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40 信濃国 「須原」

「四拾 木曽海道六拾九次之内 須原」  (一立斎)廣重画 錦樹堂


 浮世絵において、月に人々の思いが仮託されることがよくありますが、やはり、雨にも特別な意味が付与されることがあります。当作品の雨にはどんな意味があるでしょうか。広重がたまたま雨に遭遇した体験を絵にしたというのは、浅い考え方です。

Kisokaido40 さて、『木曽路名所図会』(巻之3)の須原には、「淨戒山定勝禅寺」、「鹿島祠」の解説と図版「兼平羅城(えだしろ)」、「須原 定勝寺」の掲載があります。定勝寺は、宿場の西口にある臨済宗の寺で、「木曾義仲十一代の孫木曾右京太夫親豊の本願也」とあり、桜の大樹の下に墓もある旨の記述があります。後掲『岐蘓路安見絵図』(須原)にも、「定勝寺木曽氏の寺なり」と注意書きが付されています。その先に今井兼平の城があった城山があります。これらから、須原が木曽氏ゆかりの宿場であることが判ります。また、大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p298)には、「すこしひきいりて大きなる寺あり。定勝寺といふ。小だかき所に鎮守の堂あり」と記し、後者は「鹿島祠」を指すと思われます。また、同書には、「右のかたの墓所のうちに大きなる桜一もとありて、そのもとに墓あり。これ木曾殿の御廟所なりといふ」ともあって、親豊の墓所のことを言っていると考えられます。

 広重作品を見ると、突然の白雨の中、後景には慌てて街道を走る旅人、前景には杉木立の間にある辻堂に逃げ込む人々が描かれています。『旅景色』(p53)は、その辻堂を宿場の南東にあって須原の鎮守であった鹿島神社と特定していますが、南畝の記述からも判るように鹿島神社は小高き丘にあるので、宿場内でかつ街道近くにあった不特定の辻堂(香取神社、天王社、鹿島神社御旅所など)と考えた方が現実的です。ただし、重要なことは、鹿島神社の辻堂かどうかではなくて、須原の宿場に夕立が襲っている情景であるということです。前段に述べたように、須原が木曽一族ゆかりの宿場であるとするならば、この雨を降らせている主体は木曽義仲を筆頭に木曽一族の思いと考えられます。木曽一族の菩提を弔う定勝寺などがこの須原にあることを、突然の「雨に祟られた」人々の様子を描くことによって暗示しているということです。

 なお、辻堂の中には、編笠を被った虚無僧、祈る六部、柱に何かを書き記す巡礼者などがおり、外には相棒と走る駕籠舁、シルエットの馬子などがいて、街道を旅する代表的人々の活写となっています。ちなみに、保永堂版東海道「庄野」で白雨を降らせている主体は、庄野が白鳥陵の場所と判れば、そこに祀られた日本武尊であることが導き出されます。広重が直接名所を描かない場合でも、その情緒を画中に表現することがあって、白雨を使った両作品はその典型です。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(須原)

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