を狙ったのかもしれません。三上山の位置からすると右側が京方向となります。なお、当作品中央辺りの黒色の屋根の店には錦樹堂の意匠が、黄色の屋根の店には「伊せ利(いせり)」という同版元の宣伝がそれぞれ入れられています。

 藤原秀郷(俵藤太)が琵琶湖の大蛇に味方し、三上山の百足を退治したという伝説を踏まえれば、背景の三上山に対して、宿場に並行して描かれた守山川は大蛇を意味していると考えられます。変則的な構図も、俵藤太伝説を広重なりに解釈した結果と考えれば、納得できます。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(守山)

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67 近江国 「武佐」

六拾六 木曽海道六拾九次之内 武佐」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido68 絵番号六拾七の誤記があります。さて、『木曽路名所図会』(巻之1)には、「これより西の方へよりて八幡(はちまん)の町へ行道法五十町許あり」とあり、武佐が、近江八幡に近いことを第1に挙げています。実際、武佐は、東海道および八風峠を越えて伊勢に至る八風街道との交差点に位置しています。続いて、近江八幡は、「此辺の都會の地にして商人(あきびと)多し。産物は蚊地(かやぢ)及び布嶋。畳表。圓座。燈心。蒟蒻等なり」とあって、この地域が、(近世)近江商人の中心地であることを紹介しています。近江八幡には、「比牟禮社」、「西國巡礼三十一番の札所也」とある「長命寺」などもあり、武佐は信仰・巡礼地への分岐点に当たります。なお、同名所図会の図版「鏡山」から、武佐が歌枕の地であることも知ることができます。

 当作品の画題が舟橋であることは一目瞭然です。広重の後掲スケッチ帖に元絵があって、広重の実体験から制作されています。大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p271)が、「横関川は舟の上に板ばしゝてわたれり」と記しているので、場所は、武佐の宿場から南に進んだ、横関川の渡しであることが判ります。また、『中山道分間延絵図』(武佐)も、横関川の渡しについて、「此川平常渡船場小水之節右舟二艘綰(わが)キ合セ舟橋トナシ往来ヲ通ス」と注意書きを加えています。おそらく、江戸からの順路、北岸から南岸を見る視点で描かれたものと思われます。街道をさらに進んだ西横関川村の左に「水口道」があり、さらに歩み、鏡山(谷)から下り横関川と合流して琵琶湖に流れる、善光寺川を徒歩で渡ると、古の駅であった立場・鏡の宿に至ります。

 当作品の、中央付近に大きな木を配置する構図は、広重得意の技法です。ここで問題となるのは、当作品中の人物やその余の情景をどう理解するかです。近景此岸で、舟橋を渡る旅人達を眺めているのは、渡しを管理する村役人でしょう。対して、遠景彼岸の小屋は、船渡し時期に使用される人足の休憩所でしょうか。遠くにあって、川幅の大きな変化が読み取れます。前面の木の左側にいる、連れと一緒の巡礼姿の男は、西国巡礼31番札所・長命寺から32番札所・観音正寺への巡行を想起させます。木の右側にいる、荷物を背負い腰を曲げ杖を衝く老人は、名産品蚊帳地を商う近江商人を意図するものと思われます。広重のスケッチ帖に似た人物が発見され、興味のあるところです。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号16(p215)

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66 近江国 「愛知川」

「六拾六 木曽海道六拾九次之内 恵智川」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido67 『木曽路名所図会』(巻之1)には、「此宿は煎茶の名産にして能(よく)水に遇ふなり。銘を一渓茶といふ」とあります。宿名の由来となった、宿場の南を流れる愛知川について、同名所図会は、「水源(みなもと)萱尾瀧常に東風(こち)ふく時は水出る。諺云(ことわざにいふ)勢田の龍神此瀧へ通ひゐふときはかならず水出るといふ」と記し、季節によっては大河となることを示唆します。その他に、同名所図会は、「繖山(きぬがさやま) 観音正寺」について、「本街道清水鼻の左の山上にあり。西國巡礼三十二番の札所」と記し、図版「観音寺山 鷦鷯(さゝき)城址 観音寺」を掲載します。以上の要素が、広重作品にどう展開されているかが読み解きの視点です。なお、東海道「土山」および「伊勢」に至る街道の分岐もあり、交通の要衝です。

 当作品にも、やはり、スケッチ帖に後掲元絵があります。宿場の西口(南)側にある愛知川とそこに架けられた橋が描かれていて、「むちんはし はし銭いらす」と書かれた標柱が特徴的です。『岐蘓路安見絵図』(越知川)にも、「常はかりばし」とあり、天保2(1831)年に架けられた板橋です。橋の背後には、スケッチ帖とは若干異なって、雲あるいは霞の向こうに山の頂が描かれています。当作品の視点は、愛知川の北岸にあるので、南岸右手に展開する観音寺山であることが判ります。名所案内的要素をなるべく取り込むように制作されていることに気付かされます。橋を渡る武士一行、此岸の虚無僧、旅の親子連れ(スケッチ帖に似た人物が描かれています)などの他に、近景の牛に荷を積んで歩く女の姿は目立ちます。牛で荷を運ぶのは、西国に特徴的な風俗と考えられ、京も近いという仕掛けでしょうか。『旅景色』(p89)は、その荷を「彦根きゃら」の原料の蝋と推測しますが、前掲「一渓茶」あるいはその原料という推理はどうでしょうか。この牛を引く女は、同スケッチ帖にその元絵をやはり発見でき、広重の体験が下敷になっています。

 前述のように、愛知川を渡り、土山道・伊勢道の追分を過ぎると、清水鼻の立場の右手に観音寺山(繖山)はあります。近江源氏佐々木氏、後に同族・六角氏の居城でしたが、織田信長に滅ぼされました。この辺り一帯の五個荘は天秤棒1本で商売をした(中世)近江商人発祥の地と言われています。さらに街道を進むと、右手に老蘇(おいそ)の森に囲まれた奥石(おいそ)神社があり、その先の右手に安土山と総見寺を遠望しながら街道を歩むと、次の宿場・武佐に至ります。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号15(p215)

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65 近江国 「高宮」

「六拾五 木曽海道六拾九次之内 高宮」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido66 『木曽路名所図会』(巻之1)には、「此駅は布嶋類を商ふ家多し。此ほとり農家に髙宮嶋細布多織出すなり。これを髙宮布(たかみやぬの)といふ。宿中に多賀鳥居あり。是より南三拾町許」とあります。つまり、当宿場を特徴づけるものは、高宮布(麻織物)と多賀大社の鳥居ということです。その多賀大社は、祭神が 伊邪那岐(いざなぎ)大神で、後に、伊邪那美(いざなみ)大神も合祀されています。『古事記』にも、「伊邪那岐の大神は淡海の多賀に座すなり」とあります。天照大御神の親神を祀っているので、同名所図会は、「伊勢参宮の案道(ともがらみち)を枉(まげ)てこゝに多く詣(けい)するなり」と記しています。なお、高宮が多賀大社の門前町であったことが、すなわち、多賀=高、大社=宮で、高宮の名の由来です。

 広重の後掲スケッチ帖に「高宮川」と題する作品があり、ほぼ間違いなく、これが元絵と考えられます。高宮川は、宿場の西口(南)にあって、犬上川とも言われます。当作品は、川の南岸から高宮を見通す視点で、北岸に常夜燈、宿場、背景の山並を遠近法的に紹介する形式です。同スケッチ帖から判断して、広重は、水位が低くなって橋脚だけが残された景色に興味を持ったのかもしれません。これに歩行で川をジグザクに渡る旅人達を加えたのみならず、麻あるいは苧殻(おがら)を背負う2人の農婦を前景に描いたのは、宿中で織られた高宮布(上布)と関連付け、高宮宿の名産を紹介するためです。そうであるならば、当作品の両側に描かれた松は、宿場の出入口を表現しているというよりは、多賀大社の鳥居に見立てたと考えた方が、名所を画中に取り込む広重の真意に添うのではないでしょうか。なお、麻・苧殻を背負う農婦は、広重の同ステッチ帖の「近江路の人物」にその元絵を発見します。つまり、広重の実見に基づいているということです。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号15(p215)

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64 近江国 「鳥居本」

六拾三 木曽海道六拾九次之内 鳥居本」 (一立斎)廣重画 保永堂・錦樹堂・左枠外に竹


Kisokaido65 番場から西に進むと磨針峠を越えて鳥居本に至ります。この磨針峠からは琵琶湖の好景を展望でき、『木曽路名所図会』(巻之1)にも、「此嵿(みね)の茶店より直下(みおろ)せば眼下に礒崎筑摩祠朝妻里長濱、はるかに向ふを見れば竹生嶋澳嶋多景嶋、北には小谷志津嶽鮮に遮りて、湖水洋々たる中にゆきかふ舩見へて風色の美観なり。茶店には望湖堂と書したる艸盧の筆、江東壮観とある白芝の毫、琉人の筆等あり」と記されています。磨針峠からの眺めは、朝鮮通信使や琉球使節などにも自慢したい景色で、そのため峠に、「望湖堂」あるいは「臨湖堂」と名付けられた2軒の茶屋(本陣)が接待施設として設けられたと考えられます。

 前掲名所図会には、後掲図版「磨針嵿」があります。左側石垣の上の建物が望湖堂、右側が臨湖堂に当たり、そこからの琵琶湖一帯を臨む風景が描かれています。広重の作品は、比良の山々を背景に、同図版の茶屋部分を拡大した構図と推測されます。広重のスケッチ帖に「摺針峠とビハ湖」と題する下絵があり、望湖堂側から臨湖堂側を見る視点で背後に竹生島を描いています。しかしながら、構図視点が異なっている点で、木曽海道シリーズの当作品は、スケッチ帖を元絵とするものでなく、そのため、前掲名所図会の図版と同じく、大名一行が休憩しながら眺望を楽しんでいる様子を描いています。これは、大名などが休憩する程の施設であると同時に、名所として高名であることを示すものです。なお、当作品は、広重が中山道を旅する前に考案されたもので、絵番号56番以降で、唯一、版元に保永堂が加わっています。また、同作品は、本来ならば絵番号64のはずですが、63と誤記(?)されています。深読みすれば、63→36=35+1=東海道53次+日本橋1、という意味で、縁起の良い数字を初めに保永堂が総取り・先行販売した結果の誤りと想像されます。

 ちなみに、前掲名所図会には、「むかし多賀社の鳥居此駅にありしより名付くる。今はなし。彦根まで一里。八幡へ六里。此駅の名物神教丸俗に鳥居本赤玉ともいふ。此店多し」とあり、店先の図版も掲載されています。『岐蘓路安見絵図』(鳥居本)は、彦根城に至る彦根道(近江の下道)について、「御上洛の時此道御通り有。彦根より八まんへ六り。八まんより守山三り半。朝鮮人も毎度此道を通る」と記します(『旅景色』p83参照)。彦根城主井伊家は、直虎の後を継いだ直政の活躍によって、譜代大名筆頭の名家となりました。その他の情報として、当地から多賀大社への多賀道もあります。


注1:『木曽路名所図会』巻之1(磨針嵿)

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63 近江国 「番場」

「六拾三 木曽海道六拾九次之内 番場」  廣重画 錦樹堂


Kisokaido64 『岐蘓路安見絵図』(醒井)に、「番場の入口 八葉山蓮花寺 太平記にばんばの辻堂とは是也。仲時其外四百余人自害せし所なり。銘々過去帳にしるし辞世の歌あり」、また同安見絵図(番場)に、「米原へ一り。湊なり。大津へ湖上十六り」とあって、番場では、八葉山蓮華寺の古跡と米原道の追分が特記すべき事柄であることが判ります。『木曽路名所図会』(巻之1)は、「此宿は山家なれば農家あるは樵夫ありて旅舎も麁(そ)なり。まづ名にしおふ太平記に見えたる辻堂といふに詣ず」と記し、「八葉山蓮華寺」の解説と「番塲驛 蓮華寺」の図版を掲載しています。その解説によれば、元弘3(1333)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、天皇親政を復活し、翌年建武と改元した「建武の新政」に至る際、足利尊氏に敗れた六波羅探題北方の北条仲時が東国への逃亡を阻まれ、番場の蓮華寺において仲時ならびに一族432人が自害したとあります。同図版を見ると、境内の裏山には無数の五輪塔が並んでいるのに驚かされます。

 ところが、広重は、一見するとそれらに触れず、自身の後掲スケッチ帖を元絵として、東口の見付辺りから、店々の多くの看板等を描きながら、宿場内を覗き見る作品を制作しています。たとえば、右側には、版元錦樹堂の意匠と「いせや」とあり、「一膳めし酒さかな」の提灯も下げられています。左側には、絵師広重のヒロの意匠と「歌川」とあって、「そばきり一ぜん」の提灯が下げられています。つまり、店というよりは、制作者の宣伝となっています。なお、見付(棒鼻)の前に3組の帰り馬の馬子が屯している風情は、広重が時々使う手法で、追分の宿であることを表現するものです(前掲「関か原」等参照)。実際、番場は米原道との追分に当たります。

 では、当作品が、「番場」であるのは、追分の宿を表す帰り馬の様子だけなのでしょうか。宿場の西口側からの作品が続いている中、東口側から描く当作品の意義は、宿場背景の山が十分に見通せる構図となることです。前掲名所図会・同図版と比べると、背後の山は、番場宿の名所・八葉山蓮華寺の境内部分に当たることに気付きます。この点において、当作品は、間違いなく、番場宿を描くものなのです。ちなみに、当作品前景の旅人が合羽姿なのは、歩いてきた西口(南)の鳥居本が合羽の名産地だからであると考えられます(大田南畝『壬戌紀行』前掲書、p275参照)。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号11(p210)

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62 近江国 「醒井」

「六拾二 木曽海道六拾九次之内 か井」  (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido63 『岐蘓路安見絵図』(柏原)に、「あづさ川あさ川ともいふ。さめがい迄に三度わたる也」とあるように、中山道は梓川を3度渡って、醒井に至ります。醒井の命名の由来について、同安見絵図(醒井)は、「日本武尊東征し給ひし時伊吹山にて大蛇を踏て御心地わずらはしかりければ此水を呑て則醒給ひぬ。是によつて醒井といふ。水上は大岩の間より涌出る水也」と、『日本書紀』に基づいて記しています。他方、『木曽路名所図会』は、大蛇ではなく、「化白猪者(しろきゐになれるもの)」(山の神)の氷雨に惑わされ、下山して座していたところ、「玉倉部之清泉(たまべのしみづ)」によって「寤(さめ)」たので、その清泉を「居寤清泉(ゐさめのしみづ)」と呼ぶとして、『古事記』から醒井の命名を解説しています。いずれにせよ、醒井宿が日本武尊伝説の地であることが判ります。

 また、前掲名所図会は、「此駅に三水四石の名所あり。町中に流れ有て至て清し。寒暑にも増減なし」と述べ、「日本武尊居寤清水」、「十王水」、「西行水」の3ヶ所の清水と、「日本武尊腰懸石」、「くらかけ石」(鞍掛石)、「蟹石」、「明神影向(ようごう)石」の4ヶ所の名石を紹介しています。くわえて、図版「醒井」の掲載もあって、宿中・加茂神社の境内にあった「居寤清水」や「腰懸石」などが描かれています。ただし、当作品の元絵になったのは、同図版ではなくて、やはり、広重の後掲スケッチ帖です。同スケッチ帖の「さめか井」に、「醒」ではなく、「酔」という漢字を当てたことが、完成作品「酔か井」の誤記に繋がっていたことに気付きます。

 スケッチの場所は、宿場の西口外れ、枝分かれした大松があった六軒町辺りと考えられ、前掲「垂井」や「関か原」など、宿場の西口辺りを描く作品が続いています。大名行列が宿場に向かう中、竹馬を担ぐ足軽と槍を担ぐ中間が殿(しんがり)を歩んでいます。大名行列が描かれているのは武士に係わる事柄が画題となっているからで、この場合は、醒井が日本武尊という古代の武人ゆかりの里だからです。農夫が、小高い丘の上で煙管を吹かしながら、座って大名行列を見つめています。現代版の「居寤」の姿かもしれません。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号10(p210)

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61 近江国 「柏原」

「六拾壹 木曽海道六拾九次之内 柏原」  廣重画 錦樹堂


Kisokaido62 本作品から近江国に入ります。『木曽路名所図会』(巻之1)によれば、「此駅は伊吹山の麓にして名産には伊吹艾(もぐさ)の店多し」とあります。伊吹山は、美濃・近江の国境に聳える海抜1377mの山で、その頂から濃尾平野へ吹き下ろす伊吹颪は烈風として知られています。南麓に北国街道が通じていて、『岐蘓路安見絵図』(柏原)も、「柏原の北六里に小谷山あり。道より見える。北国海道なり」と記します。平安時代、諸国から朝廷に献上する薬種は伊吹産が最も多く、その伝統の中で産まれたのが伊吹艾です。大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p277)も、「伊吹艾をひさぐもの多し」と記述しています。江戸時代、松浦七兵衛(6代目)の亀屋佐京が有名でしたが、その宣伝方法は、吉原の遊女に、「江州柏原伊吹山の麓亀屋佐京のきりもぐさ」という文句を歌ってもらうというものです。結果は功を奏し、亀屋は中山道の名所として全国に知られ、大名、文人墨客など多くが立ち寄ったそうです。

 当作品は、まさに、宿中街道の左手にあった、この亀屋佐京の店を描くものです。店の中央壁(障子)に「かめや」、右手の暖簾に「亀屋」「かめや」、左手の壁に「亀屋」とあります。右側の衝立に「○藥艾」とあって、こちら側が伊吹艾の売り場です。その右端には商売繁盛の縁起物福助人形が鎮座し、左側には伊吹山の模型が置かれています。なお、店は伊吹山を正面北方向に見るはずです。左手、「酒さかな金時のちや」の提灯がある方が茶亭で、金太郎の置物が飾られ、その奥の庭には旅人の目を休める庭園があることが判ります。店の前には人足が荷物を杖で支えて休んでいます。

 制作過程は、広重の後掲スケッチ帖を元絵としてそのまま作品に仕立てており、実景描写を旨としています。当作品の構想意図は単純です。広重も亀屋の宣伝に一役買っているということで、入銀作品と見て間違いないでしょう。店内の装飾や奥庭の整備、さらにはその宣伝方法など、亀屋の商売上手な事がよく見て取れます。現在も、「伊吹艾本舗亀屋(伊吹堂)」として営業がなされています。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号9(p210)

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60 美濃国 「今須」

「六拾 木曽海道六拾九次之内 今須」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido61 関ヶ原を発って、不破の関屋の跡がある大関村、峠村、常盤御前伝説の墓がある山中村を過ぎると今須宿に至ります。『木曽路名所図会』(巻之2)によれば、「むかしは居益(ゐます)と書し也。此宿東の端に居益塔下(たうげ)といふ坂あり。峠とは和字也。又訓は手向(たむけ)といふ事なり。嶺(みね)には多く神社あれは手向して通る謂也」と興味深い説明があります。今須宿からさらに西に歩み、車返し坂を上ると「寝物語里」に着きます。同名所図会には、「こゝは近江美濃の國堺なり。長久寺村にあり。むかしはたけくらべといふ。…たけくらべといふは近江と美濃の山を左右に見てゆくところなり」と記されています。また、『岐蘓路安見絵図』(今須)には、「両国の境、小溝をへだち、家をちかく作りならべり」とあります。つまり、国境が溝幅1尺5寸から3尺程故に、両国の者が国境を隔てて寝物語もできようとのことです。ちなみに、大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p278)は、今須の宿口に「不破屋」という「極上合羽処」があるのは、不破の関屋も近く、「よき名なるべし」と記しています。

 作品の制作過程については、前掲名所図会に図版「寝物語里」があります。ただし、広重の後掲スケッチ帖を見ると、「今須宿を上し方」、「みのと近江のさかひ寝物語の由来不破の関屋の旧跡」との書き入れがあって、自身追加取材をしている様子が窺えます。したがって、そのスケッチ帖が元絵と考えるのが自然でしょう。「江濃両國境」と書かれた榜示杭の後方美濃側が両国屋、前方近江側が近江屋にそれぞれ該当します。当作品の店の看板には、「寝物語由来」と「不破之関屋」という案内があり、まさに、広重の取材通りの言葉が書かれています。その中間の目立つ場所に、「仙女香美玄香坂本氏」と読める看板があって、江戸京橋・坂本氏の白粉と髪染めの宣伝となっています。遠方の旅人は今須峠を越えてくる旅人のイメージで、スケッチ帖にも「小坂」との注意書きがあった部分です。注意を要するのは、近景の旅人が何かを見上げるポーズをとっている部分です。浮世絵の定型的表現からすると、国境の榜示杭を見ているということになります。実景描写と考えれば、左の近江と右の美濃の山々を見比べ、古名・たけくらべの里を表現しているのかもしれません。いずれにせよ、そこには、ついに美濃最西端の宿場まで来たという庶民感情が仮託されているはずです。

 今須で美濃路16宿が終わって、さらに中山道は西に進み、次に近江10宿(柏原から大津)に向かいます。その美濃と近江の国境に大きく立ちはだかるのが伊吹山です。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号11(p210)

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59 美濃国 「関ヶ原」

「五拾九 木曽海道六拾九次之内 関か原」  (東海)廣重画 錦樹堂


Kisokaido60 関ヶ原は、伊吹山地と鈴鹿山系が迫る狭隘の地であり、その地勢から、672年の壬申の乱、1600年の関ヶ原合戦の古戦場となった場所です。のみならず、宿中において、北国街道と伊勢街道が分岐し、物流の基点でもありました。宿場の命名の由来は、伊勢の鈴鹿関、越前の愛発関とともに古代3関の1つ美濃の不破関があったからで、『木曽路名所図会』(巻之2)にも、「不破關古蹟」として紹介されています。同名所図会が関ヶ原合戦について触れるところは多くなく、「首塚」として、「関ヶ原宿の西往還の左にあり。又若宮八幡宮の傍越前街道にもあり。慶長戦死の塚なり」とある程度です(その他に、山中村の「大谷刑部少輔吉隆塚」)。前者が西の首塚、後者が東の首塚に該当し、その間が古戦場となります。江戸時代の人々の感覚からすると、(関)東の極め、(関)西の初めという地です。

 当作品の制作過程を考えると、残念ながら、広重のスケッチ帖にはその元絵を見つけることができません。何よりも、当作品の絵柄はどこにでもある風景で、前掲名所図会の図版や『岐蘓路安見絵図』からも参考資料を探し出すことは困難です。後掲『中山道分間延絵図』(関ヶ原)を参照すると、宿場の東口から西口までは家々が間断なく描かれているので、宿場内でないことは想像できます。旅籠や茶店が疎(まば)らになる西口から隣の松尾村辺りと推論されましょう。付け加えて言うならば、その北側に古戦場があることも大事な理由の1つです。

 当作品中央の馬子は帰り馬で、梅の花咲く店の前で客待ちの風情です。追分の宿としては、自然な情景です(前掲「板橋之驛」参照)。中景の2頭の馬は、進む方向に宿場があるとして、問屋場に役馬を提供する様子でしょうか。右側の茶店には、「名ぶつさとうもち」、「三五そばきりうんどん」と書かれた看板が掲げられ、名物紹介となっています。東文化のそばと西文化のうどんの両方が売られている点に、構想の面白さがあります。看板にある35という数字は、広重作品として、「新町」より35番目という意味です。他方で、既述したように、この35という数字は出世作・保永堂版東海道の宿駅53を引っくり返した、広重にとってはとても縁起の良い数字です。当木曽海道シリーズでは、ことごとく保永堂・英泉に割り当てられた数字をやっと取り戻したという思いでしょう。広重が「東海」号を使用していることも、それを裏付けます。関ヶ原は幕府には深く関心のある宿場ですが、広重は東海道53次および自身を広報するという奇策に出たようです。そこには、前掲「垂井」の浮世絵と同様、江戸文化=東軍の広重が関ヶ原を席巻したという自負もありましょう。


*『中山道分間延絵図 十八巻』(関ヶ原) 東京美術・1983
 西の首塚と東の首塚および絵師の視線を挿入。
 
Bn_sekigahara

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58 美濃国 「垂井」

「五拾八 木曽海道六拾九次之内 垂井」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido59 木曽路11宿がほぼ南北であったのに対して、美濃路16宿は東西に綴られています。この美濃路に、北に飛騨道、岐阜道、谷汲道など、南に名古屋道、犬山道、大垣道などが交錯します。垂井宿の手前・東側を流れる相川の追分から、大垣、名古屋、熱田を繋ぐ道を狭義の美濃路と呼ぶことがあります(『旅景色』p76・注)。『木曽路名所図会』(巻之2)が、図版掲載のうえ「養老瀧」を「多藝郡多度山にあり。高さ七丈餘。樽井南道より南貳里許」と紹介するのも、垂井と次の関ヶ原との間に南に繋がる街道が幾筋もあるからでしょう。また、同名所図会は、垂井宿の命名の由来となった「垂井清水」に触れ、「垂井の宿玉泉寺といふ禅刹の前にあり」と記す一方、「宿中に南宮の大鳥居あり」と述べ、「仲山金山彦神社」(南宮神社)に多くの頁を割き、また「南宮金山彦神社」と「南宮祭禮列式」の図版を掲載しています。にもかかわらず、広重の作品を見ると、養老の滝、垂井の清水、南宮大社(大鳥居)など、全くその存在が消されているかのようです。なお、南宮大社は、美濃国の一の宮で、鉱山を司どる神である金山彦命を祭神とし、全国の鉱山・金属業の総本宮です。関ヶ原合戦に際して、大社の南北に東軍西軍が陣を敷いたことから焼失しましたが、後に徳川家光によって再建されています。

 当作品の制作過程は、やはり、広重の後掲スケッチ帖が元絵と考えられます。西の見付辺りを遠近法を用いて描いていることが判ります。背景全体はほぼ同スケッチ帖に従っていますが、雨の中大名行列の駕籠が宿役人の先導のもと宿場内に入り、それを宿内の人々や旅人が出迎えている表現については、構想部分と考えられます。何よりも目を引くのは、左側の「おちや漬」、右側の「御休処」の店の壁に飾られている浮世絵です。とくに左のお茶屋の看板には、「山形に林」の版元錦樹堂の意匠が書かれています。版元と浮世絵の宣伝になっているのは間違いありませんが、それ以上の意味があるのかどうかが問題です。

 雨に隠された背後(西側)は、徳川家康の最初の陣地・桃配山を通って、関ヶ原合戦場に繋がります。その方向から大名行列が歩んでくるのは、画題が武士に係わることを強調するものです。当作品の場合は関ヶ原合戦であることは言うまでもなく、それ故、降りしきる雨も、かつての関ヶ原の古戦場における激しい戦を暗示するものと考えなければなりません。そして、大名行列はさらに宿内を進み、当作品の近景手前にあって、宿場の南側にある南宮大社の大鳥居前で一礼するのかもしれません。宿役人が右手で指示し案内しているのは、宿場の本陣ではなくて、金属神・軍神でもあり、関ヶ原の戦地でもあった南宮大社(大鳥居)ではないかと思われるのですが、深読みでしょうか。関ヶ原合戦を作品に重ねて読み解けば、東錦絵、江戸の華と言われた浮世絵を飾った店は、ここが徳川・東軍側であったことをそれとなく示していると想像できます。いずれにせよ、当作品の雨、大名行列、浮世絵は、関ヶ原合戦と関連付けて初めて意味を持つという理解です。なお、次の宿・関ヶ原ではなく、1つ前の垂井における構想作品であるところが肝要です。ただし、そうなると、関ヶ原では別な仕掛けを用意しなければならなくなるでしょう…。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号10(p210)

S_tarui

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57 美濃国 「赤坂」

「五拾七 木曽海道六拾九次之内 赤坂」  廣重画 錦樹堂


Kisokaido58 美江寺から赤坂に行く途中、渡し船で呂久川を越えると赤坂の宿場に到着しますが、その宿の入口に杭瀬川があります。杭瀬川は下流で、先の呂久川と合流し、伊勢・桑名に流れ込みます。つまり、赤坂は、揖斐川水系の川岸に発達した宿場で、赤坂湊による舟運の拠点であったことが重要です。『木曽路名所図会』(巻之2)にも、「杭瀬川 赤坂宿の東にあり。呂久川へ流れ入。下流に杭瀬川村あり」とあります。また、同名所図会の図版「赤坂」には、「谷汲道」の記載があって、説明によれば、「谷汲観音 美江寺より五里北なり。山深うして道嶮し。西國札所三十三番打納也。寺を華厳寺といふ。開基を豊然上人となつく。延喜年中の建立なり」とあります。西国巡礼結願地への追分でもあり、さらに繁栄の地であることがよく判ります。

 なお、『岐蘓路安見絵図』(赤坂)によれば、関ヶ原合戦直前に布陣した徳川家康が命名した「勝山」、平治の乱で敗走した「よし平よしともとも長の石塔」、源氏一族を助けた青墓の長の屋敷跡があり、かつての宿駅「青墓村」、小栗判官と照手姫伝説の「てる手の松しみづ」、平安末期の大盗賊熊坂長範ゆかりの「長範物見の松」等多くの名所があり、前掲名所図会も図版「青墓里 長範物見松」によって一帯を紹介しています。しかし、広重は自身の後掲スケッチ帖に基づいて、宿場東口の杭瀬川に架かる土橋と宿場入口を示す榜示杭の背後に宿場を描くという素っ気ない対応です。橋を渡る人々が雨支度をしていますが、これが次作品「垂井」の雨天の予兆ならば、この点に唯一の構想性(絵の情緒)が認められましょうか。川湊のあった杭瀬川の水が少ないのが気になります。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号9(p210)

S_akasaka

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56 美濃国 「美江寺」

「五拾六 木曽海道六拾九次之内 みゑじ」  (弌立斎)廣重画 錦樹堂


 第六グループ(絵師は全て広重、版元については一部保永堂)56~70枚が始まります。木曽海道シリーズを、東海道シリーズに対応する55(53+2)枚に15枚を加えた70枚構成と考えると、残り15枚は、ある面では木曽海道シリーズの中では独自な部分に当たります。鳥居本を別にして、広重が木曽街道を旅した後の作品群に相当します。基本的には、広重のスケッチ帖に倣って描いたと推測されます。


Kisokaido57 中山道は、太田で木曽川(太田川)、河渡で長良川(河渡川)をそれぞれ渡り、次は美江寺で揖斐川(呂久川)を渡るということになります。『木曽路名所図会』(巻之2)は、「美江寺」で、第一に「美江庭寺旧地」を紹介しています。美江庭寺旧地は、「此宿内権現社の地旧蹟なり。美江寺観音は養老年中伊賀國より當國本巣郡十六条村に移し勅願所を建立ある。これを美江寺といふ」とあり、その後、土岐一族の保護を受け、一族が滅ぼされた後は、織田信長によって岐阜今泉村に再興されたと記されています。引用箇所にもある、美江寺の旧名「十六条村」からも判る通り、美江寺一帯は奈良時代の条里制が残っている地域です。その歴史から、当宿場に存在した美江寺「観音」は、かつて治水工事を指導・実行した渡来人の置き土産と見ることができるのではないでしょうか。いずれにしろ、美江寺の風景は、川、湿地、水田等であることが想像できます。

 当作品の制作過程は、広重の後掲スケッチ帖が元絵と思われます。当作品の風景描写から判ることは、老僧と農夫が話す場所を街道と見て、その手前脇には椿の花が咲き、背後脇には竹林が繁っています。椿は治水事業に当たった古来の渡来人が日本に持ち込んだ花の子孫と考えると、広重は歴史的風景を描いたことになります。竹林や川辺に打ち込まれた水除杭は、治水対策の跡です。遠景に見える家々は美江寺の宿場でしょう。この辺りの集落は、川の氾濫から家屋等を守るために周囲を堤防で囲んで、輪中を形成していました。なお、当作品の場所は、揖斐川(呂久川・杭瀬川、『木曽路名所図会』巻之2の図版)ではなく、宿場の西側近郊にあった犀川と見るのが一般的です。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号10(p210)

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55 美濃国 「河渡」

「五十五 岐阻(キソ)路ノ驛(ヱキ) 河渡(カウト) 長柄(ナガヱ)川鵜飼舩(ウカイフネ)」  英泉画 保永堂


Kisokaido56 加納宿を発って西に進むと、長良川を渡って河渡宿に到着します。『木曽路名所図会』(巻之2)は、その「長柄川(ながらがは)」について、「岐阜の北町端(はづ)れ因幡山の麓を流る。水源飛騨國より出て下流は墨俣川なり。中夏の頃より秋まで鰷(あゆ)多し」とあり、また、「鵜飼舩は長柄村より尾州侯の命令を受て暮かたより河上に漕のぼり闇の夜に松明を照らし舩のめぐりにさし出し鵜飼の綱をさばき鵜をつかふけしき又めづらし。一人して鵜を十二三羽あつかひ鰷をとらす事いと興あり」と記します。そのうえで、後掲図版「長柄川鵜飼舩」を掲載しています。当作品が、同名所図会の図版と解説を種本にしていることは明らかです。同図版では、3人1組で忙しく鵜飼漁を行っているのに、英泉作品では2人1組で、煙管を吹かしながらというのは、絵師の観光的関心の表れかもしれませんが、構想図(絵空事)の特徴とも言えましょう。

 美濃路は、概略的には、東部の宿場(落合から鵜沼の9宿・尾張藩)が丘陵・台地を綴っていたのに対して、西部の宿場(加納から今須の7宿)は木曽川水系の低湿地帯を進み、集落の周りに堤を築いた、いわゆる輪中地域の北側を抜けていきます。河渡辺りの風光の特徴は、長良川とその源流に当たる稲葉山となります(前掲名所図会にも「河渡川」と「岐阜稲葉社」の2図が掲載されています)。前掲名所図会の図版が、長良川の鵜飼とスヤリ霞の背後に稲葉山らしき岐阜の山々を描いたのも頷けます。英泉は、当図版を元に、しかし、スヤリ霞を消して、宿場近郊の河渡の渡しでの鵜飼の様子を描いたと考えられます。背後に描かれる山は、岐阜城のあった稲葉山(金華山)を想定しているはずですが、実景的には、さらに上流でなければ見えない景色です。ただし、当木曽海道シリーズにおける英泉作品では、前景と後景の視点の不一致は常套的なことです。

 芭蕉の句、「おもしろうてやがてかなしき鵜飼かな」の情緒が画題です。


*注1:『木曽路名所図会』巻之2(長柄川鵜飼舩)

Nagaegawa

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54 美濃国 「加納」

「五拾四 木曽海道六拾九次之内 加納」  廣重画 錦樹堂


Kisokaido55 『木曽路名所図会』(巻之2)は、加納について、「鵜沼まて四里八町。當城主永井侯三万二千石を領ぜたる。町長し。又商人多し。岐阜へ壱里町續(つゞき)きなり」とあって、城下町であることが示唆されています。『岐蘓路安見絵図』(加納)に、「ぎふ道 ぎふへ一り有。信長公の居城也し」と記されるように、加納は、岐阜道と名古屋道との中継地に当たり、美濃16宿中最大の宿場町として発展しています。

 当作品は、宿場から南東方向に見える加納城を背景に、松並木の中山道を江戸方向に歩む大名行列を描いています。加納宿が城下町であることに関連して、大名行列を配置したものと思われます。ちなみに、『旅景色』(目次)は、城下の宿場として、高崎、安中、岩村田、加納を挙げています。高崎には高崎城の土盛部分、安中には大名行列、岩村田には川中島合戦の見立て、加納には再び大名行列といった具合に、城下町(武士)を意識した題材となっています。他方、本庄と落合に描かれる大名行列は、城下町という視点ではなく、川幅や坂道の長さを表現する道具として使われていると考えられます。

 制作過程について、当作品は広重の後掲スケッチ帖に基づいていると考えて間違いないでしょう。街道脇の土産物屋を見ると、軒数などスケッチ帖そのままではないことも明らかになります。この点から、作品が構想図はもちろん、実景図であっても、同じ景色があると仮定して、それを探す試みには十分な注意が必要なことが判ります。


*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号163

S_kano

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53 美濃国 「鵜沼」

「五十三 木曾街道 鵜沼(ウヌマ)ノ驛 従犬山遠望(イヌヤマヨリヱンバウ)」  英泉画 竹内・保永堂・左枠外に竹


Kisokaido54 『木曽路名所図会』(巻之2)には、「こゝより尾州犬山の城見ゆる。名古屋へ七里あり」と記され、後掲図版「犬山針綱神社」の中に犬山城が描かれています。英泉は、この図版を応用して、犬山城から鵜沼宿を遠望する構図の作品を制作しています。大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p282)は、「はるかに塔のごとくみゆるは犬山の城楼也。山の上につくりたれば、いや高くみゆ。板橋ある川をわたりて鵜沼の駅にいる」と記し、当作品の犬山城が塔のように描かれている理由をはからずも明らかにしています。

 犬山城の本丸にあった天守は、外見は3階、内部は6階造りで、二の丸、三の丸と段々高度を下げながら続きます。当作品では、大手門から堀を越えて城下に橋が架かっている部分が見えています。城の対岸に道があり、その岸辺から小船が渡ってくるのが描かれていますが、これは鵜沼宿の南から犬山城下に繋がる犬山道です。遠景の黄色の山々と水田・草原の間に見える家々が鵜沼宿辺りと思われます。

 塔のように描かれた天守閣は、前掲名所図会に倣ったとは言え、実景とはかなり異なります。尾張藩(附家老・成瀬氏)の城であり、城内の詳細をありのまま表現することにはやはり問題があって、一種戯画的に描いたと想像されます(後掲「加納城」参照)。また、木曽川沿いの丘上にある城の佇まいが長江流域にある白帝城(三国志・劉備の臨終地)に擬えられることもあり、当作品は漢画風に表現されています。これも、現実の風景から離れた姿を映す理由の1つだと思われます。


注1:『木曽路名所図会』巻之2(犬山針綱神社)

Inuyamajyo

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52 美濃国 「太田」

「五拾二 木曽海道六拾九次之内 太田」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido53 伏見宿で再び木曽川と出合った中山道は、太田宿で木曽川を渡河することになります。この辺りでは、木曽川は太田川と呼ばれています。『木曽路名所図会』(巻之2)は、太田川に関して、「驛の東にあり。舟わたしなり。木曽川の下流にて早瀬なり。此川より一里上(かみ)に河合といふ所あつて木曽川飛騨川とひとつに落合ふ。飛騨川も大河なれども木曽川より細し。太田川の下は尾越川也。太田川より西がしは可児郡(かにごほり)といふ」と記しています。この太田の渡しは、「木曽の桟太田の渡し碓氷峠がなくばよい」と謡われた程の難所です。当作品では、まさに、この太田の渡しが画題とされています。

 制作方法に関して、当作品は、広重の後掲スケッチ帖が元絵と考えられます。実景を写した作品なので、特別な構想というものは感じられません。場所は、左側が下流とすれば、今渡(いまわたり)の渡し場側となります(『旅景色』p70)が、右側が下流ならば、当然、渡河した後の太田宿側の岸辺となります。広重の描法(『名所江戸百景』「川口のわたし善光寺」など)、および実景という視点で浮世絵を理解する見解(岸本『中山道浪漫の旅 西編』p83)を尊重して、後説(右側が下流)に賛同します。

 近景左側の2人は巡礼姿、右側2人と川岸にいる3人の旅人は、渡し船の到着を待っている姿です。大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p284)は、「大田川をわたるには、一町ばかり川上より舟にのるに、流れ急にして目くるめくばかり也」とあり、おそらく、広重も川下に流れる船を操舵する船頭とその船を待つ旅人達を中景に表現しようとしたのでしょう。しかし、とても悠揚な雰囲気で、難所のイメージからはやや遠い仕上がりです。なお、太田より鵜沼に向かう途中に観音坂という場所があって、そこには「勝山窟(いはや)観音」の名所があります。『岐蘓路安見絵図』(大田)によれば、「岩窟の内にくはんおんを安置す。此辺左りは木曽川流れ、川辺に岩多く、川向の山々好景也」とあります。後年、太田の渡場(岐阜県美濃加茂市)から犬山(愛知県犬山市)までの木曽川沿岸が「日本ライン」と呼ばれる所以です。


*注1:『秘蔵浮世絵大観 大英博物館Ⅰ』画像番号15(p210)

S_ohta

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51 美濃国 「伏見」

「五十壹 木曽海道六拾九次之内 伏見」  廣重画 錦樹堂


Kisokaido52 『木曽路名所図会』(巻之2)は、伏見について、「これより西は多く平地なり。往還の左右に列樹(なみき)の松あり。東海道の如し。是より東には列樹の松なし。山里なればなり」と記しています。一見すると、「東海道の如し」をテーマにした構想作品のようですが、時期的には、中山道を旅した後の作品になります。画面の中央部辺りに大木を据えて、その周りに街道を旅する人々を描き込む手法はそれ以前から広重お得意のもので、たとえば、保永堂版東海道「袋井」や「濱松」などにも見られます。当作品では、広重の「構想」とスケッチ等を元にする「実景」との調和という観点で、作品を分析してみます。

 狂歌絵本『岐蘇名所圖會』(初篇)に、部分図ですが、「伏見」を描いたものがあります。はたして広重のスケッチ帖に元々あったものかどうか、確定する材料は残念ながらありません。そこで、後掲『岐蘓路安見絵図』(伏見)と対比すると、伏見宿の背後に位置する「可児山」と宿場風景を描いたものであることが判ります。同安見絵図には、「木曽川かに山の後より流る」と注意書きが付されています。広重作品の遠景部分は、この部分を応用したものと推測できます。同様に、当作品の遠景左側部分も同安見絵図と照らし合わせると、木曽川の水面と新村(志村)湊辺りを表しているのではと思われます。この湊は、中山道の山道を辿ってきた旅人を木曽川の川船に誘う好位置にあり、街道情報としては重要度が高いと言えます。

 当作品の前景部分は、従来の構想作品にあった手法で、街道を手前に曲げ、あるいは端的に切り取って、そこに旅人の様子などを細かく表現するものです。構図の中心にある大杉は、通例、前掲安見絵図に、「名古屋道 犬山へも道有」と記される犬山街道沿いにあった「伏見大杉」を転用したのではと解されています。中山道から外れる脇道の大杉を使ったのは、「東海道の如し」と言われる松並木を実景表現したのではなく、構想的表現であるという暗号でしょうか。画中右側の3人の瞽女(ごぜ)は、前宿御嶽にあった願興寺(蟹薬師)を拠点に活動していた旅芸人です。左側の日傘をさす田舎医者は、同じく薬師から発想されたのでしょう。これらは、広重『東海道風景図会』(嘉永2・1849年)によって知ることができます。大木の前にいるのは、台傘と長柄傘をもった中間で、大名行列の別働隊と思われます。大木の下にいるのは、昼飯を食べる巡礼の夫婦と昼寝をする修行者です。こちらは、スケッチ帖に似た人物が描かれています。つまりは、前景は東海道の如くと言われる、伏見の街道風俗を紹介する趣旨ということになります。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(伏見)

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50 美濃国 「御嵩」

「五拾 木曽海道六拾九次之内 御嶽」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido51 『木曽路名所図会』(巻之2)によれば、「御嶽(みだけ)」は、伝教大師の作と伝わる蟹薬師を祀る、天台宗大寺山願興寺を中心に発展した宿場です。同名所図会には、同時に図版「御嶽驛 可兒藥師」が掲載されています。その他に、「和泉式部墓」という名所もあります。ところが、広重は、夕景の中、川沿いの1軒の鄙びた木賃宿を描いています。広重のスケッチ帖には、御嵩の木賃宿の絵は発見できないので、中山道の旅の体験を元にはしつつ、一種の構想図として理解します。通例は、当作品中・左中段に荷を背負った男が山中の坂を登ってくるように見えるということで、確かな根拠ではありませんが、宿場の東部謡坂(うとうざか)にあった十本木の立場風景と解しているようです(『旅景色』p68)。ただし、十本木立場とすると立場茶屋となり、木賃宿の情景とは一致しません。

 当作品から判ることは、破れ障子に「みたけしゆく きちん宿 ○○や○○」、柱行灯に「○嶽山・○神燈」と書いてあり、後者は「御嶽山・御神燈」と読めます。つまり、この木賃宿は、「御嶽宿」にあった「御嶽山」および「かにやくし」(?)参りのための簡易宿泊施設と想定されます。蟹薬師は有名ですが、「御嶽山」については、大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p285)が、「駅を出て、山あひの田みちを松のなみきにそひてゆく事数十町、右のかたに小社二つばかりみゆ。みたけ山はいづくぞと輿かくものにとへば、右のかたに高く聳へたる山なり。木立しげりてみゆ」と記し、御嵩宿では、「みたけやま」が旅人の関心であることが判ります。また、『岐蘓路安見絵図』(細久手)には(前回ブログ注1参照)、「蔵王山よし野の蔵王を勧請しけるにや吉野を御嶽といへば此宿をみたけと名付たるならん」とあって、宿場の命名由来として、「御嶽(蔵王)山」にやはり注意を向けています。以上から判断して、当作品左側背後に描かれる山は、漠然とした山ではなくて、御嵩の宿場風景を表現するもの、すなわち、宿場南の「御嶽山」もしくは蟹薬師の北に位置する御嵩富士、またはその両方のイメージと捉えるべきでしょう。その御嵩宿の山を見通す坂となれば、同安見絵図からは、「さいと村」と「いぢり村」の間にある「さいと坂」辺りから宿場方向を望む構図となります。結局、井尻村から西は平坦な地形なので、東側から御嵩宿を見遣る夕景と結論づけられましょう。

 重要なことは、広重が、一般の旅籠ではなく、安価な庶民向けの木賃宿を選択したところにあります。人物群を具体的に観察してみると、宿の前の小川で米を研ぐ老婆を眺める子供は、柄杓を腰に差しており、抜参り(伊勢参り)姿と思われます。次の伏見宿に「名古屋道」(犬山街道)の追分があることと関連した題材です。「同行二人」の笠の下に座る女は巡礼です。また草鞋を解いている男は、蓆(むしろ)に置かれた六部笠から六部僧と判ります。その他、宿の外には、右手に水汲みの女(スケッチ帖に似た人物が描かれています)、左手に荷を運んでくる男と2羽の鶏といった日常景が描かれ、地元民が生活の中で木賃宿を経営している感じがよく出ています。登場人物は広重が実際出会った人々かもしれませんが、作品構成全体は、前掲「細久手」と同様、構想作品に分類されるはずです。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(御嶽)

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49 美濃国 「細久手」

「四拾九 木曽海道六拾九次之内 細久手」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido50 北東に御嶽山、北に白山、西に伊吹山、南に伊勢湾を望む琵琶峠を越えて、途中、弁天池を通過し、松林の中の坂を進むと細久手に到着します。『木曽路名所図会』(巻之2)は、細久手に関し、「坂多し。京より下りは此所まで登り坂多し。これよりひがしは下りがち也。細久手は土地の高き所なり」とあります。大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p287)は、宿を発って、「松の間の山道をゆくに、左右みな谷地なり」と記しています。当然ですが、後掲『岐蘓路安見絵図』(細久手)は、反対に、「是より西下り坂多し。みたけ迄三りの間山坂谷合の道也」としています。

 当作品は、現存する広重のスケッチ帖の中に同様の風景を見つけ出すことができません。それでも、実景的要素に重心を置いて検討すると、中山道に山道が合流し、眼下に宿場、遠くに山々を見通すことができるのは、宿場東側の切山辻の見晴台ということになりましょうか(『ちゃんと歩ける中山道六十九次 西』p62、岸本『中山道浪漫の旅 西編』p71)。画中の人物の幾人かは、スケッチ帖にほぼ同様な姿を見つけることができますが、しかし、左3本、右2本の松の間から山々を見る表現は、どちらかと言えば、構図重視で、前掲「本山」作品の焼き直しのような印象を受けます。とすれば、当作品には「本山」と同じ構想意図があると見るべきでしょう。すなわち、十三峠、琵琶峠など美濃高原の峠越が終わって、後は京都まで下り坂がある程度なので、2本の松と街道が作る三角形はその出入りの門であるということになります。宿場方向から坂を上ってくる旅人は、この門を潜って美濃高原に入って行くことになり、他方、肩に担いだ刀に竹の水筒をぶら下げた武士は、その道のりを終えて宿場に向かって行く姿です。これが、中山道における細久手の位置づけ(街道情報)となります。

 背負子姿で山道を歩いて行く人は、柴を集めに行くのでしょう。前掲「大久手」の2人が柴を一杯背負って峠を登って行く姿よりも、現実的です。また、鎌を持っている男女2人の農民は、『旅景色』(p67)が言うように、山間地の特性として、楮(こうぞ)(紙の原料)・青苧(あおそ)(布の原料)などを刈り取りに行く姿なのかもしれません。いずれにしろ、スケッチ帖から判断して、旅の途中、広重が実際に見かけた人物や風俗情景を挿入したと考えられます。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(細久手)

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48 美濃国 「大湫」

「四拾八 木曽海道六拾九次之内 大久手」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido49 大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p288~p289)によれば、「松の間をゆきて六七町も下る坂を西行坂といふ」坂を反対に上り、同書に約20程紹介される十三峠の坂を上り下りし、最後の寺坂を抜けると大湫の駅に至ります。さらにその西方には、風光明媚な琵琶峠があり、『木曽路名所図絵』(巻之2)には、「琵琶嵿」の後掲図版とあわせて、「琵琶嵿」、「母衣(ほろ)岩」、「烏帽子岩」の解説があります。すなわち、「琵琶峠 細久手より壱里餘にあり。道至つて嶮しく岩石多く登り下り十町許也。坂の上より丑寅の方に木曽の御岳見ゆる。北には加賀の白山飛騨山の間より見ゆる。白山は大山なるがゆへに麓まで雪あり。日本三番の高山也。西に伊吹山みゆる」とあり、「母衣岩 琵琶峠の下にあり」、「烏帽子岩 右の緑(くさはら)にあり。いづれも其形をもつて名とせり」と記します。

 当作品は、前掲名所図会の図版と見比べると、この2つの大岩辺り、とくに母衣岩を描いたものと思われます。沢山の柴を背負子に積んだ夫婦は琵琶峠の方向に登っていくように見えますが、構想的には疑問に感じます。なお、母衣岩と烏帽子岩ではなくて、その手前の大洞(おおほら)にある無名の岩を広重が描いたとする見解があります。しかし、当作品は広重が中山道を旅する前の構想図なので、形状が似ているのは偶然の一致と考えます。この点について、岸本(『中山道浪曼の旅 西編』p66)は、「無名に近い岩とさりげない風景は、現地を実際に見た絵師にしか描けない」と述べていますが、広重はまだこの時点では実見していないはずです。


注1:母衣岩は、保永堂版東海道『奥津』に描かれる川岸の大岩とほぼ同じ描き方です。広重は、実景を見ても見なくても描ける絵師ですが、この岩の描法は、広重の構想作品によく見られるものです。


注2:『木曽路名所図絵』巻之2(琵琶嵿)

Biwatouge

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47 美濃国 「大井」

「四拾七 木曽海道六拾九次之内 大井」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido48 当作品は、制作中断前の構想図であるということが重要です。『木曽路名所図会』(巻之2)には、図版「大井驛」があって、宿場の西側の大井橋を渡って、西行坂等の峠道や「伊勢名古屋道」の追分などが描かれています。また、後掲『岐蘓路安見絵図』(大井)には、「大井より大久手迄の間十三峠といふ。坂多し」と記される他、やはり、「名古屋道いせ参宮の人是よりわかるもよし」との注意書きがあります。つまり、大井宿は、西に難所十三峠を控え、下街道(伊勢名古屋道)、秋葉道などの追分もあって、美濃路16宿の中でも最も繁栄していました。それ故、天保14(1843)年の宿村大概帳によれば、総人口466人、家数110戸、本陣1、脇本陣1、旅籠屋41と最大規模を誇っていました。なお、同名所図会には、「西行法師塚 大井の宿半里西中野村にあり。五輪石塔婆を建る」、「西行硯池 中野村にあり」とも記されていて、宿場の西側に西行ゆかりの名所ポイントがあることが判ります。

 以上を踏まえると、馬子に引かれた馬上の商人らしき旅人は、「西行硯池」を過ぎ、「西行坂」を上り、進行方向右に「西行法師塚」を望み、「十三峠」に入って、2本の松(一里塚の松か?)の間の中山道を西に行く姿と考えられます。浮世絵では、雪降る描写は何か事件・事故あるいはそれに絡む思いを暗示することが多く、当作品の場合は、西行終焉の地であることを表現していると想像できます。西に行く旅人は西行であり、同時に西(方浄土)に逝くという意味ではないでしょうか。翻って、当作品の背景は、右の松の背後が恵那山、中央手前ないしはその左が笠置山で、いずれも美濃国を代表する山です。左の松の背後の山は木曽の山々のイメージです。敢えて言えば、一番奥が構想上の御嶽山(実景上は木曽駒ケ岳)、一番左は実景上の御嶽山となります。前掲「和田」で、街道正面に構想上の御嶽山、実景上の甲斐駒ケ岳が描かれているのと、同じ理屈です。

 『旅景色』(p65)およびそれに影響された見解では、当作品は大井宿の東手前にあった「甚平坂」を描くものと解しますが、それは当作品が実景図ではなく、背景を書割り的に挿入する構想図であることを忘れています。構想図では、作品の前景が主題を担います。当作品の場合は、大井宿が西行終焉の地であるという伝説がそれに当たります。一歩譲って、当作品が『旅景色』の言うように甚平坂を描いたとするならば、坂の左手に「根津甚平塚」があることから(『岐蘓路安見絵図』中津川参照)、その終焉地を降り積もる雪で表現したという理解になります。しかし、街道案内として、十三峠入口にある西行塚(坂)程のインパクトはありません。この点について、三代豊国『木曽六十九驛 大井』が副題「西行坂 うつしゑ」とし、西行坂と西行の娘・うつしゑを描いていることが参考になります。ちなみに、前掲名所図会には、「根津甚平墓 大井の東石塔村にあり。甲州武田信玄の家臣なり。鷹を追来りてこゝに没す」とあります。他方で、もっと古く、鎌倉時代の宝筐印塔であるとの説もあります(児玉『中山道を歩く』p297参照)。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(大井)

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46-2 美濃国 「晴れの中津川」

「四拾六 木曽海道六拾九次之内 中津川」  (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido47 当作品は、中山道旅行中のスケッチ帖を元に制作されたと推測されます。後掲作品は、同じスケッチ帖から制作されたと考えられる、広重『岐蘇名所圖會』(中津川駅)です。『岐蘓路安見絵図』(中津川)を参考にすると(前回ブログ注1参照)、中津川宿の西側を流れる中津川に架けられた土橋が前景に描かれ、岸辺の枝垂柳の大木、修行僧、畚(もつこ)を担ぐ人、荷札を立てた長持を担ぐ人足などの行き交う姿が見えています。中景の宿場背後の山は、同安見絵図に「小高き山の上に有。遠山佐渡守領地一万三千石。中津川より一り」と注意書きされる、「苗木の城」がある場所でしょう。1万石余りの小藩ながらりっぱな城を持つことで有名でした。

 「雨の中津川」と「晴れの中津川」を比べると、前者の絵番号は「四十六」、後者は「四拾六」となっており、前後の絵番号に関して広重は「拾」を使っていることから、「晴れの中津川」の方がシリーズの正当な立場を占めるものと考えられます。とは言え、なぜ2種類の作品が制作されたのかの問題は残ります。通例は、版木の紛失など不可抗力を挙げることが多いのですが、当講座の主張を前提にすると、明智光秀を読み込んだ(と解しうる)作品の持つ危険性から、版元など制作サイドが「雨の中津川」の正式版としての版行を止めたという結論になります。いずれにしろ、徳川幕府の視点では、美濃国は、西国(豊臣方)大名との緩衝地帯という位置づけなので、中山道が信濃国から美濃国に入ったことは、難路の国境を越えたというばかりではなく、意外にも、地勢的(政治的)な意味において制作上注意を要する事態なのです。


注1:『岐蘇名所圖會』(中津川駅)

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46-1 美濃国 「雨の中津川」

「四十六 木曽海道六拾九次之内 中津川」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Digital046 後掲『岐蘓路安見絵図』(中津川)に従うと、宿場を発ち中津川を越えると、「こまんば」、立場「小いせ塚村」、「せんだ林」、立場「坂本」と続きます。駒場を中心に何れかの地に、かつての東山道宿駅・坂本があったと言われています。『木曽路名所図会』(巻之2)にも、坂本は、「大井宿中津川の宿の間なり。むかしは此所宿駅なり。延喜式にいふ坂本の駅これ也」とあります。

 当作品は広重が制作を中断する前の、構想作品に属します。雨合羽を着た3人の武士は、竹馬を担いだ2人の足軽と槍を担いだ中間で、大名行列の殿(しんがり)の者達です。雨中の背景の山影が恵那山と看做されるので、中津川を発って落合方向か、もしくは坂本の立場などから中津川方向に歩んでいると想定されます。榜示杭など宿場を示す施設がとくにないこと、前掲名所図会が宿駅・坂本に触れていることから、坂本の立場から中津川に進む構図と理解できます。前掲安見絵図には、「中津川水出れは往来とまる」、「此辺皆山の峯を通る也」とあって、低地・湿地を推測させる記述です。雨が降れば、旅人は当然水難を避けて宿場に急ぐことになります。当作品の鷺が生息する湿地の描写もその状況を匂わせるものかもしれません。胡粉を使って表現された白雨も、水に弱い中津川の土地柄に合わせた表現と考えられます。実景を重視する立場から、駒場もしくは上宿池(一里塚)辺りとする見解もあります。

 構想作品という点から、もう少し深読みしてみます。実は、三代豊国『木曽六十九驛 中津川』は、「坂本 武智光秀」という副題の下に、立場・坂本から近江坂本を想起し、その城主明智光秀を描いています。これを着想のヒントにすると、当作品の雨で隠された恵那山は美濃国に係わる事件を象徴し、それは、美濃守護土岐源氏の一族であり、明智郷出身の光秀に係わることであるという説を提案します。『美濃国絵図』(『旅景色』p61)にも、「明知」の名が2ヶ所に記されていて、明知ゆかりの土地柄と判ります。たとえば、この激しい雨を五月雨と見れば、光秀の妻「皐月」の涙雨とも(歌舞伎『馬盥』参照)、また、本能寺の変の前に詠んだ連歌の発句、「時は今雨が下しる五月哉」にも符合するのです。広重の構想作品には、土地ゆかりの人物や稗史に絡む情緒が作品の背景とされていることが多く、木曽路では木曽義仲の興亡等が仮託され、美濃路でも同様の思考で光秀が読み込まれていると解することが可能なのです。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(中津川)

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45 美濃国 「落合」

「四拾五 木曽海道六拾九次之内 落合」  (一立斎)廣重画 錦樹堂(意匠)


Kisokaido45 これより、美濃国に入ります。『岐蘓路安見絵図』(落合)に、「落合より西猶所坂あれとも既に深山の中を出て礆難なくして心やすくなる。木曽路を出て爰に出れば先ツ我家に帰り着たる心地する」と記されるとおり、以後、主として、穏やかな風景作品が続きます。

 『木曽路名所図会』(巻之3)によると、馬籠と落合の間の「十曲嵿」に「美濃信濃國堺」があるとあり、また、「里人は十石(じつこく)峠といふ。十曲(きよく)とは坂路(はんろ)九折(つゞらをり)多ければ名に呼ぶ」とも記されています。この石畳の峠を越えると、落合橋に至り、その橋を渡って坂道を登ると落合の宿場に着きます。落合橋について、同名所図会は、「宿の入口にあり。釜が橋ともいふ。双方より梁(うつばり)を出して桟橋とす。橋杭なし」とあって桁橋のはずですが、広重作品では通例の板橋のように描かれています。大名行列が枡形を通って宿場から下ってくるので、橋の手前が馬籠側です。したがって、背景は南側を向いていることになり、そこにぼかしを使って描かれた山は、やや位置が違いますが、恵那山となります。恵那山から流れ来る川がこの地で落ち合うので、地名も落合と呼ばれるようになったと言います。同名所図会に、「駅の西之方に杉の大樹多くある林あり。其中に落合五郎が霊を祭祠あり」とあるので、宿場背後の林は、そのイメージなのかもしれません。なお、広重が大名行列を描く場合、城下を暗示させることがあるのですが(前掲「安中」、後掲「加納」)、当作品の場合は、平らかなる街道であること、あるいは長い道程であることを示そうとしていると思われます。

 当作品を読み解く際には、前掲名所図会の情報は確かに有用でしたが、しかし、掲載される「落合橋」の図版と広重作品の構図とはかなり異なっていて、とても元絵等の資料になったとは考えられません。当作品に対しては、実景描写に近い印象を受けるのではないでしょうか。ここで、当ブログの総説で述べた話の要旨を思い出して下さい。すなわち、広重はシリーズ版行半ば、一時制作を中断し、その間中山道を旅し、京都に上る途中の街道風景や人物などをスケッチしています。そして、制作再開後、この時のスケッチが参照されて作風に実写性がより強く加味されることになります。つまり、当作品は、中山道旅行中のスケッチ帖を元に制作されたものと考えられます。この時のスケッチ帖は大英博物館に所蔵されていて、簡単には見ることができませんが、そのスケッチ帖を元に狂歌絵本『岐蘇名所圖會』(嘉永5・1852年)が制作されており、それを参考にすれば内容を推認することができます(注2参照)。「落合」は、美濃路16宿の第1番目の宿場であり、同時に、広重が制作を再開した第1番目でもあるということがここで重要な意味を持ってきます。木曽路11宿完成までは構想を中心にした作品であり、その難路・隘路を乗り越えて後、美濃路・落合からは実景を考案に織り交ぜながら描いていくことになります。

 なお、中断前と再開後の作品は、「広重画」の書体が違うので、容易に区別できます。当ブログでは、再開後の作品については、題名等をイタリック表示にして区別します。


*注1:大英博物館蔵の広重「スケッチ帖」
 楢林宗重『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』(講談社)の解説によると、再発見された広重のスケッチ帖4冊のうち、2冊が中山道を中心に描いており、嘉永5(1852)年刊の狂歌絵本『岐蘇名所圖會』3冊の元になったものに違いないと言います。スケッチ帖から、広重は、中山道を通って京に入り、大坂、播磨、備前にまで足を伸ばし、奈良経由で伊勢に行き、東海道を使って江戸に戻ったと推測されます。その時期は、天保8~9年頃です。『木曽海道六拾九次』の企画が中断したのは、広重のこの旅行が原因であったことが判ります。中断後のシリーズは、このスケッチ帖が基礎資料となっています。


*注2:『岐蘇名所圖會』(落合駅)

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44 信濃国 「馬籠」

「四十四 木曾街道 馬籠(マゴメ)驛 峠ヨリ遠望之圖」 英泉画 たけまこ・保永堂


Kisokaido44 『木曽路名所図会』(巻之3)の馬籠では、「岐蘓路」について、「馬籠峠より東木曽路也。川まで廿一里が間水南へ流る。桟、川、山、御坂、等古詠多し」と、また、「木曽川」について、「街道の左に流る大河にて川中の石大きくして舩なく魚類もすくなし」と総括的に記すのは、同名所図会が京都側から江戸に進むと馬籠が最初の宿場となるからです。したがって、江戸側から描いている当シリーズでは、贄川に始まった木曽路が馬籠をもって終わるということになります。

 英泉作品は、木曽路の出口・馬籠峠を描く意図ですが、前掲名所図会の後掲図版「馬籠より妻籠にいたる」の視点を反対に妻籠から馬籠に変えて描いたと考えられます。同図版の右頁には「男瀧女瀧」があり、また、その上部解説には「馬籠峠 所々に桟道(かけはし)有」とあるので、「男瀧女瀧」が「馬籠峠」にあると誤解したのかもしれません。実際には、『岐蘓路安見絵図』(妻籠)を参照すると(前回ブログ注2参照)、「見事なる瀧也」という男滝女滝を過ぎ、「曲物・木類を改る尾州番所也」とある一石栃白木改番所を抜けると、「峠を越え馬籠に下る坂木曽の御坂也。俗には馬籠峠といふ」にようやくなります。

 当作品の制作経過を上記のような誤解に基づくものとしても、馬籠峠の下に見える馬籠宿や、版によって表現に違いがありますが、遠景の恵那山(場合によっては笠置山)は、実景ではなく、完全な英泉の構想ということになります。ここでは、英泉の絵心と解釈しておきます。険しい峠越えでは、やはり牛が重宝です。


注1:明治5(1872)年、島崎藤村が、馬籠宿の本陣、問屋、庄屋を兼ねる17代目当主島崎正樹の4男として生まれています。


注2:『木曽路名所図会』巻之3(馬籠より妻籠にいたる)

Odakimedaki

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43 信濃国 「妻籠」

「四拾三 木曽海道六拾九次之内 妻籠」  (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido43 三留野宿を出て、諸白の「和合」、餡餅の「合戸(神戸)」を過ぎると中山道は木曽川を離れ、山中を迂回して進むことになります。さらに、『木曽路名所図会』(巻之3)に掲載される「鯉岩」を街道左に見、妻籠城跡を右に望みながら妻籠の宿場に至ります。同名所図会は、「妻籠古城」について、天正10(1582)年、木曽義昌が築城し、同12年豊臣秀吉の命で、山村良勝に兵を授けて城を守らせ、伊那路の菅沼小大膳、諏訪保科の兵を破った古戦場の跡と説明しています。妻籠が伊那(清内路越)への追分の宿場として発展した経緯も読み解けます。

 広重作品を、『岐蘓路安見絵図』(みとの)と対照させると(前回ブログ注1参照)、この妻籠城跡の郭と土塁を北側から描くものであることが判ります。同安見絵図には、「木曽城跡山見事なる山なり」と注意書きが付されています。なお、妻籠城は主郭、二の郭、妻の神土塁から構成されていて、中山道は主郭と二の郭を右に、妻の神土塁を左にする鞍部を通っています(児玉『中山道を歩く』p272)。広重は、その点を色分けして正確に描いています。当作品の中央に描かれる中山道の延長上に見える山は、地理関係から恵那山と推測されます(実景に拘れば笠置山でしょうか)。街道を白装束で手前に歩いてくる旅人は、六部(ろくぶ)と呼ばれる全国行脚の修行僧で、背中に仏像を入れた厨子を背負っています。前掲「須原」作品においても、辻堂内で雨を避けていました。

 なお、後掲『岐蘓路安見絵図』(妻籠)には、「妻籠より木曽川西北に遠く流れ道は東南に行て妻籠峠(馬籠峠)を越る故木曽川遠くなる」と記されており、『旅景色』(p56)が、当作品を南側からの眺望と解する地理感は明らかに誤りです。木曽氏の古城跡を見ながらの旅は、一種蕉風の趣があり、広重の俳諧趣味がよく表れています。当作品を同安見絵図と照らし合わせるとどの場所を描いているのかが理解できるのは、逆に、同安見絵図が広重の基礎資料であることの証でもあります。


*注1:木曽路山中(『木曽路名所図会』巻之3、妻籠)
「谷中せまきゆへ田畑まれにして村里少し。米大豆は松本より買来る。山中に茅屋なくしてみな板葺也。屋根には石を石にして風をふせぐ料なり。寒気烈しきゆへ土壁なし。みな板壁なり。凡(なべ)て信濃は竹と茶の木まれなり。寒甚しきゆへ栽れども枯るゝ。他国にて竹を用ゆる物には皆木を用ゆ。就中桶の箍(わ)には檜木を用ゆ。茶は他国より買来る」
「山には桃紅梅あり。三月末頃皆一時に花開く。又此国にはふじ松とて冬は葉ことごとく落る夏木の松あり。これを落葉松(らくようまつ)といふ」


*注2:『岐蘓路安見絵図』(妻籠)

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42 信濃国 「三留野」

「四拾貳 木曽海道六拾九次之内 三渡野」  (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido42 前宿野尻から当宿三留野の間は、木曽路の中でも大変危険な場所です。『木曽路名所図会』(巻之3)には、「木曽路はみな山中なり」という有名な言葉が記され、続いて、「此間左は数十間深き木曽川に路の狭き所は木を伐(きり)わたして並べ藤かづらにてからめ街道の狭きを補ふ。右はみな山なり。屏風を立たる如にして其中より大巌おし出て路を遮る。此辺に桟道(かけはし)多し。いづれも川の上にかけたる橋にはあらず。岨道(そばみち)の絶たる所にかけたる橋なり」、さらに、「山の尾崎を廻りて谷口へ入また先の山の尾崎をまはる所多し。其谷道に横はりて渓川(たにがは)の流れ木曽川に落合所多し。これにかゝる橋なればあやうき事甚し」とあります。『岐蘓路安見絵図』(野尻)にも、同様の注意書きが付されています。

 ところが、広重の作品を見ると長閑な麦畑での農作業風景となっています。危険な難路を過ぎて、無事、三留野に到着した安堵感がテーマになっているのでしょう。紅白梅が咲く丘の上に建つ、神明鳥居(伊勢宮)が描いた場所を特定するヒントです。前掲名所図会に、「伊勢山」について、「駅の西北にあり。河を隔つ也。里談云。天正十年伊勢宗廟造営の時はじめて此山に入て木を伐る」という記述を見出します。宿場の西方和合村辺り、木曽川の対岸にあった伊勢宮を描いていると考えられます。大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p295)は、此岸の和合村で輿を留めて、和合諸白(もろはく)という銘酒を味わっています。また、後掲『岐蘓路安見絵図』(みとの)には、「和合にて作る酒家あり。能酒なり」という注意書きがあります。食道楽の広重のこと、実は彼岸「いせ山」の景色よりは此岸「和合」に関心があって、旅人の喉の渇きを癒す谷間の清き水と、それによって作られる銘酒の産地を隠れた名所として採り上げていると読み解いた方が、当作品の評価には相応しいのではないでしょうか。

 構図的には、鳥居左手後方の家々の前に蘆が生えているので、対岸の和合村と看做せます。麦畑の中に旅人が佇んでいるのは、旅人が渡河したか、あるいは前面に街道を曲げて挿入する広重流画法と思われます。三留野の宿場にあった東覚寺裏の東山神社から宿場方向を眺めるものという見解もありますが、その場合、なぜ天王社を選ぶのかが疑問です。いずれにしろ、野尻から続く、桟のいくつも架かる木曽路を踏破し、三留野に着いた旅の安堵感が当作品の情緒になっていることが重要です。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(みとの)

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41 信濃国 「野尻」

「四十壹 木曾路驛 野尻(ノジリ) 伊奈川橋(イナカハハシ)遠景」  溪斎画 竹内・保永堂・左枠外に竹


 第5グループ(広重・錦樹堂主体、しかし英泉・保永堂も存在示す)41~55枚が始まります。シリーズ最初の1枚(絵番号41番)は相変わらず英泉・保永堂作品です。また、東海道53次を暗示する絵番号53番、日本橋と三條大橋を加えた55を表す絵番号55番を英泉・保永堂が描いており、広重には不本意な結果となっています。なお、信濃国の最後は英泉、美濃国の最初は広重となっていて、国の初めは広重、終わりは英泉が制作するというパターンは踏襲されています。このグループ15枚をもって、基本的に英泉・保永堂のコンビは終了となります。


Kisokaido41 須原から野尻に向かう途中、今井兼平の城址の手前、伊奈川に橋が架けられています。その伊奈川橋を北西(木曽川)側から描いたのが当作品です。したがって、当作品右側が京方向となります。『木曽路名所図会』(巻之3)には、「いにしへは二十七間にして閣道なり。両岸より大木を夾(さしは)さみ三重中間大水に架す。最壮観たり。後世石を畳て崖とし縮めて十六間とす」とあります。大水の際、上流より流れてくる岩や石から橋を守るため、橋を支える杭を建てない工法の、いわゆる反橋(そりばし)です。画中、橋の左側背後に墨のぼかしを使って、石段と堂宇が描かれています。これは、同名所図会に記される「磐出観音(いはでのくわんおん)」で、「伊奈川村の上にあり。本堂馬頭観音。須原定勝寺に属す」とあります。旅の安全を守る拠り所です。なお、同名所図会の後掲図版「兼平羅城」を見ると、激しい伊奈川、木曽川の流れがよく判ります。おそらくこの左頁が当作品の元絵となったのでしょう。

 ちなみに、当作品には、北斎『諸国瀧廻り』「下野黒髪山 きりふりの滝」の影響を感じます。また、橋下に富士の姿が見えるカラクリが隠されています。広重の前々作品「上ヶ松」は、北斎の同「木曽海道小野ノ瀑布」を手本にしていて、北斎を挟んで両絵師の強い対抗心が読み取れます。


*注1:『木曽路名所図会』巻之3(兼平羅城)

Kanehiraedasiro

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40 信濃国 「須原」

「四拾 木曽海道六拾九次之内 須原」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


 浮世絵において、月に人々の思いが仮託されることがよくありますが、やはり、雨にも特別な意味が付与されることがあります。当作品の雨にはどんな意味があるでしょうか。広重がたまたま雨に遭遇した体験を絵にしたというのは、浅い考え方です。

Kisokaido40 さて、『木曽路名所図会』(巻之3)の須原には、「淨戒山定勝禅寺」、「鹿島祠」の解説と図版「兼平羅城(えだしろ)」、「須原 定勝寺」の掲載があります。定勝寺は、宿場の西口にある臨済宗の寺で、「木曾義仲十一代の孫木曾右京太夫親豊の本願也」とあり、桜の大樹の下に墓もある旨の記述があります。後掲『岐蘓路安見絵図』(須原)にも、「定勝寺木曽氏の寺なり」と注意書きが付されています。その先に今井兼平の城があった城山があります。これらから、須原が木曽氏ゆかりの宿場であることが判ります。また、大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p298)には、「すこしひきいりて大きなる寺あり。定勝寺といふ。小だかき所に鎮守の堂あり」と記し、後者は「鹿島祠」を指すと思われます。また、同書には、「右のかたの墓所のうちに大きなる桜一もとありて、そのもとに墓あり。これ木曾殿の御廟所なりといふ」ともあって、親豊の墓所のことを言っていると考えられられます。

 広重作品を見ると、突然の白雨の中、後景には慌てて街道を走る旅人、前景には杉木立の間にある辻堂に逃げ込む人々が描かれています。『旅景色』(p53)は、その辻堂を宿場の南東にあった須原の鎮守であった鹿島神社と特定していますが、南畝の記述からも判るように鹿島神社は小高き丘にあるので、宿場内でかつ街道近くにあった不特定の辻堂(香取神社、天王社、鹿島神社御旅所など)と考えた方が現実的です。ただし、重要なことは、鹿島神社の辻堂かどうかではなくて、須原の宿場に夕立が襲っている情景であるということです。前段に述べたように、須原が木曽一族ゆかりの宿場であるとするならば、この雨を降らせている主体は木曽義仲を筆頭に木曽一族の思いと考えられます。木曽一族の菩提を弔う定勝寺などがこの須原にあることを、突然の「雨に祟られた」人々の様子を描くことによって暗示しているということです。

 なお、辻堂の中には、編笠を被った虚無僧、祈る六部、柱に何かを書き記す巡礼者などがおり、外には相棒と走る駕籠舁、シルエットの馬子などがいて、街道を旅する代表的人々の活写となっています。ちなみに、保永堂版東海道「庄野」で白雨を降らせている主体は、庄野が白鳥陵の場所と判れば、そこに祀られた日本武尊であることが導き出されます。広重が直接名所を描かない場合でも、その情緒を画中に表現することがあって、白雨を使った両作品はその典型です。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(須原)

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39 信濃国 「上松」

「三拾九 木曽海道六拾九次之内 上ヶ松」  (哥川)廣重画 錦樹堂


Kisokaido39 福島から上松に向かう途中、木曽の桟(かけはし)として名を残す川沿いの橋を過ぎ、上松の宿場を越えると、臨川寺、寝覚の床が右方向に見えてきます。浦島太郎伝説の地でもあります。さらに進むと、街道左方向に小野の滝があります。その先が、なめ川橋です。(『岐蘓路安見絵図』福嶋・上松参照)。『木曽路名所図会』(巻之3)には、「桟道(かけはし)の旧蹟」、「臨川寺 寝覺牀」、「小野瀧」の3図版が掲載されています。広重は、その中から小野の滝を画題に選びました。おそらく、葛飾北斎の『諸国瀧廻り』「木曽海道小野ノ瀑布」を踏襲したものと考えられます。

 前掲名所図会には、「小野村の右の路傍にあり。髙三丈許直下木曽川に落る」とあり、また、「此瀑布泉(たき)は山澗より巌をつたひ只布をさらせるが如く落る。傍に石像の不動尊まします」に続けて、細川幽斎『老の木曽越』が布引・箕面の滝にも劣らないと賞した旨が記されています。なお、大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p299)は、「岩山の上より、滝ふたすぢにわかれて落るさま、白き布をさけるがごとし」と表現していますが、当作品ではその部分は描かれていません。また同『壬戌紀行』には、「左に茶やあり。障子に名物小野の滝蕎麦切とかけり」ともあります。その茶屋については、屋根に石を置いた姿で画中左に描かれています。滝の側(そば)の蕎麦(そば)切の店という地口をおもしろく拾ったのかもしれません。京都から江戸に進む前掲名所図会の後掲図版およびそれを下絵とする北斎作品が基本になっているので、当作品の旅人は江戸方向を向きながら、滝を指差し、眺めていると想定されます。柴の束を天秤で担ぐ村人の歩む方向が京都です。前掲名所図会の不動尊の祠と滝の位置関係を詳細に見ると、当作品とは微妙に異なっています。広重は、あくまでも北斎作品に忠実です。狭隘な巌の間から覗く空が木曽の山間の様子をよく表していますが、いずれにしても、構想図となります。なお、木曽川に落ちる滝がテーマになっているので、派号「哥」を使用しているのでしょうか。


*注1:「木曾桟舊跡(きそのかけはしきゅうせき)」(『木曽路名所図会』巻之3)
「駅路の中にあり。いにしへは山路険難にして旅人大に苦む。慶安元年尾州敬君より有司に命じて桟道を架す。長五十六間横幅三間四尺又寛保年中同邦君また有司に命じて左右より石垣を数十丈築上桟道を除き今往来安穏なり。これを跛許橋といふ。長纔(わづか)三間許聊危き事なし。橋下の石に銘あり。」
 上記から、歌枕の地として有名な木曽の桟は、江戸時代に改修され通例の橋となり、すでに存在しなかったことが判ります。なお、小野の滝も、現在では、どこにでもある小滝に変じてしまっています。つまり、寝覚の床(臨川寺)のみが往古のまま存在しているということです。


*注2:『木曽路名所図会』巻之3(小野瀧)

Ononotaki

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38 信濃国 「福島」

「三拾八 木曽海道六拾九次之内 福し満」  (一立斎)廣重画 錦樹堂・左枠外に竹


Kisokaido38 『木曽路名所図会』(巻之3)によれば、福島は、「木曽谷中第一の豊饒(ぶねう)の地なり。当駅京都江戸等分の地なり。京より福嶋まで六十七里福嶋より江戸迄六十八里半也」とあり、また、「福島關隘(ふくしまのくわんゑき)」として、「駅の右の方に御番所あり。此所女と鳥銃(てつほう)とを御改め遠州荒井の如し」と記され、同時に「福嶋關隘」と「駒嶽遠景 中三権頭兼遠宅趾」の図版が掲載されています。『岐蘓路安見絵図』(福嶋)にも同内容の注意書きが付され、くわえて「御奉行山村甚兵衛」とありますが、その代官屋敷は現存しています。

 当作品は、軍事上の重要性と狭隘な地勢から当地にて築かれた、福島の関所を描いていることは明らかです。冠木門を出入りする旅人の奥、左手の番所で旅人が改めを受ける様子が描かれています。京都より江戸に進む前掲名所図会の記述を前提にするならば、番所が左に描かれているので東門の方向から描いていると推測されます。『旅景色』(p51)が「西門から中を覗いた絵」と判断しているのは疑問です(同趣旨、岸本『中山道浪曼の旅 西編』p25)。一点透視の遠近画法を応用した作品ですが、左右の土手の高低差が極端に表現されているのは、広重お得意の技法です。なお、番所の幔幕に版元錦樹堂の意匠が描かれています(保永堂版東海道「関 本陣早立」参照。こちらの作品では、広重実家の田中紋が飾られています)。


*注1:『木曽路名所図会』巻之3(福嶋關隘)

Fukusimasekieki

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37 信濃国 「宮ノ越」

「三拾七 木曽海道六拾九次之内 宮ノ越」  (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido37 『木曽路名所図会』(巻之3)は、「宮腰」と表記し、また「宮ノ越と書す」として、後掲図版「木曾義仲古城 徳音寺」を掲載しています。それを参照すると、藪原から吉田村を経て中山道を進むと、右側に「山吹山」、「義仲手洗水」、その先の左(木曽川)側に「巴が淵」があり、徳音寺村を過ぎると、右側の小道を進んだ先に「とくおん寺・巴山吹墓」が見えてきます。同名所図会は、徳音寺に「木曽義仲の牌(ゐぱい)を蔵む」とあります。中山道は、木曽川に架けられた橋を渡り、木曽川を右に見て宮ノ越の宿場に至ります。宿場には行かず、左の小道を選ぶと、平家追討の旗揚げをした「八幡宮」、「義仲城跡」、義仲が戦勝を祈願した「南宮祠」があります。その山を南宮山と呼び、その中腹(腰)に位置するので一帯を宮ノ腰=越と呼ぶようになりました。

 義仲ゆかりの多くの旧蹟があるにもかかわらず、広重が描いているのは、どうやら木曽川に架かった橋からの眺めのようです。『岐蘓路安見絵図』(藪原)を見ると、宮ノ越の宿場入口手前に橋が描かれていて、『中山道分間延絵図』(宮ノ越)と対照すると「引塚大橋」とあり、同解説篇(第11巻・p34)には「いまの青木橋と思われる」とあります(その他の説、葵橋)。その近景は、夫婦が3人の子供を連れて橋を渡って宿場の方へと帰っていく姿です。一番後ろの娘は、夕霧のシルエットの中に満月を見つけて、指差しています。遠景は、この先対岸の家々や農夫を輪郭線を使わないで表現しています。なお、当地には、8月14日、子供達が松明を持って山吹山から徳音寺の義仲の墓までお参りをする「らっぽしょ」(だっぽしょ)という祭りがあります(『旅景色』p50、同分間延絵図・解説編p33)。近景の家族がその祭りの帰りとするならば、旧暦14日の満月に近い月齢と祭りの後の寂寥感を表現するものとして、当作品の状況説明には相応しい理解と思われます。

 当作品のように、広重は名所をあえて描かないことがしばしばありますが、その場合、その名所を無視しているのではなくて、その名所にまつわる情緒を第一に描こうとしていると考えるべきです。具体的には、滅び去った義仲への思いを月に映し出し(夢の跡)、それを祭りが終わった後の寂しさ(祭りの後)を使って情緒的に表現しているのです。したがって、当作品は滅び去った朝日将軍木曽義仲を月を使って追悼するものでもあります。前掲「洗馬」の月、あるいは広重の保永堂版東海道「庄野」の白雨などを参照。


*注1:『木曽路名所図会』巻之3(木曾義仲古城 徳音寺)

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36 信濃国 「藪原」

「三十六 木曾街道 藪原(ヤブハラ) 鳥居峠硯(トリ井タウゲスゞリ)ノ清水(シミヅ)」  英泉画 保永堂


Kisokaido36 『岐蘓路安見絵図』には、藪原につき、「此ところ木曽谷へ入はじめ也。是より下馬ごめ迄十七り有。誠に深山幽谷也。竹一切なし。」「まげ物ぬり木地道具つくる」と注意書きが付されています。旅人にとって重要な情報は、奈良井から藪原に向かう途中に鳥居峠があることです。『木曽路名所図会』(巻之3)は、『信長記』を引用し、ここで武田勝頼が織田信長方の木曽義昌に敗退した事蹟を語り、鳥居峠につき、「駅路坂嶮(けは)し。馬に乗がたき危き所なり。むかし木曽の御嶽の鳥居こゝにありしより名とす。今はなし」と記しています。また、「義仲硯水(よしなかすゞりのみづ)」として、「鳥居峠にあり。纔(わづか)の清泉なり。此峠西下(お)り口藪原の入口より東の方に飛騨の高山へ行道あり。是より十九里也。飛騨より江戸へ行には此道より出る。是より飛騨へ行道ははなはだ嶮岨(けんそ)にして馬に乗る事ならず。多く牛に乗て往来すといふ」とあり、さらに、芭蕉の句碑「雲雀(ひばり)よりうへにやすらふ峠かな」が紹介されています。

 前掲名所図会の後掲図版「鳥居峠 御嶽遠景 義仲硯水」を見ると、英泉作品は基本的には同図版を元にした構想図と言えましょう。違いは、義仲硯水と句碑の松を峠まで移動した(逆に、人物を義仲硯水と芭蕉の句碑の松の所まで引き上げた)こと、藪原の北部から薪(たきぎ)を運ぶ小木曽女(おぎそめ)を加えて、英泉らしい華やかな女性を登場させたことです。塩尻峠にもあった技法ですが、鳥居峠が御嶽山よりも高く描かれています。なお、絵師の視点は藪原側から鳥居峠を上って、雪に覆われた御嶽山を望むものです。旅人の笠に極印が押されている珍しい作品です。鳥居峠が分水嶺となって、これより木曽川などの水は太平洋側に流れていくことになります。

 ちなみに、大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p303)は鳥居峠でどういう訳か御嶽山を見ず、「…山の頂なり。こゝにしてかへりみ見(ママ)れば、左の方に遠く駒がたけそびへ、右に飛騨の乗鞍がたけ長く横たはれり。ともに雪をいたゞく」と記します。


*注1:『木曽路名所図会』巻之3(鳥居峠 御嶽遠景 義仲硯水)

Toriitouge

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35 信濃国 「奈良井」

「三十五 岐阻街道 奈良井(ナラ井)宿 名産店之圖」  英泉画 竹内・版元保永堂・左枠外に竹


 絵番号35の英泉作品より、いよいよシリーズ後半が始まります。英泉の作画に関しては、「その土地の特徴的な物象を集めてきて絵にしているが、その配列は必ずしも実景とは合致していない」と言われます(『旅景色』あとがき)。それ故、読み解きの際には、先行する街道案内やその絵図等を参考にする必要があります。


Kisokaido35 さて、『木曽路名所図会』(巻之3)は、奈良井について、「此宿繁昌の地にして木曽駅中の甲たり」と記し、その理由として「名造諸器」の生産を挙げ、「民居に田圃少し。諸器を製造して産業(なりはひ)とし四方に鬻(ひさ)く。これを白木細工といふ」と述べています。その代表が、「名造お六櫛」で、「宮腰、藪原、奈良井等に此店多し」とあります。英泉作品は、副題「奈良井宿 名産店之圖」および画中の看板「名物お六櫛」とから、宿場のお六櫛の店の繁盛を描いていることが判ります。なお、後掲『岐蘓路安見絵図』(奈良井)も、「此宿わんおしき其外まげ物ぬり物を多くつくる」と注意書きを付しています。

 大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p302)は、藪原で、「お六櫛の事をとふに、お六といへる女はじめてみねばり(峰榛)の木をもて此櫛をひき出せり。しかるに此あるじのおぢなるもの此業をつぎて、みねばりの木もて此櫛をひき諸国にひろめしより、あまねく人しれりといへり」と述べています。また、菊地貞夫は、「その昔、お六という娘が脳をわずらったが、御嶽山のお告げで柘植の櫛を作って髪にさしたところ、たちまち全快したので、このご利益を同病に苦しむ人々にもあたえようと、お六が櫛作りをはじめたのが、この櫛の名の由来だと聞かされた」と現地藪原で取材し、紹介しています(『浮世絵大系15 木曾街道六拾九次』集英社、p109)。

 当作品では、お六櫛の店の左側庭先に、山の清水を受ける石鉢があり、水場が描かれているようです。その背後には、柴を背負った男が下ってくる山道が見えています。『中山道分間延絵図』(奈良井)にも、宿場内にいくつかの水流と同時に中山道に出会う野道が描かれていて、当作品は宿場内の店頭を想定していると考えられます。じつは奈良井は水場の存在を特徴とする宿場なのです(児玉『中山道を歩く』p231以下参照)。注意が必要なのは、当作品の背景左側に、実際には見えない、冠雪する御嶽山が描かれていることです。これは、中山道をさらに鳥居峠方向に進んだ辺り(遥拝所)から見える姿ですが、進行方向の山々を先取りして描くことは英泉がしばしば見せてきた画法と理解して下さい(「浦和宿」、「鴻巣」、「坂本」など参照)。したがって、当作品は鳥居峠やその途中の立場等にお六櫛の店を仮設したものだという見解は採りません。

 実はお六櫛は当時、山東京伝の合巻『於六櫛木曽仇討』(文化4・1807年)の好評により江戸でもよく知られており、曲亭馬琴の合巻『青砥藤綱模稜案(あおとふじつなもりょうあん)』(文化8-9・1811-12年)、歌舞伎『青砥稿(あおとぞうし)』(弘化4・1846年)等によっても喧伝されていました。また、「木曽山へさしこむ月もお六形」、「木曽山のお六通りのいゝ女」などの川柳も作られる程で(『中山道分間延絵図・第11巻解説編』p27)、木曽山(御嶽山)とお六(櫛)はセットという扱いです。つまり、当作品の背景に御嶽山が描かれているのも、このような事情があってのことです。とすれば、店の中で、主人が櫛を挽き、女房が客の相手をしているなどの店頭風景も、合巻の絵姿や歌舞伎の役者姿と重ね合わせて楽しまなければなりません。言い換えれば、背景の御嶽山は、木曽が舞台であることを示す書割りということです

 ちなみに、前掲名所図会には、「御嶽は信濃一州の大山なり。西野、黒澤、末川、王瀧等其麓に有。黒沢より獨奉祀を毎年六月十二日十三日諸人潔斎して登る。全く富士山に登るが如し。絶頂に小祠あり。且三ッの池ありて其側巨巌々たり。四季に雪あり。霊境といふべし」とあります。大山講、富士講などと同様、山岳信仰の聖地であり、とくに御嶽講は尾張地方では大変盛んでした。後掲「御嶽」参照。


*注1:作品の読み解き方
 英泉は艶本、戯作、小説類を多数自画自作で制作しているため、当シリーズにおいても挿絵(口絵)風な描き方が強く感じられます。この点は、広重とかなり異なっています。では、広重が実景に即しているかというとそうでもなく、そもそも名所、旧蹟を避ける傾向にあり、高低差の強調、街道や川筋の屈曲など、構想性の強い作風が見えます。したがって、両絵師の各作品を読み解く際には、絵師がスケッチを元に実景に即して描いたという前提を捨て、先行する街道案内やその絵図等を参考に構想したものと考えた方が容易に理解できます。そのうえで、自身の旅の体験やスケッチなどがある場合には、実景描写をあわせて考えるという進め方です。広重は作品制作の後半で初めて中山道を旅しているので、具体的な読み解き方法は、もう少し先の作品で実証したいと思います。
 当シリーズに先行する資料あるいは参考資料として、主に下記のものを使用しています。

『岐蘓路安見絵図』宝暦6(1756)年
『東海木曾兩道中懷寳圖鑑』宝暦6(1756)年
『東海木曾兩道中懷寳圖鑑』天保13(1842)年

貝原益軒『岐蘇路の記』貞享2(1685)年
大田南畝『壬戌紀行』享和2(1802)年
秋里籬島『木曽路名所図会』文化2(1805)年

『中山道分間延絵図』文化3(1806)年
『中山道宿村大概帳』天保年間(1830~1844)


*注2:『岐蘓路安見絵図』(奈良井)

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34 信濃国 「贄川」

「(三十四) 木曽海道六拾九次之内 贄川」  (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido34 『木曽路名所図会』(巻之3)によれば、贄川は、「本山まで弐里。いにしへこゝに温泉あり。故に川(にえがは)と名づく。東山道駅次此所より東を松本領とす。西は木曽谷の間みな尾州侯の御領なり」とあります。そして、本山で触れた「桜澤橋」について、「驛のひがしにあり。是木曽伊奈の分界なり。長さ十弐間、西の方六間尾州侯より修造す、東六間松本侯より修造す。傍に白木改番所あり」と記しています。後掲『岐蘓路安見絵図』(にゑ川)には、宿場の手前に、「まげ物を改る番所也」という説明があります。大事な点は、これより、狭義の意味での木曽路が始まり、そこに設置された11宿(贄川、奈良井、藪原、宮ノ腰、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠)の東側第1宿が贄川に当たるということです。同名所図会には、「桜澤橋」、「川」に始まり、30以上の項目に亘って名所・地蹟の紹介が続き、さらに、図版においては、「木曽路は獣類の皮を商ふ店多し。別して川より本山までの間多し。又往来の人に熊胆(くまのゐ)を沽(うら)んとて勧る者多し。油断すべからず」とまで詳細に注意を促しているところですが、結局、広重が選択した画題は贄川の旅籠風景です。前掲「下諏訪」の画題選択の経緯と似ています。『宿村大概帳』(天保14・1843年)によれば、贄川の宿内家数は124軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒とあり、とりわけ旅籠が多いというわけではありません…。

 右から、旅籠の前には、宿役人、荷を下ろす馬子、宿駕籠の前で一服する駕籠舁、旅籠内には足を洗う旅人などが描かれています。当作品の一番の特徴は、鴨居・柱に掛けられた看板と講札に、右から、「板元いせ利」、「大吉利市」、「仙女香 京ばし坂本氏」、「松島房二郎刀」、「摺工松邑安五郎」、「仝亀多市太郎」と書かれていることです。版元、スポンサー、彫師、摺師など制作サイドの宣伝と好評の願掛けとなっています。通例、揃い物などにおいて、このような仕掛けが施されるのは、初めか終わりの1枚など「切り」の部分に当たることが多いと言えます。当作品もよく見ると、絵番号が馬の尻掛けに「三十四」とあって、その意味は、「尻(最後)の三十四番」と解せられます。つまり、前半部分が終わったという意味で、旅籠を描きそこで一休みという含みを持たせ、同時に、制作者サイド一同が挨拶する運びに至ったと読み解くべきでしょう。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(にゑ川)

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33 信濃国 「本山」

「三十三 木曽海道六拾九次之内 本山」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido33 『木曽路名所図会』(巻之3)には、本山は、「川左に流る。これも木曽山より流れ出る。木曽の本谷にはあらず」とあって、宿場の西(右)側に奈良井川が流れていることが判ります。本山から次の贄川の間には、日出塩と桜沢の2カ所に立場があり、とくに桜沢は旅人にとっては重要です。同名所図会には、「大桜沢にて木曽路の界也。こゝに標木(しるしぎ)有。西は尾州御領東は松本領なり。これを堺橋といふ」とあって、これより落合宿まで、「岐蘓の山路にして崖路桟道(がいろさんどう)多く艱難辛苦の路中なり」と記しています。つまり、境橋を過ぎるといよいよ木曽路の難路が始まるということです。江戸に向かう大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p304)は、「木曾の界也ときくもうれし」と述べています。また、「本山の駅には、うどん・そば切・しっぽく、といふ看板多し」ともあって、蕎麦切発祥の地とも言われる所以を記録しています。

 次に、広重が当作品で特定の場所を想定しているのかを検討してみます。上りから下りに至る坂道について、『ちゃんと歩ける中山道六十九次 東』(p144)は、「本山宿の京口」(『旅景色』p46も同趣旨)、また、岸本『中山道浪漫の旅 東編』(p151)は、「山道となるのは桜沢の高巻道だけ」と解しています。後掲『岐蘓路安見絵図』(本山)と対比してみると、「さかいはし」の右と左に「是より東松本領」、「是より西尾州領」とあり、中山道には「上り下り」と坂道が描かれ、後者の見解の方が妥当と考えられます。さらに、当作品をよく見ると、籠を背負った子供が右手から坂を下ってくるのが描かれていて、後方の旅人が上ってくる中山道と出合っています。この山道が実際にあるのかどうかを『中山道分間延絵図』(本山)で調べてみると、桜沢(高巻道)の地点に「伊那郡道小野村迄三里」と記される旧中山道が合流していることが発見されます。「中山道は当初下諏訪宿から東堀へ出て、ここから小井川・岡谷・三沢を経由して小野峠を越え、伊那郡小野村を通って牛首峠から木曽の桜沢(本山・贄川両宿の間)へ出た」ということです(『第9巻解説編』p34、『第10巻解説編』p40)。当作品の想定地点が中山道の旅人にとって目印となる場所であり、それ故に広重が選択したことが十分に理解できます。

 ところで、当作品が想定する場所は判ったとしても、傾いた大木が画面右上から左下に横切る構図には如何なる意味があるのでしょうか。中山道と旧中山道との間にあった大木は切り倒されています。そして、2人の人夫が倒れかけた大木に突支棒をし終え、煙管を吹かしながら焚火に当たっています。たぶん、籠を背負い赤い半纏を着た子供とその背後の風呂敷包を背負った旅人は、この大木の下を潜り抜けることになるでしょう。境橋を越えると、「これより木曽路」となることに気付けば、この斜めの大木は、木曽路への出入りの門であることが判ります。その意味でも、当作品の想定場所は、境橋を渡って木曽路に入る、桜沢でなければならないわけです。この発想は、前掲「松井田」において、これより坂道が続くという旅の事情が絵に反映され、「あふ坂」が描かれているのと同じ理屈です。

 前掲安見絵図に、以下のような、木曽の説明が付されているのも、本山からの旅立ちが木曽路の幕開けとなるからです。すなわち、「境ばしよりさくら沢迄がけ道ゆへ馬に乗べからす。さくら沢は木曽の境也。木曽は尾州公御領なり。木曽谷中せはき故田畑少し。米大豆は松本より買来る。山中皆板ふき也。寒気はげしき故土壁なし。板かべ也。凡しなのに竹と茶の木まれ也。桶のわには檜木をわげて用ゆ。又、…略…、三月のすへの頃一時に花さく」と。なお、当作品の構図については、北斎『冨嶽三十六景』「遠江山中」との共通性が指摘されています。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(本山)

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32 信濃国 「洗馬」

「三拾貳 木曽海道六拾九次之内 洗馬」  (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido32 塩尻峠を越え、桔梗ヶ原を通り過ぎ、善光寺道の追分道標(江戸方向、「右中山道、左北国往還、善光寺道」とある)を経て、さらに、(今井兼平と木曽義仲が出会ったという意味の)太田(おふた)の清水を北西に見て、洗馬の宿場に至ります。『木曽路名所図会』(巻之3)「義仲馬洗水(よしなかうまあらひみづ)」は、「太田清水とて洗馬の東にあり。故に洗馬といふ」と記しています。この太田=洗馬の清水が宿名の由来です。また、『善光寺道名所図会』(巻之1)は、「…是より十八丁西に元洗馬あり。木曽川にあづま橋をわたせり。古道といふ。木曽川、是は中山道の木曽川にあらず。水源は鳥居峠に濫觴して本山宿の裏通りより爰に出、北流して所々の谷川落あひて大河となり、松本の西にいたり熊倉の橋辺より犀川といふ」とあって、木曽川と呼ばれた現在の奈良井川について触れています。洗馬は、善光寺道との追分であり、太田の清水と奈良井川という水にゆかりの宿場であることが判ります。さらに、木曽義仲や木曽川など、「木曽」の名が登場し、いよいよ木曽路が近いことが感じられます。

 広重作品には、柴を積んだ舟と筏が川を左手方向に下って行く様子、柳の生える荒地の向こうに家々の屋根が見える様が描かれています。これと後掲『岐蘓路安見絵図』(洗馬)を対照すると、該当する川は宿場の西側にある「小沢川」(尾沢川)が唯一のものであることが判ります。この川は、上述の木曽川と呼ばれた奈良井川と合流し、さらに北流して行きます。当作品は、おそらく、その合流地点辺り(もしくは元洗馬)から洗馬の宿場方向を眺める構図ではないでしょうか。したがって、家々の屋根は宿場の旅籠などを表していることになります。しかし、作品の趣の中心は、言うまでもなく、湿地の果てに見える薄い朱色のぼかしが入った満月です。さて、この満月にはいったいどんな意味があるのでしょうか。

 洗馬が善光寺道との追分の宿であることを考えれば、その道は更級に向かうことから、更級、姨捨の名月が想起され、その情緒を取り込んだものと想像されます。ただし、「長久保」で同じ考案がすでに使用されていて、二番煎じの感は否めません。次に、月が水にゆかりのある天体であることに気付けば、洗馬の宿名の由来となった太田の清水を象徴していると推測できます。しかも、月は浮世絵では故人を映す(偲ぶ)鏡としてしばしば使われます。すなわち、月の中に清水ゆかりの木曽義仲の姿を見て、滅び去った者への郷愁を感じさせ、その情緒を当作品に取り込んでいるとも解せられるのです。義仲の栄華と滅びの美を空中に浮かぶ清水としての丸い月に象徴させ、その背後にある詩情を思い出させることによって、ただの荒れた湿地の満月が洗馬の名月になるということです。後掲「宮ノ越」においても、淡い夕景の影絵の中に名月が浮かんでいますが、宮ノ越がやはり義仲ゆかりの土地であると確認できれば、名月は義仲の顔を映すものであると自然に理解できましょう。「名月」は「朝日」将軍木曽義仲が滅びた後の姿です…。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(洗馬)
 善光寺の追分道標と太田の清水については、未掲載『岐蘓路安見絵図』(塩尻)の部分に描かれています。

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31 信濃国 「塩尻」

「三十一 木曾街道 塩尻嵿諏訪(シホシリタウゲスハ)ノ湖水眺望」 英泉画 竹内・保永堂・左枠外に竹 (竹内)


 第4グループ(広重・錦樹堂主体、しかし英泉・保永堂も存在示す)31~40枚が始まります。シリーズ最初の1枚(絵番号31番)は相変わらず英泉・保永堂作品です。また、日本橋から数えて35番目、すなわち、東海道53次の符帳である絵番号35番、板橋から数えて35番目、絵番号としては36番を英泉・保永堂が描いており、広重はたぶん面白くないと思っていたことでしょう。しかも、その画題とされたのが諏訪湖と御嶽山であり、美味しいところを先取りされてしまった感があります。しかしながら、「洗馬」や「宮ノ腰」など、広重の名品もこのグループに所属していて、広重の矜持と心意気が表れています。


Kisokaido31 『木曽路名所図会』(巻之3)には、塩尻峠に関し、「塩尻と下諏訪の間にあり。塩尻より二里登る嵿より諏訪の湖遥に見る。絶景なり。むかし松本の城主と木曽の何某と桔梗原より出て此峠にて甲州勢と信州勢と合戦ありしなり」、「長坂芝の茶屋を過て塩尻嵿に登る。これより西は筑摩郡也。左に冨士峯見ゆる。又諏訪の湖高嶋の城など鮮にして四ッ屋にいたり…」と記され、風光の良さと軍事上の重要性が窺えます。また、『岐蘓路安見絵図』(下諏訪)には(前回ブログ注2参照)、「年により十一月十二月初より、湖上一面に氷て、湖上を馬に荷を付、又は車に荷をつみて往来する。御渡りといふてふしぎあり。諏訪七ふしぎの其の一ツ也」と、厳冬期の諏訪湖の様子が紹介されています。英泉の作品は、これらの記述そのままに、塩尻峠を越えて下諏訪に向かう際の、氷結する諏訪湖と冠雪する富士との対比的眺望を描いています。なお、同名所図会・須波乃湖には、「馬はすべる故渡らず」とあるので、英泉は同安見絵図の記述に従っていることが確認できます。

 当作品を具体的に見てみると、近景には荷物を担いで峠を上る旅人に対して、下る峠の途中に、馬に乗る旅人と馬子が眼下の風景を眺める様子があって、当作品を見る者の視点を代弁しています。峠の下には今井村(岡谷市)が見え、その先の諏訪湖は凍っていてその上を歩く旅人や馬で荷を運ぶ姿が描かれています。下諏訪から当作品の中景に描かれる高島城下に向かっているようです。氷上の割れ目は、御神渡りを表しているのかもしれません。そして、遠景は、左より、八ヶ岳、富士、甲斐駒ケ岳の山並みを描写しています。中央の富士よりも塩尻峠の方が高く感じられる視点を採っていて、峠越えの厳しさを表現する意図と思われます。なお、実際には、富士はもう少し甲斐駒ケ岳寄りに小さく見えるはずです。ある種の絵心が加えられています。

 『木曽路名所図会』(巻之4)の後掲図版「諏方湖 下諏方神宮寺 高嶋城」は、下諏訪(下諏訪神宮寺)側からの視点で富士を捉えた作品ですが、英泉の富士はこの位置取りに近いようです。同名所図会にも、「富士山眺望 下諏方の湖辺あるひは上諏方の湖辺よりも鮮に見ゆる。旅程廿五里許あり。 雪の富士氷のうみに相對す 籬島」とあって、湖辺の富士の眺めも名所の1つです。なお、北斎『冨嶽三十六景』「信州諏訪湖」は富士(講)信仰に基づいた構想図というのが本講座の立場ですが、構想上作品を描いた場所は、同名所図会も解説する、「高嶋の前の橋の下」の「衣裳崎(ころもがさき)」を含む下諏訪側の湖畔から富士を眺望するものと推測しています。


*注1:北斎『冨嶽三十六景』「信州諏訪湖」について

 北斎の『冨嶽三十六景』は、風景を使った、一種のカラクリ絵なので、どの地点から描いたのかにあまり囚われる必要はありませんが、それでも、構想上どの場所であるかは意味のある議論です。本講座では、歌枕の地であり、湖畔の富士見の名所、衣が崎があった下諏訪宿側からの富士眺望図という立場を採っています。その観点からすると、古歌「すはの海衣が崎にきてみれは冨士のうへこくあまのつりふね」(『木曽路名所図会』巻之4)は、制作構想に重要な影響を与えています。すなわち、近景の粗末な祠(水神あるいは弁天祠)と突き出た巌(いわお)が造る三角形こそ、彼岸の冠雪する富士に相似する此岸の富士であり、その左側に釣り舟が描かれていることを勘案すると、「冨士のうへこくあまのつりふね」の姿がまさに現出していることに気付きます。衣が崎では、湖水面に富士の影を見つけることはできませんが、別の形で富士の姿を発見できるという驚きを北斎は狙っているのです。この此岸の富士に気付けば、諏訪湖畔は、富士(講)信仰者にとって、大事な巡礼地となるはずです。こうして、「信州諏訪湖」は『冨嶽三十六景』に収められるべき1枚となるのです。なお、祠の前の2本の松は、同じように、八ヶ岳を此岸に写し出す工夫と思われます。ちなみに、此岸の富士と天翔ける舟の構図は、『冨嶽三十六景』のいくつかの作品で応用されています(「武州玉川」、「甲州三坂水面」等)。


*注2:貝原益軒『岐蘇路の記』 貞享2(1685)年
「下の諏訪より高嶋の城へ一里あり。諏訪安芸守殿居城なり。三万二千石つけり。城は湖中に出て三方は湖にて陸の方一方より入口あり。其前になはて五町許あり。左右は沼なり深し。まえに橋有。橋の下は川なり。舟の出入り自由也。橋よりしものかたを衣が崎と言う名所也。此の所に富士山の影うつると言。空海の歌に信濃なる衣が崎に来てみれば富士の上こぐあまの釣舟。夫木(ふぼく)集の歌にすはの海衣がみさきながめつつけふ日ぐらしになりくらすのみ。城より上の諏訪の間六里半餘あり。」


*注3:大田南畝『壬戌紀行 一名木曾の麻袋』  享和2(1802)年
「…下諏訪の社左にみゆ。大門のなみ木十八町ありといふ。古歌に、信濃なる衣が崎にきてみれば富士の上こぐあまの釣舟、という跡なる茶屋の障子にかきてありし也。〔(欄外文一部略)茶店の障子には西行の歌と記せり。〕下諏訪の駅舎にぎはゝし。」


*注4:秋里籬島『木曽路名所図会』(巻之4) 文化2(1805)年
「衣裳崎(ころもがさき) 高嶋の前の橋の下をいふ。冨士山の影うつる所也。
 夫木 須波のうみころもがみさきながめつゝ
       けふ日くらしになりくらすのみ 大納言師氏
    すはの海衣が崎にきてみれは
       冨士のうへこくあまのつりふね

此和歌一説若桜宮天皇の御製とも又弘法大師ともいふ。何れも不審(いふかし)たれど人口にあれば暫くこゝにしるす。」


*注5:『木曽路名所図会』巻之4(諏方湖 下諏方神宮寺 高嶋城)

Suwako

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30 信濃国 「下諏訪」

「三拾 木曽海道六拾九次之内 下諏訪」 (一粒斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido30 和田峠を越えて、西餅屋、樋橋(とよはし)、落合を過ぎ、下諏訪神社春宮の手前を左に折れ坂を下ると下諏訪宿に至ります。下諏訪神社秋宮は宿中にあります。『木曽路名所図会』(巻之4)は、下諏訪宿について、「和田へ山路五里八町。諏方の駅一千軒許(ばかり)もあり。商人(あきびと)多し。旅舎(りよしや)に出女あり。夏蚊なし。少あれどもささず。雪深して寒烈し」、「名にしおふ下の諏方は、此街道の駅にして、旅舎(はたごや)多く、紅おしろいにふたるうかれ女たちつどひ、とまらんせとまらんせと袖ひき袂(たもと)をとりて、旅行の人の足をとゞむ。町の中に温泉ありて、此宿(やど)の女あないして、浴屋の口をひらき、浴(ゆあみ)させける。其外よろづの商人多く、駅中の都会也」と記します。同名所図会に紹介される名所項目を拾ってみると、「諏方春宮」、「諏方秋宮」、「須波乃湖(すはのうみ)」、「高嶋城」、「衣裳崎(ころもがさき)」、「諏訪温泉」、「冨士山眺望」、「天龍川水源」、「御射山(みさやま)」、そして「上諏方神社」など多数あることが判ります。また、これらに関する図版も数多く掲載されています。その中から、広重は、中山道中唯一天然温泉が湧く宿場の旅籠屋を画題として選んでいます。後掲『岐蘓路安見絵図』(下諏訪)も、第一に、「温泉あり。旅人も入湯す」と注意書きを付しています。

 前掲名所図会には、諏訪温泉は、「下諏方駅中に三所あり。旅人(りよじん)及び駅中の人みな平生(へいぜい)入浴す。本陣の際にあるは中を隔て、高貴あるひは男女を別つ。往来の雑人は上に覆ひなし。衣類の洗ひ物を此流にてする也」とあります。ところが、広重作品は、沸かした内風呂(湯)のある旅籠の様子を描いていて、温泉(外湯)の醍醐味を全く表現してはいません。構想図の限界でしょうか。同名所図会「須波乃湖」には、「鯉鮒亀甲あり」と記されていて、旅籠の夕餉などの食材になったことでしょう。当作品は、掛けられた手拭いから判断して、風呂上がりに、6人の男達が下女の給仕によって食事する情景が中心です。当作品の斎号が、「一斎」になっているのも、この飯(米)食う情景に掛けた洒落と解することができます。とすれば、一番手前の紋付を着て背を向けている男を広重自身であるとする見解も、あながち根拠のないものではないかもしれません。なお、食事風景の背後の襖には、版元錦樹堂の意匠が描かれています。


*注1:信濃国一宮・上下諏訪大社
 『岐蘓路安見絵図』(和田)の注意書きには(前回ブログ注2参照)、「下の諏訪大明神、社領五百石。正月朔日に春の宮へうつし奉る。七月朔日秋の宮へうつし奉る。元日に祭礼なし。七月朔日祭礼あり。上のすはへ一り半。上のすは、年中に七十五度神事有。取わけ三月酉の日大神事なり。鹿の頭七十五備ふ。社領千石。上下の社ともに、七年に一度御柱とて大祭あり。四月申寅の日也」とあります。同趣旨の記述が前掲名所図会にもあって、これらは、中山道の旅の重要な目的の1つに、諏訪大社への参詣という信仰の旅があることを物語っています。もちろん、物見遊山も兼ねていますが…。
 諏訪大社は、上社と下社に分かれ、上社には本宮と前宮、下社には春宮と秋宮とがあります。上社の神は建御名方神、大祝(おおはふり)は神(みわ)(諏訪)氏、神長官は守矢氏、下社の神は女神の八坂刀売神、大祝は金刺氏です。諏訪湖結氷後に氷に亀裂を生む御神渡りでは、上社の男神が下社の女神を訪ねるものとされています。高嶋藩3万2千石の藩主はこの諏訪氏の後裔、また、かつて善光寺境内にあった諏訪神社斎藤社家は金刺氏出身と伝わっています。なお、神長官守矢氏が担ってきた洩矢神(ミシャグジ)が古来諏訪を統べる神であったと解されています。


*注2:『岐蘓路安見絵図』(下諏訪)
 「せんげんのとり井富士と向ひ合」(左頁)という注意書きがあって、諏訪湖の下側に富士の姿(右頁)が描かれています。浅間神社の下側に「峠」とあるのが、塩尻峠に当たります。

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29 信濃国 「和田」

「二拾九 木曽海道六拾九次之内 和田」 (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido29 長久保宿の西側を流れる大門川は大門峠に源流があり、ここは、『木曽路名所図会』によれば、「むかし武田信玄と信州諏訪小笠原との合戦ありしところなり」とあります。他方、その大門川と落ち合う依田(和田)川の方は和田峠より、中山道と並行して流れて来ます。そして、その和田峠の麓にあるのが、長久保から2里の(上)和田宿です。同名所図会によれば、「和田義盛の城跡あり」、また「和田義盛の霊を祭る」八幡神社があると記されるなど、和田氏との関係を窺わせます。(下)諏訪まで5里8町(幕末の宿村大概帳では、5里18町)の山道、最大高度1600mの峠越えの道として、中山道随一の難路と言えます。そのため、幕府は、唐沢、東餅屋、西餅屋、樋橋(とよはし)、落合に休み茶屋を設け、冬期間、人馬施行所(接待)を開設することを許可しました。後掲『岐蘓路安見絵図』(和田)は、「東もちやより峠迄八丁、西もちやへ廿一丁。和田大峠、鳩のむねと云。和田より峠迄二り廿一丁有。峠よりふじ山見える。東坂はやすらか也。西坂けはし。…峠には三月末迄雪ありて寒し」と注意書きを付しています(同名所図会にも同内容の記述があります)。

 広重の当作品は、手前から奥に向かって2つの坂を上って行く4人の旅人と反対方向から来る1人の旅人を雪景色の中に描いています。この雪は、前掲名所図会・前掲安見絵図にも記されるように、3月末まで積雪がある和田峠(鳩ノ峰)を意識した構想と考えられます。また広重の「晴れ」の雪景色は、多くの場合、一区切り、達成、(再)出発などの意味を持たせるための技法であることを考えると、日本橋から信濃国・浅間山を目指して歩んできた旅が終わって、木曽路・御嶽山を目指す新たな旅が開始されるという含意もあると見なければならないでしょう。とすれば、当作品中、街道延長線上の左の雪山は、御嶽山のイメージです。実景上は、左は木曽駒ケ岳、中央が御嶽山、右は乗鞍岳に相当します。峠越えの旅姿に過度の難渋さを感じないのは、「東坂はやすらか也」だからです。

 ちなみに、中山道の各宿場には、人足50人、馬50疋の常備が義務付けられていますが、この伝馬の維持は物理的、経済的に大変なので、それを補うものとして助郷制が定められ、近隣の村々から人馬が徴用されました。和田・諏訪間の通行も、この助郷制の重い負担によって支えられていたと言うことができます。


*注1:元治元(1864)年11月20日、武田耕雲斎率いる水戸天狗党を迎え撃った松本藩と高島藩は西餅屋を過ぎた樋橋に布陣しました。徳川方連合軍は背後を衝かれ、結果、敗走しています。幕末の浮世絵作品は、この戦いを川中島合戦の名において制作しています。たとえば、歌川(五雲亭)貞秀『武田勝頼木曽左馬之助信州和田塩尻峠合戦図』元治元(1864)年12月・3枚続作品など。


*注2:『岐蘓路安見絵図』(和田)

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28 信濃国 「長久保」

「二十八 木曽海道六拾九次之内 長久保」 (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido28 『宿村大概帳』によれば、長久保は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋43とあって、かなりの賑わいがある宿場です。これは、東に笠取峠、西に和田峠が控えていることが主たる理由ですが、あわせて、北に善光寺道と繋がっている地理も勘案する必要があります。たとえば、笠取峠は佐久と小県(ちいさがた)の境となっていて、長久保が小県の真田ゆかりの土地となっていることもその地理と係わっています。芦田と同様、長久保も「更級」や「姨捨山」のイメージと繋がるということです。

 当作品が想定するのは、川に橋の架かる場所です。後掲『岐蘓路安見絵図』(長窪)から、このような場所を探すと、宿場の西方に2本の川と街道がぶつかる辺りに2つの橋が架かっているのを発見します。同安見絵図には、「依田川、落合川ともいふ。南の谷川は和田山より落、東の谷川は大門峠より落」と注意書きされ、また、前掲名所図会にも、「依田川に大橋小橋十間許あり。南の渓(たにがは)は和田山より落、東は大門嵿より落る」と記されています。おそらく、当作品は、依田川に架かる西側の依田(和田)の板橋を想定したものと思われます。(似た風景から大門川に架かる東側の落合の土橋とされることがあります。)広重の「新町」作品を想起すれば、本来直線である中山道を川岸の松のある右側手前に折り曲げて、街道の様子を挿絵的に紹介していると理解できます。常識的に考えて、満月とは言え夕方なので、宿場への到着となります(前掲「軽井澤」「望月」参照)。右側和田宿からの帰り馬を引く馬子および犬と戯れる童達を前景に置き、左側長久保にもうすぐ到着する馬に乗る旅人および天秤を担ぐ農夫のシルエットを中景の橋上に置いていると見るべきでしょう。つまり、川の手前が下流に当たります。上流に描かれる山影の上に松葉に隠れる満月があって、その月明かりを川面が反射しているところが趣です。

 長久保は決して月の名所ではないのに、「望月」で描いたばかりの月を再び画題にしたのはなぜでしょうか。その答えを見つけるのに重要なのは、既述した芦田・長久保と更級・姨捨山のイメージの繋がりです。川面に反射する月は、田に反射する月と同じ理屈と判れば、当作品は、実は姨捨山(鏡臺山)あるいは田毎の月を擬(なぞら)える見立絵と解釈できます。善光寺道にあった名所を中山道の宿場風景に忍ばせ、つまり、見たい景色を見せて、庶民の期待に応えようとしているのです。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(長窪)

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27 信濃国 「芦田」

「二拾七 木曽海道六拾九次之内 あし田」 (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido27 『木曽路名所図会』(巻之4)には、芦田から長久保まで、「石割坂」、「石荒坂」などの坂道が続くと記されています。後掲『岐蘓路安見絵図』(芦田)と対照すると、石割坂の上りの途中辺りから松並木が続き、一里塚、笠取峠(さゝとり、かりとり峠)、茶屋2軒、そして下り坂(石荒坂?)を経て、(五十鈴)川を渡り、長久保の宿に至ると推測できます。このような情報と当作品を照らし合わせると、広重が描いたのは、2軒の峠の茶屋があった笠取峠であることが判ります。その茶屋(小松屋)では、「浅間山一見所」「三国一の力餅」を売り物にしていたとあります(児玉『中山道を歩く』p195参照)。この解説から想像すると、当作品遠方に見える茶色の山は、実際には美ヶ原高原の方向ですが、浅間山を想定しているのかもしれません。『旅景色』は西から東を見てと解釈しています。ただし、その場合には浅間山は左手に見えるはずで、敢えて言えば、茶色の山は蓼科山あるいは妙義山方向となります。同名所図絵には、石割坂について、「此坂より遥に妙義山見ゆる。この道悪し」とあるので、西からの眺望ならば、妙義山の可能性が高いでしょうか。

 当作品の構図全体は非常に抽象化されているのが特徴です。手前の峠道は曲線で描き、その背後の山々を対比して直線で表し、そこに垂直に杉の木々を加えるという描法です。険しい山間、上り下りの激しい峠道を極端に抽象表現した理由は、広重が、この情景を信濃国を代表する「更級」の典型的風景と同一視しているからです。つまり、芦田の風景を使って、前掲名所図会が「蘆田より七里あり。郡の名にもいふ。山川里和歌に詠ず」と記す、更級の風景をイメージ表現したと考えるということです。こう解して初めて、次の「長久保」の名月の意味が見えてきます。なお、景色は抽象表現ですが、街道を旅する人々の日常景は広重らしく細やかなものです。


*注1:善光寺道
 『木曽路名所図会』(巻之4)は、軽井沢では「笛吹峠上杉武田合戦」、八幡では「川中島合戦」(山本勲功記)、芦田では「海野平合戦」にそれぞれ多くの頁を割いていて、この地域一帯が甲斐武田、越後上杉、そして滋野一族などの信濃諸将の戦いの地であったことがよく判ります。また同名所図会の芦田に関する記述の中で注目すべきは、「更級(さらしな)」および「姨捨山(おばすてやま)」がここで触れられていることです。同名所図会は、姨捨山について、「更級郡にあり。こゝに姨石といふあり。俗に鏡臺山ともいふ」と記します。なぜこのような記述があるかと言えば、芦田から長久保に向かう途中、宿の手前の石荒坂から善光寺に至る道が分岐していることと関連しています。同名所図絵には、「此所より善光寺まで十五里」とあります。大事なのは、中山道の浮世絵の制作イメージに、これら善光寺道の要素が影響を与えている可能性があることです。
 この関連で、狂歌絵本・広重画『岐蘇名所図会』(版元春友亭)が追分と諏訪の間に、「筑广川」、「善光寺」、「更科鏡臺山」等の風景を挿入していることが参考になります。中山道よりも、善光寺道の名所を優先しています。


*注2:『岐蘓路安見絵図』(芦田)

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26 信濃国 「望月」

「二拾六 木曽海道六拾九次之内 望月」 (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido26 「望月駅 城光院 望月遠江守城跡」の図版を載せる『木曽路名所図会』(巻之4)は、宿名の由来となった「望月御牧(もちづきのみまき)」について、「望月の駅の上の山をいふ。今牧の原といふ」と記しています。「むかしは例年勅(みことのり)ありて駒索(こまひき)あり。天皇紫宸殿に出御ましまし信濃の貢馬を叡覧し給ふとぞ貞観七年十二月に制む」とあり、当初信濃国は8月29日であったのが、「15日(もちのひ)」 に改定され、それが望月の牧の名の由来となったとあります。信濃の牧は国内最大の御牧であり、名馬の産地として有名で、駒も牧も古歌にも多く詠まれています。後掲『岐蘓路安見絵図』(望月)も、「望月の牧は名所也。…望月の神の嫌のよしにて、鹿毛の馬ををかず」と記しています。

 さて、広重の当作品に関して、望月の宿場に入る手前にある瓜生坂の赤松並木と谷を隔てた浅間山を描いているという通説に対して、『旅景色』(p39)は、『岐蘓路安見絵図』(八幡)の部分には「金山坂、瓜生坂両方木なし」とあり(前回ブログの注1参照)、また浅間山は金山坂から見ることはできても瓜生坂からは見えないので、次の芦田宿の西にあった「笠取峠の松並木」を借景として描くものであると主張しています。ところが、同安見絵図をよく見ると、瓜生峠にある左右の一里塚に「両方木なし」と注意書きがあるだけであることに気付きます。実際、昭和13年まで、樹齢400年の松が残っていたそうです(天童市広重美術館図録『木曽海道六拾九次展』p42参照)。前掲名所図会には、(江戸方向)「瓜生坂上り坂なり。下り坂を金山坂といふ」とあり、(京方向)金山坂を上り、瓜生坂を下る、その峠越えの際に見える名月(望月)を作品のモチーフにしていると考えれば十分であって、そこに街道背後方向に見え、かつ旅の目印である浅間山のイメージを加筆したということなのです。実見にこだわると、瓜生峠からややローカルな蓼科山を遠望している構図という見解が生まれます(前掲『中山道広重美術館図録』p147、岸本『中山道浪漫の旅 東編』p117)。満月とは言え、夜間に、旅人達が列をなして望月宿から峠を越えて次の八幡宿に向かって歩いて行くというのは不自然なので、江戸方向から坂を上って望月(満月)を眺める心情に、やはり坂の向こうに目的地・望月(宿場)を期待してもうすぐ到着するという安堵感を重ねた構想図なのです。

 急な下り坂である瓜生坂を過ぎ、蓼科山から流れてくる鹿曲川を渡ると望月の宿場に至ります。前掲名所図会(望月)・前掲安見絵図(八幡)には、鹿曲川の途中に月輪(つきのわ)という淵があり、月の「盈缺(みちかけ)」が映ると記されています。月と縁の深い宿場です。その宿場の北方に御牧が広がります。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(望月)

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25 信濃国 「八幡」

「二拾五 木曽海道六拾九次之内 八幡」 (歌川)廣重画 錦樹堂


Kisokaido25 次の望月まで32町の距離で、東西いずれの宿間も非常に短いことが特徴的です。また、『宿村大概帳』によれば、本陣1、脇本陣4、旅籠屋3とあって、脇本陣の多さが異例です。東側に千曲川が控えていることもあってか、休憩のための利用が主たる機能なのでしょう。『木曽路名所図会』(巻之4)には、「駅の中に八幡宮のやしろあり」とあり、この社が宿名の由来となっています。境内本殿の「甲良(こうら)神社」は、甲良=高麗(こうらい・こま)を想像させ、渡来人による「牧」開拓との関連も窺わせます。

 広重の当作品は、構成上の区切りでもないのに、派号「歌川」広重を名乗っていて不思議な気がします。右手奥の坂を上り、川まで下り降り、板橋を渡って、再び反対側の川岸を上る、街道の日常景を描いたものです。多くの解説では、宿場手前に流れていた中沢川を渡る場所から、振り返って、背後に浅間山ないしは碓氷峠を遠望する作品と理解しています。しかし、本講座は『木曽路名所図会』や後掲『岐蘓路安見絵図』(八幡)を基準に考える立場なので、違う結論が導き出されます。すなわち、同安見絵図に記載され、したがって、街道を旅するうえで重要な箇所は、宿場の西側を流れる布施川に架かる橋だと考えます(岸本『中山道浪曼の旅 東編』p113)。画中の水流の方向が曖昧ですが、その地点から、宿場方向を見返すものではないでしょうか。

 なお、画中の川岸に注目すると、竹藪、蛇篭(じやかご)、水除杭が描かれていて、岸辺の土などが流失しないための工夫が見えます。『中山道分見延絵図』(八幡)を参照すると、八幡の宿場前後の街道には何本も水抜・悪水抜(用水)が描かれていて、水はけの悪さが目立ちます。広重の意図としては、これら治水対策が必要な程の悪路ぶりを情報提供するつもりであったのかもしれません。雨などが降ればぬかることは間違いなく、千曲川の存在とあわせて、このような悪路事情が宿間の短かさ、宿場に休憩施設が多いことの理由にもなっていると思われます。さらに、深読みすれば、当作品では川が問題であるということで、「歌川」の名乗りがあるのかもしれません…。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(八幡)

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24 信濃国 「塩名田」

「二拾四 木曽海道六拾九次之内 塩なた」 (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido24 浅間山、善光寺、川中島合戦と続いた信濃国のイメージは、塩名田では単純明快に千曲川です。千曲川は、甲斐と信濃の国境にある金峰山や3国の境をなす甲武信(こぶし)岳の北斜面の水を集め、塩名田の西側を流れ、小諸・上田の城下を通り、善光寺平で松本方面から来る犀川と合流して、川中島地域をつくり、さらに北流して、越後新潟では信濃川と呼ばれ、日本海に流れ出ます。中山道が千曲川を越えるのは唯一ここだけです。『木曽路名所図会』(巻之4)の図版「筑摩川」および後掲『岐蘓路安見絵図』(塩名田)ともに、千曲川には橋が架けられていますが、当作品では船渡しの情景となっています。川幅80mの大河に架けられた(仮)橋は洪水の度に流され、その後しばらくは、船渡しや井桁を利用した輦台であったようです(児玉『中山道を歩く』p175)。同安見絵図も、「水出れば、舟わたし」と記しています。渡し場を控える宿場の特徴として、本陣が2軒あります。

 川岸に繋がれている船の前に立つ3人の船人足は川風の冷たさを凌いでいる様子ですし、欅の大木の前にある休み茶屋には薬罐が掛かっていて、船人足、井桁人足達はやはり火に当たっているようです。これは、寒い季節を想定しているというよりは、高所の信濃国の気温・水温の低さを示すもので、東海道の渡し場の賑わいとは異なることを物語っています。旅人が1人もいない珍しい作品です。対岸御馬寄(みまよせ)村を通り全行程27町という短い距離で、次の八幡の宿場に到着します。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(塩名田)

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23 信濃国 「岩村田」

「二十三 木曾道中 岩村田(イワムラタ)」 溪斎画 竹内 極と竹


Kisokaido23 信濃国に入って、浅間山(3点)、善光寺(1点)が作品のテーマにそれぞれ採り上げられてきましたが、当作品では何がテーマとなっているのでしょうか。『木曽路名所図会』(巻之4)は、岩村田について、「善光寺へ別れ道あり。又小諸の道二里なり。又甲州地の道條(みちすぢ)あり。当駅は内藤美濃殿の領地なり。商人多し」とあります。岩村田の宿場が、北の善光寺(北信濃)方面と南の甲斐方面への道の分岐・合流部に当たるという情報です。これに、東の上野下仁田道が重なり、交通の要衝であることがよく判ります。内藤家1万5千石の御陣下で、高崎と同様、本陣と脇本陣がなく、旅籠も8軒と少なく、旅人が敬遠する商業中心の宿場ということです。幕末に至って、交通(軍事)の要衝であることも手伝ってか、幕府より築城(上ノ城)が認められています。宿場内には、佐久に侵攻した武田信玄が越後から北高禅師を迎えて中興された曹洞宗・龍雲寺があって、天正元(1573)年、駒場で病没した信玄の遺骨密葬の地とも言われています。

 さて、当作品中、遠景に描かれる山々に注目すると、右隅の山麓に茶色の土盛のような部分があります。摺残しではなく、意図的なものとして推論すると、大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p312)の次の記述が参考になります。すなわち、「右に一禅寺【龍雲寺】あり。門に東山禅窟といふ額をかく。左に善光寺道あり。右に住吉大明神あり。駅を出て左右ともに田畑みゑてうちひらきたる所也。左のかたにあさま山をみつゝゆく」と記した後、「一つの山近くみゆ。三井の何某の城あと也とぞ。此うちに冨士の山の形したる山【平尾富士】もありしといふ。すべて道はゞひろくして人家なし」とあります。つまり、英泉描く土盛は、南畝も記す、街道から見える城跡と考えられ、それは、『中山道分間延絵図』(岩村田)と対照すると、「此辺大井越前守古城跡」と記載される場所に相当すると考えられます。ただし、南畝は大井を三井と間違えたようですが…。結論として、背後の風景は、岩村田の宿場から(京方向)左手に見えた戦国時代の大井城跡とその後ろの山々であることが判ります。(地元の人ならば、画中の山を左・荒船山から右・茂来山辺りと見るのではないでしょうか。)これを後景として、前景が挿絵的に重ねられているのが英泉の常套的手法です。

 前景左側には、小規模な土盛があって木(榎)が1本植えられています。その脇には、手水鉢(ちようずばち)があります。おそらく、これは一里塚と手水鉢状の石標と思われ、該当するのは、岩村田宿西側の平塚にあった街道右側の一里塚と想定されます。ここで座頭達が喧嘩をしているというわけです。なお、前掲名所図会・前掲安見絵図には、「相生松・相生の松」が名所として掲載されていますが、当作品の木は松とは見えず、かつ夫婦和合の松に喧嘩は相応しくないので、一里塚と比定します。

 では、以上の情報を総合して座頭達の喧嘩の意味を考えてみます。岩村田は、高崎と同じく、城下(正確には陣下)に発展した宿場です。したがって、武士の気風が強い画題を描いても許される事情があります。つぎに、岩村田は南の甲斐からの道と、北の信濃・越後からの道とが交差し、古くから甲信越の交通の要地です。なかでも注目すべきは、前述の信玄ゆかりの龍雲寺が当所にある理由でもあるのですが、信玄は岩村田より信濃に侵攻しているという歴史です。つまり、座頭の喧嘩は、甲斐武田勢の信濃侵攻とそれに対する信濃の武将・越後上杉勢の反撃を擬(なぞら)えて物語るもので、端的に言えば、古(いにしえ)の川中島合戦を描くものなのです。また、戦国時代の大井の古城は坂城の村上によって落城せられ、その村上は武田に追われ、それを助けたのが上杉という関係にあり、大井の城跡は、甲信越諸将の戦国絵巻を描いたことを示す記号となっているのです。また、次の塩名田の画題が、越後に流れる千曲川と気付けば、街道を旅する座頭達の喧嘩を越えて、往古の川中島合戦の戦模様が眼前に浮かんではきませんか。一里塚に腰を下ろす親分風の座頭は床机に座す武田信玄、中央で杖を高く振り上げる座頭は山本勘助、そしてそれと対峙する鉢巻姿の座頭は上杉謙信でしょうか。右下で小銭をばら撒いてしまった座頭は六文銭の真田かもしれません。

 前掲名所図会も、八幡「筑摩川」では、川中島合戦について4頁にも亘って触れ、「山本勲功記」として掲載しています。勘助は、隻眼の武田軍師として有名ですが、この点で、座頭の喧嘩は単なる偶然の一致でしょうか。いずれにせよ、これらが英泉の発想の基にあったのは確実でしょう。ちなみに、歌川芳虎『城名一名ざとうのけんくは』(慶応3年8月)の2枚続では、座頭の喧嘩を戊辰戦争に見立てており、英泉作品が川中島合戦の見立絵(パロディー)であることの傍証となります。


*注1:英泉の川中島合戦!
 市民の浮世絵美術館
  HP(http://ukiyoe.cool.coocan.jp/kaisetsu2.htm


*注2:『岐蘓路安見絵図』(岩村田)

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22 信濃国 「小田井」

「二拾貳 木曽海道六拾九次之内 小田井」 (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido22 小田井は追分に比して飯盛女が少なく、後年、「姫の宿」と呼ばれるのですが、『木曽路名所図会』(巻之4)には、小田井は、「旅舎少し。宿悪し。…追分の駅迄家なし」とあります。また、後掲『岐蘓路安見絵図』(小田井)は、反対方向、「小田井よりいわむら田迄家なし」と記しています。さらに、同名所図会・同安見絵図は、小田井から岩村田に行く途中を「かないが原・金井が原」と呼んでいて、あわせると、小田井一帯が浅間山の裾野に広がる、寂しい草地であるということが判ります。ちなみに、同名所図会が「左に明神の馬に乗給ふ馬場とて芝に輪騎(わのり)の跡あり。右に明神の杜有」と記述する金井が原は、皎月原(こうげつはら)とも言われ、用明天皇元年、皎月と呼ばれた官女が勅勘を蒙り、当地に流され、白馬を乗り回していましたが、実は白山大権現の化身であり、その後、馬廻りをしていた草原に奇妙な一円が顕れたという伝説の地です(詳細は、『中山道分間延絵図』第7巻・解説p11参照)。

 当作品は、この金井が原の荒涼たる薄野と背後の浅間山から流れくる用水を描いています。しかしながら、秋の彼岸か、賽の河原のような宗教的景色だけが主眼なのではなくて、近景の人物群からより重要な情報が発信されていることに注意が必要です。画面左側には、甲掛け・脚絆に、白い笈摺(おいずり)を着、笈を背負い、喜捨を受ける柄杓を持ち、首には納札を掛ける、典型的な諸国巡礼の姿があります。菅笠に「同行三人」とあるので、弘法大師と旅をする2人(赤子と自分、母と自分)という意味で、お遍路かもしれません。右方向に進む先には、善光寺道との追分があるので、菩提を弔う巡礼の旅の大願成就として善光寺に向かうと考えるのがもっとも自然です。また、画面右側には、「本堂造立」と書かれた幟を持つ勧進僧が描かれています。勧進僧とは、寺社仏像の建立修復の資金調達のために全国を行脚し寄付を募る僧ですが、当作品に登場するのは、やはり、庶民信仰に支えられた善光寺とそこに繋がる善光寺道を意識してのことと考えられます。

 前掲安見絵図には、追分以降、中山道とあわせて善光寺道が併記されています。これは、中山道を旅する最重要目的の1つが信州善光寺への参詣にあるということを明示するものです。とすれば、それを描いた作品があることは当然で、善光寺を影の主題とする当作品がその1つに該当するということです。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(小田井)

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21 信濃国 「追分」

「廿貳 木曾街道 追分(オイワケ)宿 浅間(アサマ)山眺望」 溪斎画 竹・孫 極と竹 (「竹」 「竹内」)


 第3グループ(広重・錦樹堂に主導権が移る)21~30枚が始まります。木曽街道における浅間山眺望は、東海道における富士眺望と同じような意味を持つ画題と思われます。その意味で、それを英泉が担当している点に英泉の意地を見るような気がします。同様に、もう1枚の英泉作品・岩村田の「座頭の喧嘩」も、信濃国を貫く中山道を彩る構成要素の重要性において、また英泉自身の自己主張のためにも、浅間山眺望に匹敵する特別な役割を持つ画題と考えなければなりません。


Kisokaido21 初めに、画中作品番号が22になっていますが、正確には21のはずです。『木曽路名所図会』(巻之4)は、追分宿に関し、「宿よし出女あり」、沓掛から「此間石坂にして道わろし」と紹介しつつ、宿場の西側にあった、「東山道北陸道追分」を説明の第1項目に持ってきています。言うまでもなく、追分宿の名前の由来だからです。そして第2番目の説明項目が「浅間嶽」で、「小田井追分の宿、軽井沢等浅間山の麓を通る」と記し、後掲「浅間嶽」の図版が掲載されています。『岐蘓路安見絵図』では、江戸を起点にしているため、沓掛においてすでに浅間山が描かれており(前回ブログ注3参照)、「山上に常に煙立」、「此山半より上に草木生せす」、「此辺の石甚かろし。浅間のやけ石といふ」などの説明があります。追分については、北国道・善光寺道の追分(分去れ)に重心が置かれ、これ以降、同安見絵図に善光寺道もあわせて掲載されることになります。

 英泉作品の主題は、もちろん、浅間山です。軽井沢では夜の景の「浅間物」を、沓掛では雨の景の「浅間降ろし」を、そしていよいよ追分では快晴の景として「浅間山」自身を採り上げ、一種、三段落ちで浅間山麓にある3宿を紹介する趣向です。沓掛から追分の道程ならば街道右手に、追分から小田井の道程ならば、たとえば追分原から振り返って街道右手に浅間山を見上げることができます。画中の浅間山が煙を上げず、富士頂上部のように描かれているのは、旅籠(35軒)や飯盛女の多い宿場営業に対して噴火の不安を取り除く配慮です。この浅間山の姿に、長持状の荷を人足に運ばせる武家一行(加賀藩?)と、やはり大きな荷(茶?)を積んだ中馬と馬子の姿が街道の状況説明として加えられています。もちろん、北国街道(善光寺道)と中山道との分岐点であり、物流の大動脈であることを表現するためのものです。馬子が桐油合羽を着ているのは、前宿・沓掛の「平塚原雨中之景」を受けてのことでしょうか。馬の尻掛と腹掛には保永堂の宣伝が入っていて、英泉と保永堂の関係は意外にも良好です。


*注1:浅田次郎『一路 下』(p112)
「いまだ明けやらぬ信濃国は追分宿の分去れである。
 江戸方から見れば分岐(わかされ)、江戸へと向かうには中山道と北国街道の合流(あわされ)ということになる。
 …しかしこれほどの人通りは、吉日早朝の日本橋しか思い当たらなかった。」


*注2:木曽路名所図会』巻之4(浅間嶽)

Asamadake

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20 信濃国 「沓掛」

「二十 木曾街道 沓掛(クツカケ)ノ驛 平塚原雨中之景 保永堂版」 英泉画 極と壺印・竹内


Kisokaido20 『木曽路名所図会』(巻之4)は、軽井沢・沓掛・追分の3駅について、「廣野也。寒き事甚しくて五穀生ぜず。只稗蕎麦のみ多し。又菓(くだもの)の樹もなし。民家にも植木なし」とあって、浅間山の麓一帯が、寒気の厳しい不毛に近い原野であることを述べています。当作品の副題にある「平塚原」は、後掲『岐蘓路安見絵図』(沓掛)を見ると、「はなれ村」と「前沢(村)」の南に広がる広野であり、寒気の降りる浅間山の麓に当たることが判ります。前沢を過ぎ、湯川を越えると沓掛の宿場に至ります。

 当作品の遠景は、寒風吹き荒ぶ沓掛宿の入口辺りの風景かと思われます。「雨中之景」となっているのは、浅間山の南麓一帯が寒気の降りる(浅間おろし)厳しい原野であるというこの地域のイメージを、激しい風雨によって表現しようとしていると考えるべきです。そして近景に描かれるのは、この辺りを行き交う旅人や荷物を運ぶ牛を引く人の姿です。英泉の作品に登場する手前の人物は、その宿場の特徴を表していることが多く、ここには、次のような事情が反映されていると思われます。すなわち、沓掛は、東に碓氷峠あるいは借宿からの入山峠を通じて、米宿・松井田そして倉賀野と繋がり、また北や西に追分から信州各藩と繋がるなど、重要な運送ルートに位置しており、当地の農民などが牛馬を使って荷物を直送する中馬(岡船)が少なくなかったということです。当作品は、信州への帰り道の様子でしょうか。

 なお、沓掛が雨の風景となっていることには(さらには軽井沢の夕景も含めて)、次の追分で浅間山の勇姿を見せようとの思惑もあると思われます。また、前景を副題にある離村に近い平塚原の広野を進む中馬と旅人と解し、後景はその西方の前沢から沓掛にかけての宿場風景とするならば、両景の間には距離があることが判ります。しかし、これは、英泉が何度も繰り返してきた風景と情景の接合という、「挿絵作家」の画法と見なければなりません。


*注1:松尾芭蕉 「ふき飛ばす 石も浅間の 野分哉」(軽井沢 浅間神社)


*注2:浮世絵の真実と事実
 保永堂版東海道の解説に関しては、当作品がどこの場所から描かれたのかということよりは、何を伝えようとしているのかに重点が置かれています。ところが、『広重・英泉の木曽海道六拾九次』に関しては、どこの場所から描かれたのかの議論から解説に入ることが多いと言えます。これは、木曽街道の各宿場や名所地が比較的当時のまま残されていて、浮世絵の風光情緒を現実に楽しむことができるという特殊事情があるからです。ただし、その際注意が必要なのは、浮世絵は真実を伝えていても、必ずしも事実であるとは限らないということです。したがって、当作品に施された、浮世絵を面白くする加工を取り払ってから、その場所や画題の特定などに向かうべきでしょう。


*注3:『岐蘓路安見絵図』(沓掛)

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19 信濃国 「軽井沢」

「拾九 木曽海道六拾九次之内 軽井澤」 (東海堂)廣重画 竹内 (「いせ利」)


Kisokaido19 本シリーズではほとんどの場合、広重は斎号として「弌立斎」を使用しています。ところが、当作品では「東海堂」と名乗っています。その理由として、1つに、「木曽海道六拾九次之内」の一番の核心部分はやはり信濃国から始まると考えられ、その重要な1枚目を英泉ではなく、東海道シリーズをヒットさせた広重こそがその人気を背負って始めるという自負を表すものと考えられます。もう1つの理由は、当作品に保永堂が係わっており、東海道のヒットは版元保永堂(だけ)のものではなく、絵師広重が重要な役割を果たしているということを言いたかったはずです。やはり保永堂が版元であった「高崎」でも、広重は願人坊主を題材にして意味深な作品を制作しています。

 『木曽路名所図会』(巻之4)および後掲『岐蘓路安見絵図』(軽井沢)は、街道案内を始めるに当たって、ともに信濃国のイメージを総括しています。たとえば、同安見絵図は、「凡信濃は日本の内にて甚地形高き所なり。其故は海遠くして山上に有る国なり。四方の隣国より信濃に行には皆上るなり。北国は信濃より雪深けれとも地ひきゝゆへ信濃よりはあたゝかなり」と記しています。また、「軽井沢・くつかけ・追分、此三宿ともに浅間か嶺の腰に有りて其地甚高し」ともあります。

 さて、前掲安見絵図を参照すると、当作品は軽井沢の宿場を出て離山(はなれやま)が迫っている辺りを背景にしていることが判ります。日の沈んだ夕方、沓掛方面から来た駄馬の旅人がやっと宿場に到着し、ほっとして、馬子と煙管の火の遣り取りをしています。「いせ利」(錦樹堂)の意匠の入った小田原提灯に、旅人の顔が照らされています。杉木立の下の焚き火から煙管に火を点けようとしているもう1人の旅人も、焔の光に杉の右半分とともに浮かび上がっています。作品の中央辺り、粟か稗でしょうか、やはり、藁などを燃やす焔から煙が上がる情景です。「光の明暗を巧みに表現する、広重らしい名品だ」という声が聞こえてきそうです。同じく、明暗の対比によって華やかな遊女屋の景を表現した英泉の「深谷」を思い出します。

 では、なぜ軽井沢が夕闇と焚き火の対比の中に描かれているのでしょうか。前掲名所図会、前掲安見絵図、いずれにも、軽井沢は碓氷峠の直近にあり、浅間山の「腰」の宿場と説明しています。実は、この浅間山(明神)に因んだ歌舞伎舞踊の一系統に、「浅間物」と呼ばれるものがあります。手紙や起請文を燃すと煙の中に怨霊が浮かび上がって、恨みを晴らそうとします。たとえば、「胸の焔は夜に3度、此地(こち)の思いは日に3度、煙くらべん浅間山…」(『傾城浅間嶽』)というセリフが有名です。軽井沢の宿場に到着し、信州浅間の地に入ったことを受けて、浅間物の名シーンを焚き火を使って表現するという、極めて周到な構想に基づいているものと思われます。英泉は光の明暗によって飯盛女(遊女)を鮮やかに表現しましたが、これは美人画の大家としてのプライドです。他方、広重は、歌舞伎・人形浄瑠璃の名場面を旅の情景に重ね合わせ、役者絵を席巻した歌川派の一派であるというプライドを示しました。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(軽井沢)

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18 上野国 「坂本」

「十八 木曽海道六拾九次之内 坂本」 無款(英泉画) 錦樹堂


Kisokaido18 『木曽路名所図会』(巻之4)には、「百合若大臣 射貫巌 足跟石」、「日本武尊は碓日嶺より辰巳の方を見やり橘姫をこひて吾嬬吾嬬と宣ふ。…」の2図版が掲載されています。しかしながら、旅人にとってより重要なのは、横川の関所と図版「碓日嶺 熊野社」に描かれる難所・碓氷峠です。同図版には、坂本宿から「はね石坂」(刎石山・はねいしやま)を登り、上野と信濃の国境をなす熊野神社へ向かう経路が細かく描かれています。一方、英泉はその俯瞰構図の中から、坂本の宿場と登るべき刎石山に焦点を絞っています。後掲『岐蘓路安見絵図』(坂本)は、宿場に関しては、「宿の中を用水流る」、刎石山に関しては、「此所石多してさがし。此所少しの間箱根より甚難所也」と注意書きを付しています。

 当作品の構成は、宿場の中央を流れる用水を挟んで左右に並ぶ旅籠などの建物や道を行き交う人々の様子を俯瞰して描いています。『宿村大概帳』によれば、本陣2、脇本陣2、旅籠屋40とあり、宿場の手前にあった横川の関所と難路の碓氷峠を控えて相当盛況な宿場でした。宿場の左方向が刎石山の坂に続きます。当作品については、「実際の刎石山はこの絵と違って、街道の真正面に見えた」(『旅景色』p28)と解説されることが多いのですが、英泉の制作方法を考えると、街道の正面方向に見えた、攻略すべき刎石山をまず描き、その下に宿場を挿絵的に描き入れたと理解した方がよいかもしれません。広重が保永堂版東海道「箱根」で作品中央に大きな山(峠)を描いて厳しい峠越えを表現したのに対して、英泉はその役割を実景を離れて刎石山に求めたと考えられます。こうして、上野国は、広重の新町に始まり、英泉の坂本で終わることになります。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(坂本)

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17 上野国 「松井田」

「拾七 木曽海道六拾九次之内 松井田」 (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido17 『木曽路名所図会』(巻之4)は、松井田に関して「此駅を松枝(まつえだ)ともいふ。八幡宮のやしろ宿中にあり。是より妙義山に赴く」と記し、「妙義山」と「妙義惣門」の2図版を掲載しています。つまり、当宿場が妙義山への登山口に当たるという記述・図版ですが、広重は画題とはしていません。同名所図会は、宿場の手前にあった「琵琶窪」に触れ、「坂あり。是より江戸まで坂あらす、平地なり。宮の窪ともいふ」と続けていて、広重はこちらの文章を絵にしたようです。いよいよこれから碓氷峠を目指す、最初の上り坂が始まる事実を作画上の重要な主題に立てました。

 『岐蘓路安見絵図』(安中)も(前回ブログ注1参照)、「びはが窪」から左手妙義山へ1里とし、街道右手に榛名山を描き、街道のその先にある「あふ坂」について、「江戸より是まで平地」と注意書きを入れています。いずれにしても、ここ松井田から本格的な山道が始まるということです。それ故、安中では坂道ではなく、平地であることが大事なのです。なお、松井田宿と西の横川村の中間辺りにある、上りの丸山坂を画題と見る考えもあります(岸本『中山道浪漫の旅 東編』p81、『旅景色』p27写真など)。ただし、前掲名所図会によれば、「叩けば鉦の音する」茶釜石の名所として紹介されています。坂の重要度が違います。

 当作品を具体的に見ると、松の大木の下に榜示杭、石標、関札があって、ここが松井田宿の入口に当たることが想定されています。その後ろに青と赤の幟が立つ祠は、道祖神です。琵琶窪を過ぎた、上りの逢坂を右半分に描き、左半分には街道下の低地から遠くに碓氷峠が見える様を描いています。坂を下る馬は麻、紙、煙草など信州から運ばれる荷などを運ぶもので、馬子も乗って坂を上る馬は、松井田に集められる米を運ぶものです。手前の天秤棒を担ぐ男は行商人です。これらは、松井田が「米宿」と呼ばれ、信州各藩や旗本の江戸回米の中継地点であったことに対応する表現です。ちなみに、年貢米の半分は松井田で売られ、残りは倉賀野に運ばれて一部処分され、残りが扶持米として烏川から利根川を経由し江戸に運ばれます。米相場が立つなどの経済的繁栄の結果、松井田の人口は、『宿村大概帳』によれば1,009人を数える大きな規模です。


*注1:浅田次郎『一路 下』(p145)
「そもそも領分から江戸に向かう年貢米は、江戸詰め家臣の扶持を除いて換金される。ならば江戸まで運ばずに、道中で売却できれば都合がよい。そこで中山道ではこの松井田と、少し先の倉賀野宿に米市が出現したのであった。」


*注2:『岐蘓路安見絵図』(松井田)

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16 上野国 「安中」

「拾六 木曽海道六拾九次之内 案中」 (弌粒斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido16 当作品がどこの場所に当たり、何をモチーフに描かれているのかを正しく理解するためには、広重が浮世絵制作に際して使用している技法(作画の特徴)を知っておく必要があります。たとえば、当作品の街道右側は2段の階段状の谷になっており、左側は崖になっているように見えます。ところが、広重が高低差を著しく強調することがあることを知れば、右側には2段の土手がある丘が広がり、左側にもその延長線の丘があるに過ぎず、街道はほとんど平らな道となって低い丘を抜けていることが理解できます(「新町」に描かれる左右の岸の表現を参照)。丘の先にある家の屋根が覗いているのも、高低差のほとんどない平らかな街道である証拠です。

 当作品で目を引くのは街道両脇にある竹藪です。この点に関し、『木曽路名所図会』(巻之4)に間の宿「原一村」について、「神明のやしろあり。此近郷網細縄を商ふ。又竹細工の類あり」と記していることに注意が必要です。後掲『岐蘓路安見絵図』(安中)も宿場の西側にあった杉並木と社を越えた辺りに、「あみほそ引又竹細工類あり」と注意書きを入れています。そして、街道のその先は、茶屋本陣(五十貝家)、八本木の立場と続きます。つまり、安中宿から原市の杉並木を通り過ぎた大名行列が、大名や公家などの休憩施設のある茶屋本陣あるいは八本木の立場茶屋を目指す様子を俯瞰して描いているものと解されます。街道先の家も、茶屋というよりは、先の竹細工などを売っている店と考えられます。丘陵部には上州の名産である梅の木が植えられ、店の隣では梅を干す風情です。街道右脇の樹下に見える石塔は、たぶんこの辺りに多く見られる道祖神でしょう。

 当作品において安中が「平地」と考えなければならないのは、次の宿場・松井田こそが「坂道」であり、さらに次の宿場・坂本が「峠」の麓というシリーズ構成上の流れを意識するからです。広重作品の作画の特徴を見落とすと、当作品は「郷原」(『旅景色』p26)あるいはその先の琵琶窪・逢坂(岸本『中山道浪漫の旅 東編』p75、p76)を描いているという結論になってしまいます。なお、安中は板倉家の城下町で、広重が当作品で大名行列を描いている理由に、この城の存在があると思われます。城下町高崎でも高崎城が暗示されており、後に紹介する城下町加納でも広重は大名行列を描いています。広重の武士的関心と言えましょう。ちなみに、岩村田も城下町ですが、英泉の対応はいかがでしょうか。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(安中)

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15 上野国 「板鼻」

「拾五 木曽海道六拾九次之内 板鼻」 無款(英泉画) 池仲伊世利・左枠外に竹


Kisokaido15 作風が明らかに英泉であるにもかかわらず、広重が使用した「木曽海道六拾九次之内」というシリーズ名になっている不思議な作品です。また、英泉は副題を付けることが多いのですが、本作品には初めからなかったのでしょうか。作品の左枠外極印の下に「竹」(保永堂)の文字が入ったものがあることから、保永堂が英泉の版下絵に極印を貰い、それを譲られた錦樹堂が手直し(英泉名削除、シリーズ名統一)を加え、制作・版行に移したと推測されます。

 『木曽路名所図会』(巻之4)には、板鼻の東側にある「八幡宮」について、「八幡村にあり。むかし八幡太郎義家奥の安倍貞任(さだとう)宗任(むねとう)征伐のとき下向し給ひ、此所に一宿し給ひし舊蹟とて、此神をこゝに勧請す」と記し、西側にある「鷹巣山」について、「中宿(なかやど)を立て鷹巣山の岸根を碓日(うすひ)川流る。急流なり。鷹巣山は切立たる如くの崖岩山也」と記します。同様に、『岐蘓路安見絵図』も板鼻宿の東西のランドマークとして、八幡村の八幡神社と中宿村の鷹巣山を掲載しています。ついでに、同安見絵図に描かれた板鼻近くの橋は、板鼻の西口から中宿村に入る地点、「いたはな川」(碓氷川)に架かるものが唯一です(注1参照)。以上の情報は、英泉作品を理解するうえで重要な鍵となります。

 雪の積もる菅笠、蓑、合羽姿の手前4人は、「八幡宮」を過ぎ板鼻宿の東口手前にあった松並木の街道を擦れ違う旅人の情景と想定できます。よく見ると、この街道は橋には向かわず右に曲がっています。他方で、その背後には、右より、菅笠姿が2人、菅笠と蓑姿が1人、そして橋に繋がって、橋の上で立ち話をする2人、橋を渡って騎乗する2人がそれぞれ描かれていて、その街道の両脇には家がならび、宿か村への入口のように見えます。その後には左に向かって高度を増す山が見えています。この景色は、中宿村の入口にあり、鷹巣山の脇を流れる「いたはな川」に架けられた橋付近と合致します。当作品の前景は板鼻に入る手前の情景であり、後景は板鼻を出て行く際の情景なのです。これは、熊谷堤の前後を一図にした「熊谷宿」がその典型ですが、挿絵を繋げあるいは重ね合わせて制作する、英泉の作画手法を理解して初めて判ることです。当作品に描かれる川が急流なのは、前掲名所図会「急流なり」や前掲安見絵図「甚早し」の記述と全く一致します。

 従来多くの見解は、大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p317)の「駅舎をいでゝ麦畑の中をゆけば石橋あり」という記述から、英泉の画題を板鼻堰用水路に架かる寒熱(かねつ)橋としていますが、その文章の前に「右に寺あり。板はな川の橋をわたれば板鼻の駅むげに近し」とあるのを見落としています。『旅景色』(p25)も、「ただし供養塔はこの絵の中には描かれていない」と述べ、橋脇にあった供養塔が描かれていない不思議さを指摘しています。当作品が冬の雪景色になったのは、冬の行事・寒念仏(橋)に触れる『壬戌紀行』が影響を与えており、敢えて言えば、松並木の右方向見切れる辺りに架けられていた可能性があります。なお、松の描写について、北斎『冨嶽三十六景』「東海道程ヶ谷」参照。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(板鼻)

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14 上野国 「高崎」

「拾四 木曽海道六拾九次之内 高崎」 (一立斎)廣重画 保永堂


Kisokaido14 倉賀野と高崎の間に佐野に向かう道があります。『木曽路名所図会』(巻之4)には、「佐野舟橋舊蹟」の項があって、「佐野むらにあり。むかし烏川を舩橋にてわたせし。その橋をまたぎし榎の大樹今にあり。木かげに舟木の観音の石佛あり。向ふの岸を藤波といふ」と記されています。この歌枕の地に関しては、「佐野舟橋古跡 定家社 佐野恒世蹟」と題する図版も掲載されています。このような事跡の他に、同名所図会は高崎について、松平右京亮(うきょうのすけ)の居城の地で、城下の町は長くおよそ30町ばかりあり、また、月に6度の市があって、上州絹、館煙草、白目竹の馬の鞭や其外諸々の物が交易される繁盛の地であるとしています。また、越後への三国街道や前橋道の分岐点で交通の要衝でもあります。にもかかわらず、本陣・脇本陣なし、旅籠屋15軒とあって、城下町の堅苦しさからか、旅人には敬遠されていたようです。

 本作品は、広重と保永堂という組み合わせですが、広重は素直な気持ちで描けたでしょうか。さて、広重の「新町」と『岐蘓路安見絵図』とを対照した前回手法を、今回は「高崎」にも応用してみましょう。後掲安見絵図(右側部分)と比べると、広重作品の視点が川の合流地点辺りにあることが浮かび上がってきます。すなわち、遠景に榛名山、中景に高崎川(烏川)に架かる仮橋と川の流れ、近景の茶屋の背後には碓氷川との合流点がそれぞれあって、茶屋の中で煙管を持つ客は、名産高崎煙草を宣伝しつつ、川の岸(土堤)の上に位置する高崎城を見上げていることが判ります。そして、橋に続く家々や一番手前の4人の部分は、本来ならば橋を渡って西に向かう中山道の様子を紹介するために、特別に抜き書きされた部分図と考えなければなりません。つまり、家々は次の豊岡の立場風景であり、人物は街道での人間模様というわけです。

 問題なのは、この人間模様の意味です。まず、男女2人の旅人は、高崎川(烏川)を渡った先に、榛名山・草津温泉・信州(善光寺)への岐れ路があることから、物見遊山の旅が想像できます。茣蓙(ござ)を背負った男と扇子を持った男は、街道などで金品(喜捨)をねだる願人坊主(物貰い)と解されます。高崎辺りの経済的繁栄を裏返して表現しているのかもしれませんが、何か意味深です。1つ言えることは、高崎は旅籠が少ないなど、旅人を相手にする宿泊が主目的の宿場ではないので、このような風俗を描いても批判が少ないという事情は読み取れます。(後に詳述しますが、「岩村田」についても同様です。)深読みすれば、広重一行の木曽街道への旅立ち(制作)に、版元保永堂から金銭的横槍が入ったことを暗に示しているのではないでしょうか。「しょうがない、安い稿料だが、保永堂の願いを聞いてやろう」という広重の心の声が聞こえます。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(高崎)

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13 上野国 「倉賀野」

「十三 木曾街道 倉賀野(クラカノ)宿 烏川之圖」 英泉画 竹内・保永堂


Kisokaido13 『木曽路名所図会』(巻之4)には、「此所より日光山の道、厩橋の道あり。此宿を過て新田村に館林の道あり。岩鼻むら、かんの川は烏川の末にして、こゝにて両川落合ふ」とあり、さらに烏川は利根川に流入します。ここで判ることは、倉賀野が「日光山の道」(日光例幣使街道)の追分であり交通の要衝であること、および利根川の舟運と繋がって物資運搬の基地であることです。英泉の副題「烏川之圖」と題した本作品がいったいどこから描かれたのかの視点も、上記がヒントになります。なお、倉賀野河岸は、利根川流域最北端に位置し、上流の上州や信州方面からの物資輸送に利用され、たとえば、大名旗本の蔵米では、上州の安中・小幡・七日市、信州の小諸・岩村田・上田・松代・飯山・須坂・松本などの各藩のものがあります(児玉『中山道を歩く』p99)。地場産業の絹・繭・煙草などの他に、当作品では材木を筏を組んで運ぶ様子が描かれています。

 新町から倉賀野に進んでくると、中山道は烏川を渡河した後に宿中に入ります。この烏川の渡河場所は「柳瀬の渡し場」と呼ばれ、たしかに絵心は誘われるところなのですが、すでに本庄宿で副題「神流川渡場」を描いている英泉はそれを避けました。当作品では、右側が川の上流となっていることから判断して、烏川を渡った川岸の、しかも小川が流れ込んでいる場所に視点が当てられていることが判ります。日光例幣使街道との追分を過ぎると、倉賀野の下町と中町の間に、当宿場の飯盛女の寄付によって架けられ石橋(太鼓橋)があり、その小川は烏川に流れています。倉賀野河岸は、この石橋を渡って倉賀野の上町に向かう街道左側に位置しています。つまり、英泉は日光例幣使街道の追分と倉賀野河岸との中間辺りにあった小川河口の茶屋近辺から、烏川を眺望する構図を採用したと言えます。

 当作品の中景の烏川には、荷を運ぶ船と筏があって、右方向に倉賀野河岸があることが暗示されています。遠景の山に関して、中山道広重美術館『木曽海道六拾九次之内 増補版』(p144)は、「赤城山と榛名山と思われる」と判断していますが、街道正面に浅間山が見えるとすれば(注1参照)、この山は左手に当たり、あえて言えば「妙義山」と解することになります(『ちゃんと歩ける中山道六十九次 東』p68)。さて、前景には、茶屋の女房が束子(たわし)で鍋の底を擦っており、その周りで近所の童達が水遊びをする平和な情景が描かれています。その遊びに打ち興じる童達を茶屋の中から旅の女が見入っています。女性にポイントを置いた英泉の表現は、ここが宿場の女達(飯盛女)の寄付金で架けられた石橋の袂であること、また女手を主力とする養蚕業の盛んな地域であること、つまり、「上州のカカァ天下」を意識した構想図と考えると単なる思いつきではないことが明らかになります。画中に旅人が描かれる場合、そこが追分や交通の要路であることが多いのですが(「板橋之驛」、「桶川宿」)、この旅の女は、日光に向かうのでしょうか、あるいは高崎から草津に湯治に出かけるのでしょうか、さらには、女の参拝者が多かった善光寺に足をのばすのでしょうか、などと想像を広げさせる効果を持っています。


*注1:近江俊秀『古代道路の謎』(祥伝社新書.p167以下)
 群馬県内の東山道駅路に関し、「ご覧のとおり、旧利根川の線を挟んで、二本の直線で表現できるほど、まっすぐな道路で、幅は十メートルである。 また、旧利根川以西の道路は、浅間山を目印に敷設されたようで、道路の中央に立って西を見ると、山頂を道路の延長上に見ることができる。 発掘調査では、この路線は七世紀後半に造られた可能性が示されている」とあります。
 とにかく直線であることを旨とした古代駅路(東山道)と生活地を結ぶ江戸時代の中山道を同一視することはできませんが、浅間山が単なる名所風景としてあるのではなく、街道上の目印(ランドマーク)になっている事実が重要です。たとえば、この後に登場する倉賀野から坂本までは、おおよそ浅間山が街道正面方向にあると想定できます(『岐蘓路安見絵図』(倉賀野・注意書き)。また、新町までは、大まかに言って、榛名山が街道正面やや右側にあります。さらに右側に赤城山、反対に街道左側には妙義山があり、その左、南西側に富士山が遠望できるはずです。


*注2:『岐蘓路安見絵図』(倉賀野)

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12 上野国 「新町」

「拾貳 木曽海道六拾九次之内 新町」 (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido12 まず初めに触れておかなければならないのは、広重がシリーズの題名を「木曽道六拾九次之内」と統一していることです。英泉が、「木曾街道」、「支蘓路ノ驛」、「岐阻街道」、「岐阻道中」、「木曽海道六拾九次之内」、「木曾道中」、「岐阻路ノ驛」など、各種の題名・文字を使用しているのと好対照です。題名だけから見ると、英泉にはシリーズ全体を一貫して完成させる意欲が薄いように感じられ、対する広重には、揃物制作の要諦がよく判っているように思われます。言うまでもないことですが、「木曽道」ではなくて、「木曽道」と記しているのは、大好評であった前作保永堂版東海道と対であることを示して、引き続いて本シリーズの購買をも促す戦略と考えられます。最終的には、英泉作品にも「木曽海道六拾九次之内」の題名を使用するものもあり、版元合意のテコ入れ策と推測されます。また、国が変わって、「上野国」からは、広重が1枚目を取っていることに注意が必要です。心機一転の宣言です。

 さて、『宿村大概帳』によれば、新町には、本陣2、脇本陣1、旅籠屋43とあって、本庄には劣るものの、神流川を挟んで渡場を控えた宿場として発展していることが判ります。また、『木曽路名所図会』(巻之4)には、「金鑽(かなさな)明神祠」と「上野武蔵國境」に触れ、新町から倉賀野にかけて、「赤木山榛名山はるかに見ゆる」とし、「惣じて此辺には園(その)に桑を栽(うゑ)、家宅には多く蚕養(さんやう)をいとなみ、繭をとりこれを煮て糸を繰(くり)功を積(つみ)て絹に織る」と記されています。桑畑が広がり、養蚕が極めて盛んな様子が想像できます。

 新町宿の東口が神流川ならば、西口は温井川(ぬくいがわ)に当たります。というわけで、本作品で広重が描く場所は、その温井川に架かる弁天橋です。かつては川の中洲にあった弁財天(水神)の祠ですが、今は橋の袂にあります。この橋を彼岸(立石新田)に渡って、いよいよ広重の「木曽海道」の旅が始まるというわけです。一見夕景のようですが、上流からの視点とするならば、北東方、朝焼けの空が描かれているとも推測され(後摺作品参照)、英泉の日本橋「雪之曙」との対比を楽しむ趣向が隠されているのではないでしょうか。前掲名所図会にあるように、この辺りは養蚕が盛んな地域なので、橋の上を渡る大きな荷物を背負った人は、生糸や繭を運搬していると考えられます。また、左の街道上を天秤棒を担いで歩く人は、『旅景色』(p22)によれば、麹漬を作るため箱に入れた麹を運んでいると解されています。

 英泉は挿絵を繋いだような独特な表現技術を採っていましたが、広重も実写からは離れた技を見せています。それは、橋を渡った後、本来ならば真っ直ぐ左に進むであろう街道を曲げて左手前に持って来ているところです。これによって、街道を旅する人々の情景を見やすく描き込むことができます。そして、その背後に富士のように見える赤城山を加えて、上野国のランドマークを入れる細かい気遣いを示しています。川をくの字に曲げその視線の先に、富士に似た姿(?)の赤城山を据える一方、作品背後に大きな空間をとって開放感を感じさせる工夫があります。保永堂版東海道において完成された、「絵になる風景」構図の典型的応用例です。つまり、完全な構想図であることがよく判ります。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(新町)

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