14 上野国 「高崎」
「拾四 木曽海道六拾九次之内 高崎」 (一立斎)廣重画 保永堂 倉賀野と高崎の間に佐野に向かう道があります。『木曽路名所図会』(巻之4)には、「佐野舟橋舊蹟」の項があって、「佐野むらにあり。むかし烏川を舩橋にてわたせし。その橋をまたぎし榎の大樹今にあり。木かげに舟木の観音の石佛あり。向ふの岸を薦池といふ」と記されています。この歌枕の地に関しては、「佐野舟橋古跡 定家社 佐野恒世蹟」と題する図版も掲載されています。このような事跡の他に、同名所図会は高崎について、松平右京亮(うきょうのすけ)の居城の地で、城下の町は長くおよそ30町ばかりあり、また、月に6度の市があって、上州絹、館煙草、白目竹の馬の鞭や其外諸々の物が交易される繁盛の地であるとしています。また、越後への三国街道や前橋道の分岐点で交通の要衝でもあります。にもかかわらず、本陣・脇本陣なし、旅籠屋15軒とあって、城下町の堅苦しさからか、旅人には敬遠されていたようです。
本作品は、広重と保永堂という組み合わせですが、広重は素直な気持ちで描けたでしょうか。さて、広重の「新町」と『岐蘓路安見絵図』とを対照した前回手法を、今回は「高崎」にも応用してみましょう。後掲安見絵図(右側部分)と比べると、広重作品の視点が川の合流地点辺りにあることが浮かび上がってきます。すなわち、遠景に榛名山、中景に高崎川(烏川)に架かる仮橋と川の流れ、近景の茶屋の背後には碓氷川との合流点がそれぞれあって、茶屋の中で煙管を持つ客は、名産高崎煙草を宣伝しつつ、川の岸(土堤)の上に位置する高崎城を見上げていることが判ります。そして、橋に続く家々や一番手前の4人の部分は、本来ならば橋を渡って西に向かう中山道の様子を紹介するために、特別に抜き書きされた部分図と考えなければなりません。つまり、家々は次の豊岡の立場風景であり、人物は街道での人間模様というわけです。
問題なのは、この人間模様の意味です。まず、男女2人の旅人は、高崎川(烏川)を渡った先に、榛名山・草津温泉・信州(善光寺)への岐れ路があることから、物見遊山の旅が想像できます。茣蓙(ござ)を背負った男と扇子を持った男は、街道などで金品(喜捨)をねだる願人坊主(物貰い)と解されます。高崎辺りの経済的繁栄を裏返して表現しているのかもしれませんが、何か意味深です。1つ言えることは、高崎は旅籠が少ないなど、旅人を相手にする宿泊が主目的の宿場ではないので、このような風俗を描いても批判が少ないという事情は読み取れます。(後に詳述しますが、「岩村田」についても同様です。)深読みすれば、広重一行の木曽街道への旅立ち(制作)に、版元保永堂から金銭的横槍が入ったことを暗に示しているのではないでしょうか。「しょうがない、安い稿料だが、保永堂の願いを聞いてやろう」という広重の心の声が聞こえます。
*注1:『岐蘓路安見絵図』(高崎)
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