58 美濃国 「垂井」
「五拾八 木曽海道六拾九次之内 垂井」 (一立斎)廣重画 錦樹堂 木曽路11宿がほぼ南北であったのに対して、美濃路16宿は東西に綴られています。この美濃路に、北に飛騨道、岐阜道、谷汲道など、南に名古屋道、犬山道、大垣道などが交錯します。垂井宿の手前・東側を流れる相川の追分から、大垣、名古屋、熱田を繋ぐ道を狭義の美濃路と呼ぶことがあります(『旅景色』p76・注)。『木曽路名所図会』(巻之2)が、図版掲載のうえ「養老瀧」を「多藝郡多度山にあり。高さ七丈餘。樽井南道より南貳里許」と紹介するのも、垂井と次の関ヶ原との間に南に繋がる街道が幾筋もあるからでしょう。また、同名所図会は、垂井宿の命名の由来となった「垂井清水」に触れ、「垂井の宿玉泉寺といふ禅刹の前にあり」と記す一方、「宿中に南宮の大鳥居あり」と述べ、「仲山金山彦神社」(南宮神社)に多くの頁を割き、また「南宮金山彦神社」と「南宮祭禮列式」の図版を掲載しています。にもかかわらず、広重の作品を見ると、養老の滝、垂井の清水、南宮大社(大鳥居)など、全くその存在が消されているかのようです。なお、南宮大社は、美濃国一宮で、鉱山を司る神である金山彦命を祭神とし、全国の鉱山・金属業の総本宮です。関ヶ原合戦に際して、大社の南北に東軍西軍が陣を敷いたことから焼失しましたが、後に徳川家光によって再建されています。
当作品の制作過程は、やはり、広重の後掲スケッチ帖が元絵と考えられます。西の見付辺りを遠近法を用いて描いていることが判ります。背景全体はほぼ同スケッチ帖に従っていますが、雨の中大名行列の駕籠が宿役人の先導のもと宿場内に入り、それを宿内の人々や旅人が出迎えている表現については、構想部分と考えられます。何よりも目を引くのは、左側の「おちや漬」、右側の「御休処」の店の壁に飾られている浮世絵です。とくに左の茶屋の看板には、「山形に林」の版元錦樹堂の意匠が書かれています。版元と浮世絵の宣伝になっているのは間違いありませんが、それ以上の意味があるのかどうかが問題です。
雨に隠された背後(西側)は、徳川家康の最初の陣地・桃配山を通って、関ヶ原合戦場に繋がります。その方向から大名行列が歩んでくるのは、画題が武士に係わることを強調するものです。当作品の場合は関ヶ原合戦であることは言うまでもなく、それ故、降りしきる雨も、かつての関ヶ原の古戦場における激しい戦を暗示するものと考えなければなりません。そして、大名行列はさらに宿内を進み、当作品の近景手前にあって、宿場の南側にある南宮大社の大鳥居前で一礼するのかもしれません。宿役人が右手で指示し案内しているのは、宿場の本陣ではなくて、金属神・軍神でもあり、関ヶ原の戦地でもあった南宮大社(大鳥居)ではないかと思われるのですが、深読みでしょうか。関ヶ原合戦を作品に重ねて読み解けば、東錦絵、江戸の華と言われた浮世絵を飾った店は、ここが徳川・東軍側であったことをそれとなく示していると想像できます。いずれにせよ、当作品の雨、大名行列、浮世絵は、関ヶ原合戦と関連付けて初めて意味を持つという理解です。なお、次の宿・関ヶ原ではなく、1つ前の垂井における構想作品であるところが肝要です。ただし、そうなると、関ヶ原では別な仕掛けを用意しなければならなくなるでしょう…。
*注1:『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』画像番号10(p210)
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