60 美濃国 「今須」
「六拾 木曽海道六拾九次之内 今須」 (一立斎)廣重画 錦樹堂 関ヶ原を発って、不破の関屋の跡がある大関村、峠村、常盤御前伝説の墓がある山中村を過ぎると今須宿に至ります。『木曽路名所図会』(巻之2)によれば、「むかしは居益(ゐます)と書し也。此宿東の端に居益塔下(たうげ)といふ坂あり。峠とは和字也。又訓は手向(たむけ)といふ事なり。嶺(みね)には多く神社あれは手向して通る謂也」と興味深い説明があります。今須宿からさらに西に歩み、車返し坂を上ると「寝物語里」に着きます。同名所図会には、「こゝは近江美濃の國堺なり。長久寺村にあり。むかしはたけくらべといふ。…たけくらべといふは近江と美濃の山を左右に見てゆくところなり」と記されています。また、『岐蘓路安見絵図』(今須)には、「両国の境、小溝をへだち、家をちかく作りならべり」とあります。つまり、国境が溝幅1尺5寸から3尺程故に、両国の者が国境を隔てて寝物語もできようとのことです。ちなみに、大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p278)は、今須の宿口に「不破屋」という「極上合羽処」があるのは、不破の関屋も近く、「よき名なるべし」と記しています。
作品の制作過程については、前掲名所図会に図版「寝物語里」があります。ただし、広重の後掲スケッチ帖を見ると、「今須宿を上し方」、「みのと近江のさかひ寝物語の由来不破の関屋の旧跡」との書き入れがあって、自身追加取材をしている様子が窺えます。したがって、そのスケッチ帖が元絵と考えるのが自然でしょう。「江濃両國境」と書かれた榜示杭の後方美濃側が両国屋、前方近江側が近江屋にそれぞれ該当します。当作品の店の看板には、「寝物語由来」と「不破之関屋」という案内があり、まさに、広重の取材通りの言葉が書かれています。その中間の目立つ場所に、「仙女香美玄香坂本氏」と読める看板があって、江戸京橋・坂本氏の白粉と髪染めの宣伝となっています。遠方の旅人は今須峠を越えてくる旅人のイメージで、スケッチ帖にも「小坂」との注意書きがあった部分です。注意を要するのは、近景の旅人が何かを見上げるポーズをとっている部分です。浮世絵の定型的表現からすると、国境の榜示杭を見ているということになります。実景描写と考えれば、左の近江と右の美濃の山々を見比べ、古名・たけくらべの里を表現しているのかもしれません。いずれにせよ、そこには、ついに美濃最西端の宿場まで来たという庶民感情が仮託されているはずです。
今須で美濃路16宿が終わって、さらに中山道は西に進み、次に近江10宿(柏原から大津)に向かいます。その美濃と近江の国境に大きく立ちはだかるのが伊吹山です。
*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号11(p210)
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