20 信濃国 「沓掛」
「二十 木曾街道 沓掛(クツカケ)ノ驛 平塚原雨中之景 保永堂版」 英泉画 極と壺印・竹内 『木曽路名所図会』(巻之4)は、軽井沢・沓掛・追分の3駅について、「廣野也。寒き事甚しくて五穀生ぜず。只稗蕎麦のみ多し。又菓(くだもの)の樹もなし。民家にも植木なし」とあって、浅間山の麓一帯が、寒気の厳しい不毛に近い原野であることを述べています。当作品の副題にある「平塚原」は、後掲『岐蘓路安見絵図』(沓掛)を見ると、「はなれ村」と「前沢(村)」の南に広がる荒野であり、寒気の下りる浅間山の麓に当たることが判ります。前沢を過ぎ、湯川を越えると沓掛の宿場に至ります。
当作品の遠景は、寒風吹き荒ぶ沓掛宿の入口辺りの風景かと思われます。「雨中之景」となっているのは、浅間山の南麓一帯が寒気の下りる(浅間おろし)厳しい原野であるというこの地域のイメージを、激しい風雨によって表現しようとしていると考えるべきです。そして近景に描かれるのは、この辺りを行き交う旅人や荷物を運ぶ牛を引く人の姿です。英泉の作品に登場する手前の人物は、その宿場の特徴を表していることが多く、ここには、次のような事情が反映されていると思われます。すなわち、沓掛は、東に碓氷峠あるいは借宿からの入山峠を通じて、米宿・松井田そして倉賀野と繋がり、また北や西に追分から信州各藩と繋がるなど、重要な運送ルートに位置しており、当地の農民などが牛馬を使って荷物を直送する中馬(岡船)が少なくなかったということです。当作品は、信州への帰り道の様子でしょうか。
なお、沓掛が雨の風景となっていることには(さらには軽井沢の夕景も含めて)、次の追分で浅間山の勇姿を見せようとの思惑もあると思われます。また、前景を副題にある離村に近い平塚原の広野を進む中馬と旅人と解し、後景はその西方の前沢から沓掛にかけての宿場風景とするならば、両景の間には距離があることが判ります。しかし、これは、英泉が何度も繰り返してきた風景と情景の接合という、「挿絵作家」の画法と見なければなりません。
*注1:松尾芭蕉 「ふき飛ばす 石も浅間の 野分哉」(軽井沢 浅間神社)
*注2:浮世絵の真実と事実
保永堂版東海道の解説に関しては、当作品がどこの場所から描かれたのかということよりは、何を伝えようとしているのかに重点が置かれています。ところが、『広重・英泉の木曽海道六拾九次』に関しては、どこの場所から描かれたのかの議論から解説に入ることが多いと言えます。これは、木曽街道の各宿場や名所地が比較的当時のまま残されていて、浮世絵の風光情緒を現実に楽しむことができるという特殊事情があるからです。ただし、その際注意が必要なのは、浮世絵は真実を伝えていても、必ずしも事実であるとは限らないということです。したがって、当作品に施された、浮世絵を面白くする加工を取り払ってから、その場所や画題の特定などに向かうべきでしょう。
*注3:『岐蘓路安見絵図』(沓掛)
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