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43 信濃国 「妻籠」

「四拾三 木曽海道六拾九次之内 妻籠」  (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido43 三留野宿を出て、諸白の「和合」、餡餅の「合戸(神戸)」を過ぎると中山道は木曽川を離れ、山中を迂回して進むことになります。さらに、『木曽路名所図会』(巻之3)に掲載される「鯉岩」を街道左に見、妻籠城跡を右に望みながら妻籠の宿場に至ります。同名所図会は、「妻籠古城」について、天正10(1582)年、木曽義昌が築城し、同12年豊臣秀吉の命で、山村良勝に兵を授けて城を守らせ、伊那路の菅沼小大膳、諏訪保科の兵を破った古戦場の跡と説明しています。妻籠が伊那(清内路越)への追分の宿場として発展した経緯も読み解けます。

 広重作品を、『岐蘓路安見絵図』(みとの)と対照させると(前回ブログ注1参照)、この妻籠城跡の郭と土塁を北側から描くものであることが判ります。同安見絵図には、「木曽城跡山見事なる山なり」と注意書きが付されています。なお、妻籠城は主郭、二の郭、妻の神土塁から構成されていて、中山道は主郭と二の郭を右に、妻の神土塁を左にする鞍部を通っています(児玉『中山道を歩く』p272)。広重は、その点を色分けして正確に描いています。当作品の中央に描かれる中山道の延長上に見える山は、地理関係から恵那山と推測されます(実景に拘れば笠置山でしょうか)。街道を白装束で手前に歩いてくる旅人は、六部(ろくぶ)と呼ばれる全国行脚の修行僧で、背中に仏像を入れた厨子を背負っています。前掲「須原」作品においても、辻堂内で雨を避けていました。

 なお、後掲『岐蘓路安見絵図』(妻籠)には、「妻籠より木曽川西北に遠く流れ道は東南に行て妻籠峠(馬籠峠)を越る故木曽川遠くなる」と記されており、『旅景色』(p56)が、当作品を南側からの眺望と解する地理感は明らかに誤りです。木曽氏の古城跡を見ながらの旅は、一種蕉風の趣があり、広重の俳諧趣味がよく表れています。当作品を同安見絵図と照らし合わせるとどの場所を描いているのかが理解できるのは、逆に、同安見絵図が広重の基礎資料であることの証でもあります。


*注1:木曽路山中(『木曽路名所図会』巻之3、妻籠)
「谷中せまきゆへ田畑まれにして村里少し。米大豆は松本より買来る。山中に茅屋なくしてみな板葺也。屋根には石を石にして風をふせぐ料なり。寒気烈しきゆへ土壁なし。みな板壁なり。凡(なべ)て信濃は竹と茶の木まれなり。寒甚しきゆへ栽れども枯るゝ。他国にて竹を用ゆる物には皆木を用ゆ。就中桶の箍(わ)には檜木を用ゆ。茶は他国より買来る」
「山には桃紅梅あり。三月末頃皆一時に花開く。又此国にはふじ松とて冬は葉ことごとく落る夏木の松あり。これを落葉松(らくようまつ)といふ」


*注2:『岐蘓路安見絵図』(妻籠)

A43

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