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37 信濃国 「宮ノ越」

「三拾七 木曽海道六拾九次之内 宮ノ越」  (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido37 『木曽路名所図会』(巻之3)は、「宮腰」と表記し、また「宮ノ越と書す」として、後掲図版「木曾義仲古城 徳音寺」を掲載しています。それを参照すると、藪原から吉田村を経て中山道を進むと、右側に「山吹山」、「義仲手洗水」、その先の左(木曽川)側に「巴が淵」があり、徳音寺村を過ぎると、右側の小道を進んだ先に「とくおん寺・巴山吹墓」が見えてきます。同名所図会は、徳音寺に「木曽義仲の牌(ゐぱい)を蔵む」とあります。中山道は、木曽川に架けられた橋を渡り、木曽川を右に見て宮ノ越の宿場に至ります。宿場には行かず、左の小道を選ぶと、平家追討の旗揚げをした「八幡宮」、「義仲城跡」、義仲が戦勝を祈願した「南宮祠」があります。その山を南宮山と呼び、その中腹(腰)に位置するので一帯を宮ノ腰=越と呼ぶようになりました。

 義仲ゆかりの多くの旧蹟があるにもかかわらず、広重が描いているのは、どうやら木曽川に架かった橋からの眺めのようです。『岐蘓路安見絵図』(藪原)を見ると、宮ノ越の宿場入口手前に橋が描かれていて、『中山道分間延絵図』(宮ノ越)と対照すると「引塚大橋」とあり、同解説篇(第11巻・p34)には「いまの青木橋と思われる」とあります(その他の説、葵橋)。その近景は、夫婦が3人の子供を連れて橋を渡って宿場の方へと帰っていく姿です。一番後ろの娘は、夕霧のシルエットの中に満月を見つけて、指差しています。遠景は、この先対岸の家々や農夫を輪郭線を使わないで表現しています。なお、当地には、8月14日、子供達が松明を持って山吹山から徳音寺の義仲の墓までお参りをする「らっぽしょ」(だっぽしょ)という祭りがあります(『旅景色』p50、同分間延絵図・解説編p33)。近景の家族がその祭りの帰りとするならば、旧暦14日の満月に近い月齢と祭りの後の寂寥感を表現するものとして、当作品の状況説明には相応しい理解と思われます。

 当作品のように、広重は名所をあえて描かないことがしばしばありますが、その場合、その名所を無視しているのではなくて、その名所にまつわる情緒を第一に描こうとしていると考えるべきです。具体的には、滅び去った義仲への思いを月に映し出し(夢の跡)、それを祭りが終わった後の寂しさ(祭りの後)を使って情緒的に表現しているのです。したがって、当作品は滅び去った朝日将軍木曽義仲を月を使って追悼するものでもあります。前掲「洗馬」の月、あるいは広重の保永堂版東海道「庄野」の白雨などを参照。


*注1:『木曽路名所図会』巻之3(木曾義仲古城 徳音寺)

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