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26 信濃国 「望月」

「二拾六 木曽海道六拾九次之内 望月」 (弌立斎)廣重画 錦樹堂


Kisokaido26 「望月駅 城光院 望月遠江守城跡」の図版を載せる『木曽路名所図会』(巻之4)は、宿名の由来となった「望月御牧(もちづきのみまき)」について、「望月の駅の上の山をいふ。今牧の原といふ」と記しています。「むかしは例年勅(みことのり)ありて駒索(こまひき)あり。天皇紫宸殿に出御ましまし信濃の貢馬を叡覧し給ふとぞ貞観七年十二月に制む」とあり、当初信濃国は8月29日であったのが、「15日(もちのひ)」 に改定され、それが望月の牧の名の由来となったとあります。信濃の牧は国内最大の御牧であり、名馬の産地として有名で、駒も牧も古歌にも多く詠まれています。後掲『岐蘓路安見絵図』(望月)も、「望月の牧は名所也。…望月の神の嫌のよしにて、鹿毛の馬ををかず」と記しています。

 さて、広重の当作品に関して、望月の宿場に入る手前にある瓜生坂の赤松並木と谷を隔てた浅間山を描いているという通説に対して、『旅景色』(p39)は、『岐蘓路安見絵図』(八幡)の部分には「金山坂、瓜生坂両方木なし」とあり(前回ブログの注1参照)、また浅間山は金山坂から見ることはできても瓜生坂からは見えないので、次の芦田宿の西にあった「笠取峠の松並木」を借景として描くものであると主張しています。ところが、同安見絵図をよく見ると、瓜生峠にある左右の一里塚に「両方木なし」と注意書きがあるだけであることに気付きます。実際、昭和13年まで、樹齢400年の松が残っていたそうです(天童市広重美術館図録『木曽海道六拾九次展』p42参照)。前掲名所図会には、(江戸方向)「瓜生坂上り坂なり。下り坂を金山坂といふ」とあり、(京方向)金山坂を上り、瓜生坂を下る、その峠越えの際に見える名月(望月)を作品のモチーフにしていると考えれば十分であって、そこに街道背後方向に見え、かつ旅の目印である浅間山のイメージを加筆したということなのです。実見にこだわると、瓜生峠からややローカルな蓼科山を遠望している構図という見解が生まれます(前掲『中山道広重美術館図録』p147、岸本『中山道浪漫の旅 東編』p117)。満月とは言え、夜間に、旅人達が列をなして望月宿から峠を越えて次の八幡宿に向かって歩いて行くというのは不自然なので、江戸方向から坂を上って望月(満月)を眺める心情に、やはり坂の向こうに目的地・望月(宿場)を期待してもうすぐ到着するという安堵感を重ねた構想図なのです。

 急な下り坂である瓜生坂を過ぎ、蓼科山から流れてくる鹿曲川を渡ると望月の宿場に至ります。前掲名所図会(望月)・前掲安見絵図(八幡)には、鹿曲川の途中に月輪(つきのわ)という淵があり、月の「盈缺(みちかけ)」が映ると記されています。月と縁の深い宿場です。その宿場の北方に御牧が広がります。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(望月)

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