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59 美濃国 「関ヶ原」

「五拾九 木曽海道六拾九次之内 関か原」  (東海)廣重画 錦樹堂


Kisokaido60 関ヶ原は、伊吹山地と鈴鹿山系が迫る狭隘の地であり、その地勢から、672年の壬申の乱、1600年の関ヶ原合戦の古戦場となった場所です。のみならず、宿中において、北国街道と伊勢街道が分岐し、物流の基点でもありました。宿場の命名の由来は、伊勢の鈴鹿関、越前の愛発関とともに古代3関の1つ美濃の不破関があったからで、『木曽路名所図会』(巻之2)にも、「不破關古蹟」として紹介されています。同名所図会が関ヶ原合戦について触れるところは多くなく、「首塚」として、「関ヶ原宿の西往還の左にあり。又若宮八幡宮の傍越前街道にもあり。慶長戦死の塚なり」とある程度です(その他に、山中村の「大谷刑部少輔吉隆塚」)。前者が西の首塚、後者が東の首塚に該当し、その間が古戦場となります。江戸時代の人々の感覚からすると、(関)東の極め、(関)西の初めという地です。

 当作品の制作過程を考えると、残念ながら、広重のスケッチ帖にはその元絵を見つけることができません。何よりも、当作品の絵柄はどこにでもある風景で、前掲名所図会の図版や『岐蘓路安見絵図』からも参考資料を探し出すことは困難です。後掲『中山道分間延絵図』(関ヶ原)を参照すると、宿場の東口から西口までは家々が間断なく描かれているので、宿場内でないことは想像できます。旅籠や茶店が疎(まば)らになる西口から隣の松尾村辺りと推論されましょう。付け加えて言うならば、その北側に古戦場があることも大事な理由の1つです。

 当作品中央の馬子は帰り馬で、梅の花咲く店の前で客待ちの風情です。追分の宿としては、自然な情景です(前掲「板橋之驛」参照)。中景の2頭の馬は、進む方向に宿場があるとして、問屋場に役馬を提供する様子でしょうか。右側の茶店には、「名ぶつさとうもち」、「三五そばきりうんどん」と書かれた看板が掲げられ、名物紹介となっています。東文化のそばと西文化のうどんの両方が売られている点に、構想の面白さがあります。看板にある35という数字は、広重作品として、「新町」より35番目という意味です。他方で、既述したように、この35という数字は出世作・保永堂版東海道の宿駅53を引っくり返した、広重にとってはとても縁起の良い数字です。当木曽海道シリーズでは、ことごとく保永堂・英泉に割り当てられた数字をやっと取り戻したという思いでしょう。広重が「東海」号を使用していることも、それを裏付けます。関ヶ原は幕府には深く関心のある宿場ですが、広重は東海道53次および自身を広報するという奇策に出たようです。そこには、前掲「垂井」の浮世絵と同様、江戸文化=東軍の広重が関ヶ原を席巻したという自負もありましょう。


*『中山道分間延絵図 十八巻』(関ヶ原) 東京美術・1983
 西の首塚と東の首塚および絵師の視線を挿入。
 
Bn_sekigahara

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