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45 美濃国 「落合」

「四拾五 木曽海道六拾九次之内 落合」  (一立斎)廣重画 錦樹堂(意匠)


Kisokaido45 これより、美濃国に入ります。『岐蘓路安見絵図』(落合)に、「落合より西猶所坂あれとも既に深山の中を出て礆難なくして心やすくなる。木曽路を出て爰に出れば先ツ我家に帰り着たる心地する」と記されるとおり、以後、主として、穏やかな風景作品が続きます。

 『木曽路名所図会』(巻之3)によると、馬籠と落合の間の「十曲嵿」に「美濃信濃國堺」があるとあり、また、「里人は十石(じつこく)峠といふ。十曲(きよく)とは坂路(はんろ)九折(つゞらをり)多ければ名に呼ぶ」とも記されています。この石畳の峠を越えると、落合橋に至り、その橋を渡って坂道を登ると落合の宿場に着きます。落合橋について、同名所図会は、「宿の入口にあり。釜が橋ともいふ。双方より梁(うつばり)を出して桟橋とす。橋杭なし」とあって桁橋のはずですが、広重作品では通例の板橋のように描かれています。大名行列が枡形を通って宿場から下ってくるので、橋の手前が馬籠側です。したがって、背景は南側を向いていることになり、そこにぼかしを使って描かれた山は、やや位置が違いますが、恵那山となります。恵那山から流れ来る川がこの地で落ち合うので、地名も落合と呼ばれるようになったと言います。同名所図会に、「駅の西之方に杉の大樹多くある林あり。其中に落合五郎が霊を祭祠あり」とあるので、宿場背後の林は、そのイメージなのかもしれません。なお、広重が大名行列を描く場合、城下を暗示させることがあるのですが(前掲「安中」、後掲「加納」)、当作品の場合は、平らかなる街道であること、あるいは長い道程であることを示そうとしていると思われます。

 当作品を読み解く際には、前掲名所図会の情報は確かに有用でしたが、しかし、掲載される「落合橋」の図版と広重作品の構図とはかなり異なっていて、とても元絵等の資料になったとは考えられません。当作品に対しては、実景描写に近い印象を受けるのではないでしょうか。ここで、当ブログの総説で述べた話の要旨を思い出して下さい。すなわち、広重はシリーズ版行半ば、一時制作を中断し、その間中山道を旅し、京都に上る途中の街道風景や人物などをスケッチしています。そして、制作再開後、この時のスケッチが参照されて作風に実写性がより強く加味されることになります。つまり、当作品は、中山道旅行中のスケッチ帖を元に制作されたものと考えられます。この時のスケッチ帖は大英博物館に所蔵されていて、簡単には見ることができませんが、そのスケッチ帖を元に狂歌絵本『岐蘇名所圖會』(嘉永5・1852年)が制作されており、それを参考にすれば内容を推認することができます(注2参照)。「落合」は、美濃路16宿の第1番目の宿場であり、同時に、広重が制作を再開した第1番目でもあるということがここで重要な意味を持ってきます。木曽路11宿完成までは構想を中心にした作品であり、その難路・隘路を乗り越えて後、美濃路・落合からは実景を考案に織り交ぜながら描いていくことになります。

 なお、中断前と再開後の作品は、「広重画」の書体が違うので、容易に区別できます。当ブログでは、再開後の作品については、題名等をイタリック表示にして区別します。


*注1:大英博物館蔵の広重「スケッチ帖」
 楢林宗重『秘蔵浮世絵大観1 大英博物館Ⅰ』(講談社)の解説によると、再発見された広重のスケッチ帖4冊のうち、2冊が中山道を中心に描いており、嘉永5(1852)年刊の狂歌絵本『岐蘇名所圖會』3冊の元になったものに違いないと言います。スケッチ帖から、広重は、中山道を通って京に入り、大坂、播磨、備前にまで足を伸ばし、奈良経由で伊勢に行き、東海道を使って江戸に戻ったと推測されます。その時期は、天保8~9年頃です。『木曽海道六拾九次』の企画が中断したのは、広重のこの旅行が原因であったことが判ります。中断後のシリーズは、このスケッチ帖が基礎資料となっています。


*注2:『岐蘇名所圖會』(落合駅)

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