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広重・英泉の木曽海道六拾九次

◆はじめに

 本作品シリーズの題名について、最初に制作を担当した絵師・渓斎英泉に敬意を表すと、英泉・広重の『木曾街道』と呼ぶべきかもしれませんが、シリーズを完成させた広重に視点を置けば、広重・英泉の『木曽海道六拾九次(之内)』となります。本講座では、後者の語法に従うことにします。


◇作品制作の経緯

 『東海道五拾三次』と同じ版元竹内孫八(保永堂)が、渓斎英泉に頼んで天保6(1835)年の春頃から制作版行したと考えられます。それは、シリーズの第一図・英泉画「木曾街道續ノ壹 日本橋雪之曙」画中の傘に「未」とあることからの推測です。もともとは広重に依頼するのが自然でしたが、『東海道五拾三次』ないしは『近江八景』、『京都名所』、『浪花名所図会』などの仕事が完結していなかったのか、ひとまず、英泉と組んで始められました。その後、広重が加わり、版元も伊勢屋利兵衛(錦樹堂・伊勢利)との共同になり、最終的には、広重・伊勢屋利兵衛コンビとなり完成しました。なお、3分の2の50図(英泉24図、広重26図)が出た時点で、一時、企画は中断されています。その後、広重の計21図を加えて、少なくとも、極印一印時代の、天保13年までには完結されていたと考えられます。

 広重の作品が、前期26図と後期21図に分かれることは、「広重画」の署名にも表れています。いずれ、詳しく点検しますが、たとえば、同じ宿場で2枚の作品が版行されている、いわゆる「雨の中津川」と「晴れの中津川」の署名を見比べると明らかになります。とくに、画の字体の相違が判りやすいです。

 さて、広重作品が前期と後期に分かれる理由は、この期間にどうやら(やっと!)、広重は中山道を通って上方に向かい、そして東海道を経て江戸に帰還する旅をしていたと想定されるのです。天保8年頃ではないかと言われています。とすると、後期の版下制作は、天保8、9年頃となり、シリーズの完成は、天保13年より早く、天保9年頃かもしれません。シリーズ中、名図と呼ばれるものが前期に集中し、後期には1枚もないことも、広重が旅をしていてシリーズ版行が中断したことと密接に係わっている可能性があります。すなわち、前期は図会等の資料を元にした構想図であり、後期はスケッチに基づく写生図と考えれば、名図を生み出した構想やイマジネーションにかなりの濃淡があるということです。

 総括すると、広重・英泉の『木曽海道六拾九次』は、「英泉の担当した部分」、「広重が旅に出る前に担当した部分」、「広重が旅から帰って後に担当した部分」の三つに分かれ、これが同じ『木曽海道六拾九次』の名の下に併存しているということなのです。同時に、これがまた同シリーズの読み解きを複雑にする主因でもあるのです。広重に関して言えば、構想図についてはそのイメージが、実景図についてはどこからスケッチしたのかという点がそれぞれ問題となりましょう。


◇絵番号から判ること!

 『木曽海道六拾九次』には、一部誤りもありますが、絵番号が日本橋「第壹」から大津「七拾」まで振られています。じつは、その絵番号から、従来ほとんど指摘されていなかった面白い事実が浮かび上がってきます。揃い物の浮世絵は、5枚ないしは10枚セットで販売されることが多いという事実を勘案して、作品を絵番号1から10(10枚)、11から20(10枚)、21から30(10枚)、31から40(10枚)、41から55(15枚)、56から70(15枚)と6つのグループに分けます。第5グループと第6グループは、10+5の15枚になっているところがミソです。また、絵番号46は、「四拾六」と「四十六」の2枚がありますが、ここでは同じ46番「中津川」として処理します。

 まず気が付くことは、第1グループ10枚は全て英泉の作品と想定されることです。また、第6グループ15枚は逆に全て広重の作品だということです。したがって、大まかに言って、英泉で始まったシリーズが途中広重に交替したと見ることができます。つぎに、絵番号1、11、21、31、41の各グループ最初の作品は、全て英泉・保永堂のコンビと考えられます。各グループのトップを英泉・保永堂が取っているということは、このシリーズの主導権のありかを暗示しています。何よりも、同シリーズ最初の作品は、英泉の「日本橋 雪ノ曙」なのですから…。

 次に、英泉・保永堂コンビの最後の作品が、絵番号55の「河渡 長柄川鵜飼舩」で終わることに注目して下さい。これは、第5グループを15枚・絵番号55で切った理由にも係わっています。つまり、その意味するところは、保永堂は、英泉を使って、絵番号「第壹」の「日本橋」と「五十五」の「河渡」を押さえ、東海道53次・55枚に擬えていると見ることができるということです。これが、思い過ぎでないことは、絵番号53も英泉・保永堂コンビで「鵜沼ノ驛 従犬山遠望」となっていることから確認できます。言うまでもなく、53次の53です。『木曽海道六拾九次』の後半になって、急に英泉作品が登場してくる理由も、保永堂が『東海道五拾三次』の版元であったことに拘わり、数字53、55等を先に押さえたからだとすれば説明が付きます。

 さらに分析すると、53の符丁と考えられる、数字をひっくり返した絵番号35も、英泉・保永堂コンビの「奈良井宿 名産店之圖」、日本橋を除いた宿場の35番目・絵番号36も、英泉・保永堂コンビの「薮原 鳥居峠硯ノ清水」となっています。53次ゆかりの縁起のよい数字の総取りです。この絵番号55を最後に保永堂は『木曽海道六拾九次』から離れ、第6グループは広重・錦樹堂のコンビに替わります。なお、絵番号63(本来は絵番号64)の「鳥居本」については、唯一例外として保永堂が版元として係わっていますが、その謎については該当箇所で触れます。

 このような結果は、『東海道五拾三次』の絵師であった広重には散々な状況と感じられますが、その埋め合わせでしょうか、上野、信濃、美濃、(近江)といった国のトップは全て広重に任されています。正確に示すと、国の終わりは英泉、次の国の初めは広重となっています。たとえば、武蔵国の最後「本庄宿」は英泉、次の上野国の最初「新町」は広重、上野国の最後「坂本」は英泉、次の信濃国の最初「軽井澤」は広重、そして、信濃国の最後「馬籠驛」は英泉、次の美濃国の最初「落合」は広重といった具合です。『木曽海道六拾九次』の制作に関して、版元と絵師、あるいは絵師相互の軋轢など突発的事象があったことがしばしば指摘されますが、英泉・保永堂コンビ優位の中、意外にも、版元・絵師の合理的な約定関係が読みとれることは重要です。

 いずれにせよ、保永堂『東海道五拾三次』55枚+15枚=錦樹堂『木曽海道六拾九次』70枚という関係性(二匹目のどじょう)が読み解けてきませんか。


*注1:参考文献
 菅原真弓『浮世絵版画の十九世紀 風景の時間、歴史の空間』(ブリュッケ・2009)、浅野秀剛『浮世絵は語る』(講談社現代新書・2010)

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