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35 信濃国 「奈良井」

「三十五 岐阻街道 奈良井(ナラ井)宿 名産店之圖」  英泉画 竹内・版元保永堂・左枠外に竹


 絵番号35の英泉作品より、いよいよシリーズ後半が始まります。英泉の作画に関しては、「その土地の特徴的な物象を集めてきて絵にしているが、その配列は必ずしも実景とは合致していない」と言われます(『旅景色』あとがき)。それ故、読み解きの際には、先行する街道案内やその絵図等を参考にする必要があります。


Kisokaido35 さて、『木曽路名所図会』(巻之3)は、奈良井について、「此宿繁昌の地にして木曽駅中の甲たり」と記し、その理由として「名造諸器」の生産を挙げ、「民居に田圃少し。諸器を製造して産業(なりはひ)とし四方に鬻(ひさ)く。これを白木細工といふ」と述べています。その代表が、「名造お六櫛」で、「宮腰、藪原、奈良井等に此店多し」とあります。英泉作品は、副題「奈良井宿 名産店之圖」および画中の看板「名物お六櫛」とから、宿場のお六櫛の店の繁盛を描いていることが判ります。なお、後掲『岐蘓路安見絵図』(奈良井)も、「此宿わんおしき其外まげ物ぬり物を多くつくる」と注意書きを付しています。

 大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p302)は、藪原で、「お六櫛の事をとふに、お六といへる女はじめてみねばり(峰榛)の木をもて此櫛をひき出せり。しかるに此あるじのおぢなるもの此業をつぎて、みねばりの木もて此櫛をひき諸国にひろめしより、あまねく人しれりといへり」と述べています。また、菊地貞夫は、「その昔、お六という娘が脳をわずらったが、御嶽山のお告げで柘植の櫛を作って髪にさしたところ、たちまち全快したので、このご利益を同病に苦しむ人々にもあたえようと、お六が櫛作りをはじめたのが、この櫛の名の由来だと聞かされた」と現地藪原で取材し、紹介しています(『浮世絵大系15 木曾街道六拾九次』集英社、p109)。

 当作品では、お六櫛の店の左側庭先に、山の清水を受ける石鉢があり、水場が描かれているようです。その背後には、柴を背負った男が下ってくる山道が見えています。『中山道分間延絵図』(奈良井)にも、宿場内にいくつかの水流と同時に中山道に出会う野道が描かれていて、当作品は宿場内の店頭を想定していると考えられます。じつは奈良井は水場の存在を特徴とする宿場なのです(児玉『中山道を歩く』p231以下参照)。注意が必要なのは、当作品の背景左側に、実際には見えない、冠雪する御嶽山が描かれていることです。これは、中山道をさらに鳥居峠方向に進んだ辺り(遥拝所)から見える姿ですが、進行方向の山々を先取りして描くことは英泉がしばしば見せてきた画法と理解して下さい(「浦和宿」、「鴻巣」、「坂本」など参照)。したがって、当作品は鳥居峠やその途中の立場等にお六櫛の店を仮設したものだという見解は採りません。

 実はお六櫛は当時、山東京伝の合巻『於六櫛木曽仇討』(文化4・1807年)の好評により江戸でもよく知られており、曲亭馬琴の合巻『青砥藤綱模稜案(あおとふじつなもりょうあん)』(文化8-9・1811-12年)、歌舞伎『青砥稿(あおとぞうし)』(弘化4・1846年)等によっても喧伝されていました。また、「木曽山へさしこむ月もお六形」、「木曽山のお六通りのいゝ女」などの川柳も作られる程で(『中山道分間延絵図・第11巻解説編』p27)、木曽山(御嶽山)とお六(櫛)はセットという扱いです。つまり、当作品の背景に御嶽山が描かれているのも、このような事情があってのことです。とすれば、店の中で、主人が櫛を挽き、女房が客の相手をしているなどの店頭風景も、合巻の絵姿や歌舞伎の役者姿と重ね合わせて楽しまなければなりません。言い換えれば、背景の御嶽山は、木曽が舞台であることを示す書割りということです

 ちなみに、前掲名所図会には、「御嶽は信濃一州の大山なり。西野、黒澤、末川、王瀧等其麓に有。黒沢より獨奉祀を毎年六月十二日十三日諸人潔斎して登る。全く富士山に登るが如し。絶頂に小祠あり。且三ッの池ありて其側巨巌々たり。四季に雪あり。霊境といふべし」とあります。大山講、富士講などと同様、山岳信仰の聖地であり、とくに御嶽講は尾張地方では大変盛んでした。後掲「御嶽」参照。


*注1:作品の読み解き方
 英泉は艶本、戯作、小説類を多数自画自作で制作しているため、当シリーズにおいても挿絵(口絵)風な描き方が強く感じられます。この点は、広重とかなり異なっています。では、広重が実景に即しているかというとそうでもなく、そもそも名所、旧蹟を避ける傾向にあり、高低差の強調、街道や川筋の屈曲など、構想性の強い作風が見えます。したがって、両絵師の各作品を読み解く際には、絵師がスケッチを元に実景に即して描いたという前提を捨て、先行する街道案内やその絵図等を参考に構想したものと考えた方が容易に理解できます。そのうえで、自身の旅の体験やスケッチなどがある場合には、実景描写をあわせて考えるという進め方です。広重は作品制作の後半で初めて中山道を旅しているので、具体的な読み解き方法は、もう少し先の作品で実証したいと思います。
 当シリーズに先行する資料あるいは参考資料として、主に下記のものを使用しています。

『岐蘓路安見絵図』宝暦6(1756)年
『東海木曾兩道中懷寳圖鑑』宝暦6(1756)年
『東海木曾兩道中懷寳圖鑑』天保13(1842)年

貝原益軒『岐蘇路の記』貞享2(1685)年
大田南畝『壬戌紀行』享和2(1802)年
秋里籬島『木曽路名所図会』文化2(1805)年

『中山道分間延絵図』文化3(1806)年
『中山道宿村大概帳』天保年間(1830~1844)


*注2:『岐蘓路安見絵図』(奈良井)

A35

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