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31 信濃国 「塩尻」

「三十一 木曾街道 塩尻嵿(シホシリタウゲ)諏訪(スハ)ノ湖水眺望」 英泉画 竹内・保永堂・左枠外に竹 (竹内)


 第4グループ(広重・錦樹堂主体、しかし英泉・保永堂も存在示す)31~40枚が始まります。シリーズ最初の1枚(絵番号31)は相変わらず英泉・保永堂作品です。また、日本橋から数えて35番目、すなわち、東海道53次の符丁である絵番号35番、板橋から数えて35番目、絵番号としては36を英泉・保永堂が描いており、広重はたぶん面白くないと思っていたことでしょう。しかも、その画題とされたのが諏訪湖と御嶽山であり、美味しいところを先取りされてしまった感があります。しかしながら、「洗馬」や「宮ノ腰」など、広重の名品もこのグループに属していて、広重の矜持と心意気が表れています。


Kisokaido31 『木曽路名所図会』(巻之3)には、塩尻峠に関し、「塩尻と下諏訪の間にあり。塩尻より二里登る嵿より諏訪の湖遥に見る。絶景なり。むかし松本の城主と木曽の何某と桔梗原より出て此峠にて甲州勢と信州勢と合戦ありしなり」、「長坂芝の茶屋を過て塩尻嵿に登る。これより西は筑摩郡也。左に冨士峯見ゆる。又諏訪の湖高嶋の城など鮮にして四ッ屋にいたり…」と記され、風光の良さと軍事上の重要性が窺えます。また、『岐蘓路安見絵図』(下諏訪)には(前回ブログ注2参照)、「年により十一月十二月初より、湖上一面に氷て、湖上を馬に荷を付、又は車に荷をつみて往来する。御渡りといふてふしぎあり。諏訪七ふしぎの其の一ツ也」と、厳冬期の諏訪湖の様子が紹介されています。英泉の作品は、これらの記述そのままに、塩尻峠を越えて下諏訪に向かう際の、氷結する諏訪湖と冠雪する富士との対比的眺望を描いています。なお、同名所図会・須波乃湖には、「馬はすべる故渡らず」とあるので、英泉は同安見絵図の記述に従っていることが確認できます。

 当作品を具体的に見てみると、近景には荷物を担いで峠を上る旅人に対して、下る峠の途中に、馬に乗る旅人と馬子が眼下の風景を眺める様子があって、当作品を見る者の視点を代弁しています。峠の下には今井村(岡谷市)が見え、その先の諏訪湖は凍っていてその上を歩く旅人や馬で荷を運ぶ姿が描かれています。下諏訪から当作品の中景に描かれる高島城下に向かっているようです。氷上の割れ目は、御神渡りを表しているのかもしれません。そして、遠景は、左より、八ヶ岳、富士、甲斐駒ケ岳の山並みを描写しています。中央の富士よりも塩尻峠の方が高く感じられる視点を採っていて、峠越えの厳しさを表現する意図と思われます。なお、実際には、富士はもう少し甲斐駒ケ岳寄りに小さく見えるはずです。ある種の絵心が加えられています。

 『木曽路名所図会』(巻之4)の後掲図版「諏方湖 下諏方神宮寺 高嶋城」は、下諏訪(下諏訪神宮寺)側からの視点で富士を捉えた作品ですが、英泉の富士はこの位置取りに近いようです。同名所図会にも、「冨士山眺望 下諏方の湖辺あるひは上諏方の湖辺よりも鮮に見ゆる。旅程廿五里許あり。 雪の冨士氷のうみに相對す 籬島」とあって、湖辺の富士の眺めも名所の1つです。なお、北斎『冨嶽三十六景』「信州諏訪湖」は富士(講)信仰に基づいた構想図というのが本講座の立場ですが、構想上作品を描いた場所は、同名所図会も解説する、「高嶋の前の橋の下」の「衣裳崎(ころもがさき)」を含む下諏訪側の湖畔から富士を眺望するものと推測しています。


*注1:北斎『冨嶽三十六景』「信州諏訪湖」について

 北斎の『冨嶽三十六景』は、風景を使った、一種のカラクリ絵なので、どの地点から描いたのかにあまり囚われる必要はありませんが、それでも、構想上どの場所であるかは意味のある議論です。本講座では、歌枕の地であり、湖畔の富士見の名所、衣が崎があった下諏訪宿側からの富士眺望図という立場を採っています。その観点からすると、古歌「すはの海衣が崎にきてみれは冨士のうへこくあまのつりふね」(『木曽路名所図会』巻之4)は、制作構想に重要な影響を与えています。すなわち、近景の粗末な祠(水神あるいは弁天祠)と突き出た巌(いわお)が造る三角形こそ、彼岸の冠雪する富士に相似する此岸の富士であり、その左側に釣り舟が描かれていることを勘案すると、「冨士のうへこくあまのつりふね」の姿がまさに現出していることに気付きます。衣が崎では、湖水面に富士の影を見つけることはできませんが、別の形で富士の姿を発見できるという驚きを北斎は狙っているのです。この此岸の富士に気付けば、諏訪湖畔は、富士(講)信仰者にとって、大事な巡礼地となるはずです。こうして、「信州諏訪湖」は『冨嶽三十六景』に収められるべき1枚となるのです。なお、祠の前の2本の松は、同じように、八ヶ岳を此岸に写し出す工夫と思われます。ちなみに、此岸の富士と天翔ける舟の構図は、『冨嶽三十六景』のいくつかの作品で応用されています(「武州玉川」、「甲州三坂水面」等)。


*注2:貝原益軒『岐蘇路の記』 貞享2(1685)年
「下の諏訪より高嶋の城へ一里あり。諏訪安芸守殿居城なり。三万二千石つけり。城は湖中に出て三方は湖にて陸の方一方より入口あり。其前になはて五町許あり。左右は沼なり深し。まえに橋有。橋の下は川なり。舟の出入り自由也。橋よりしものかたを衣が崎と言う名所也。此の所に富士山の影うつると言。空海の歌に信濃なる衣が崎に来てみれば富士の上こぐあまの釣舟。夫木(ふぼく)集の歌にすはの海衣がみさきながめつつけふ日ぐらしになりくらすのみ。城より上の諏訪の間六里半餘あり。」


*注3:大田南畝『壬戌紀行』  享和2(1802)年
「…下諏訪の社左にみゆ。大門のなみ木十八町ありといふ。古歌に、信濃なる衣が崎にきてみれば富士の上こぐあまの釣舟、という跡なる茶屋の障子にかきてありし也。〔(欄外文一部略)茶店の障子には西行の歌と記せり。〕下諏訪の駅舎にぎはゝし。」


*注4:秋里籬島『木曽路名所図会』(巻之4) 文化2(1805)年
「衣裳崎(ころもがさき) 高嶋の前の橋の下をいふ。冨士山の影うつる所也。
 夫木 須波のうみころもがみさきながめつゝ
       けふ日くらしになりくらすのみ 大納言師氏
    すはの海衣が崎にきてみれは
       冨士のうへこくあまのつりふね

此和哥一説若桜宮天皇の御製とも又弘法大師ともいふ。何れも不審(いふかし)けれど人口にあれば暫くこゝにしるす。」


*注5:『木曽路名所図会』巻之4(諏方湖 下諏方神宮寺 高嶋城)

Suwako

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