33 信濃国 「本山」
「三十三 木曽海道六拾九次之内 本山」 (一立斎)廣重画 錦樹堂 『木曽路名所図会』(巻之3)には、本山は、「川左に流る。これも木曽山より流れ出る。木曽の本谷にはあらず」とあって、宿場の西(右)側に奈良井川が流れていることが判ります。本山から次の贄川の間には、日出塩と桜沢の2カ所に立場があり、とくに桜沢は旅人にとっては重要です。同名所図会には、「大桜沢にて木曽路の界也。こゝに標木(しるしぎ)有。西は尾州御領東は松本領なり。これを堺橋といふ」とあって、これより落合宿まで、「岐蘓の山路にして崖路桟道(がいろさんどう)多く艱難辛苦の路中なり」と記しています。つまり、境橋を過ぎるといよいよ木曽路の難路が始まるということです。江戸に向かう大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p304)は、「木曾の界也ときくもうれし」と述べています。また、「本山の駅には、うどん・そば切・しつぽく、といふ看板多し」ともあって、蕎麦切発祥の地とも言われる所以を記録しています。
次に、広重が当作品で特定の場所を想定しているのかを検討してみます。上りから下りに至る坂道について、『ちゃんと歩ける中山道六十九次 東』(p144)は、「本山宿の京口」(『旅景色』p46も同趣旨)、また、岸本『中山道浪漫の旅 東編』(p151)は、「山道となるのは桜沢の高巻道だけ」と解しています。後掲『岐蘓路安見絵図』(本山)と対比してみると、「さかいはし」の右と左に「是より東松本領」、「是より西尾州領」とあり、中山道には「上り下り」と坂道が描かれ、後者の見解の方が妥当と考えられます。さらに、当作品をよく見ると、籠を背負った子供が右手から坂を下ってくるのが描かれていて、後方の旅人が上ってくる中山道と出合っています。この山道が実際にあるのかどうかを『中山道分間延絵図』(本山)で調べてみると、桜沢(高巻道)の地点に「伊那郡道小野村迄三里」と記される旧中山道が合流していることが発見されます。「中山道は当初下諏訪宿から東堀へ出て、ここから小井川・岡谷・三沢を経由して小野峠を越え、伊那郡小野村を通って牛首峠から木曽の桜沢(本山・贄川両宿の間)へ出た」ということです(『第9巻解説編』p34、『第10巻解説編』p40)。当作品の想定地点が中山道の旅人にとって目印となる場所であり、それ故に広重が選択したことが十分に理解できます。
ところで、当作品が想定する場所は判ったとしても、傾いた大木が画面右上から左下に横切る構図には如何なる意味があるのでしょうか。中山道と旧中山道との間にあった大木は切り倒されています。そして、2人の人夫が倒れかけた大木に突支棒をし終え、煙管を吹かしながら焚火に当たっています。たぶん、籠を背負い赤い半纏を着た子供とその背後の風呂敷包を背負った旅人は、この大木の下を潜り抜けることになるでしょう。境橋を越えると、「これより木曽路」となることに気付けば、この斜めの大木は、木曽路への出入りの門であることが判ります。その意味でも、当作品の想定場所は、境橋を渡って木曽路に入る、桜沢でなければならないわけです。この発想は、前掲「松井田」において、これより坂道が続くという旅の事情が絵に反映され、「あふ坂」が描かれているのと同じ理屈です。
前掲安見絵図に、以下のような、木曽の説明が付されているのも、本山からの旅立ちが木曽路の幕開けとなるからです。すなわち、「境ばしよりさくら沢迄がけ道ゆへ馬に乗べからす。さくら沢は木曽の境也。木曽は尾州公御領なり。木曽谷中せはき故田畑少し。米大豆は松本より買来る。山中皆板ふき也。寒気はげしき故土壁なし。板かべ也。凡しなのに竹と茶の木まれ也。桶のわには檜木をわげて用ゆ。又、…略…、三月のすへの頃一時に花さく」と。なお、当作品の構図については、北斎『冨嶽三十六景』「遠江山中」との共通性が指摘されています。
*注1:『岐蘓路安見絵図』(本山)
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