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29 信濃国 「和田」

「二拾九 木曽海道六拾九次之内 和田」 (一立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido29 長久保宿の西側を流れる大門川は大門峠に源流があり、ここは、『木曽路名所図会』によれば、「むかし武田信玄と信州諏訪小笠原との合戦ありしところなり」とあります。他方、その大門川と落ち合う依田(和田)川の方は和田峠より、中山道と並行して流れて来ます。そして、その和田峠の麓にあるのが、長久保から2里の(上)和田宿です。同名所図会によれば、「和田義盛の城跡あり」、また「和田義盛の霊を祭る」八幡神社があると記されるなど、和田氏との関係を窺わせます。(下)諏訪まで5里8町(幕末の宿村大概帳では、5里18町)の山道、最大高度1600mの峠越えの道として、中山道随一の難路と言えます。そのため、幕府は、唐沢、東餅屋、西餅屋、樋橋(とよはし)、落合に休み茶屋を設け、冬期間、人馬施行所(接待)を開設することを許可しました。後掲『岐蘓路安見絵図』(和田)は、「東もちやより峠迄八丁、西もちやへ廿一丁。和田大峠、鳩のむねと云。和田より峠迄二り廿一丁有。峠よりふじ山見える。東坂はやすらか也。西坂けはし。…峠には三月末迄雪ありて寒し」と注意書きを付しています(同名所図会にも同内容の記述があります)。

 広重の当作品は、手前から奥に向かって2つの坂を上って行く4人の旅人と反対方向から来る1人の旅人を雪景色の中に描いています。この雪は、前掲名所図会・前掲安見絵図にも記されるように、3月末まで積雪がある和田峠(鳩ノ峰)を意識した構想と考えられます。また広重の「晴れ」の雪景色は、多くの場合、一区切り、達成、(再)出発などの意味を持たせるための技法であることを考えると、日本橋から信濃国・浅間山を目指して歩んできた旅が終わって、木曽路・御嶽山を目指す新たな旅が開始されるという含意もあると見なければならないでしょう。とすれば、当作品中、街道延長線上の左の雪山は、御嶽山のイメージです。実景上は、左は木曽駒ケ岳、中央が御嶽山、右は乗鞍岳に相当します。峠越えの旅姿に過度の難渋さを感じないのは、「東坂はやすらか也」だからです。

 ちなみに、中山道の各宿場には、人足50人、馬50疋の常備が義務付けられていますが、この伝馬の維持は物理的、経済的に大変なので、それを補うものとして助郷制が定められ、近隣の村々から人馬が徴用されました。和田・諏訪間の通行も、この助郷制の重い負担によって支えられていたと言うことができます。


*注1:元治元(1864)年11月20日、武田耕雲斎率いる水戸天狗党を迎え撃った松本藩と高島藩は西餅屋を過ぎた樋橋に布陣しました。徳川方連合軍は背後を衝かれ、結果、敗走しています。幕末の浮世絵作品は、この戦いを川中島合戦の名において制作しています。たとえば、歌川(五雲亭)貞秀『武田勝頼木曽左馬之助信州和田塩尻峠合戦図』元治元(1864)年12月・3枚続作品など。


*注2:『岐蘓路安見絵図』(和田)

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