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11 武蔵国 「本庄」

「十壹 支蘓路ノ驛 本庄(ホンセウ)宿 神流川渡場」 無款(溪斎画 竹内・版元保永堂)


 これより、第2グループ(英泉と広重が5枚ずつ分け合う)11~20枚が始まります。その第2グループ最初と最後の1枚は、共に英泉が絵師なので、とりあえず主導権はまだ英泉にあると言えましょう。ただし、上野国と信濃国の最初の1枚は、気を遣ってか、広重が絵師となっています。第2グループは、制作枚数も平等に5枚ずつということも含め、両絵師のバランスを取ろうとする版元の思惑が読み取れます。


Kisokaido11 天保年間(1830~1844)の『宿村大概帳』には、本庄宿について、人口4,554、総家数1,212、本陣2、脇本陣2、旅籠屋70とあり、深谷宿と比べても、相当繁栄した宿場であることが判ります。そのことは、大田南畝『壬戌紀行』(前掲書、p320)の次の文章からも推察されます。すなわち、「本庄の駅舎にぎはゝし。御代官榊原小兵衛支配所なり」とあって、さらに「(江戸方向)左に金さし大明神あり。又雷電の宮あり。又大きなる寺ありて楼門たてり。(江戸方向)右にも寺あり。駅舎のうちに書肆あり。文広堂といふ。又新古本屋林家といふも見ゆ。江戸両替町下村山城油ありと書し招牌あり。薬ひさぐもの多し」です。宿場の概況は、英泉の前作品「深谷」と重なるものがあります。

 そこで英泉は、本庄宿の西側2里程にあり、武蔵国と上野国との境界をなしていた、副題「神流川(かんながわ)渡場」を描いています。中洲までは橋が架けられ、国元に帰る大名行列が渡っている姿があり、その先は船渡しとなっていて、対岸には新町宿が小さく見えています。人物のキャラが立ちすぎる英泉にしては、珍しく自然な感じで表現されています。手前にある常夜灯は、文化12(1815)年に本庄の商人戸谷半兵衛が中心になって建てたもので、ここにも本庄の経済的繁栄の証拠があります。対岸の常夜灯は、同年、新町宿の専福寺の住職が発起人になって基金を募り建てたものです。なお、文化7(1810)年に新町の高瀬屋に泊まった小林一茶もしぶしぶ12文を払い、「手枕や小言いうても来る蛍」とぼやいています。

 背景に描かれる3つの山並みは、『旅景色』(p20、p21)に掲載される『國郡全圖』(文化11・1828年)と照らし合わせると、上毛3山を表すものと判ります。左から、妙義山、榛名山、赤城山と並び、妙義山の後ろの山は浅間山(または碓氷峠)、赤城山の後ろの山は日光男体山(『旅景色』は白根山)と想定されます。いずれの山も墨色の輪郭線がなく、遠方の山のもやいだ感じを表現する工風があります。今まで見てきた作品のなかでは、もっとも風景画の趣の強いものと言えましょう。ちなみに、『木曽路名所図会』(巻之4)には、「(江戸方向)左の方に赤木山見ゆる。富士峯に似たり」とあります。


*注1:歌川広重と渓斎英泉との違い
 ここで、本シリーズ制作に至るまでの歌川広重と渓斎英泉の経歴の違いを概略検討しておきます。両者とも武士の出身ですが、広重は定火消同心の家督を継いで以来、天保3(1832)年に「一立斎」と改号するまで同職にありました。翌年、保永堂版東海道(『東海道五拾三次之内』)の版行が始まります。他方、英泉は文化7(1810)年讒言によって役職を辞することになります。それによって相当の経済的困窮を味わい、菊川英二宅に寄寓、歌舞伎狂言作者への入門、自画自作の合巻本制作、美人大首絵や戯作の挿絵制作、合巻、滑稽本、随筆の文筆業などを経ることになります。なお、北斎、広重に影響を与えた、藍摺の団扇絵制作に先鞭を付けています。
 注目すべきは、すでに広重は保永堂版東海道をヒットさせ、浮世絵界に名所絵という新ジャンルを確立した勢いのまま、本シリーズに臨んでいるという点です。ただし、英泉にも自負があって、各種の本に絵を付けてきた経験があり、それを発展させる形で本シリーズに挑戦している点は注目されるべきです。なお、保永堂版東海道のヒットは、広重の力量なのか、版元保永堂の企画力なのか、互いに譲ることのできない矜持があるように思われます。この観点からすると、英泉と広重の対立関係はそれほど厳しいものではなく、保永堂と広重の複雑な対立感情に英泉が巻き込まれたに過ぎないのではと想像されます。
 両絵師と中山道の旅行経験の有無についてですが、英泉は、作品を見る限りでは、その足は関東周辺に止まるのではと思われます。『木曽路名所図会』など先行する資料と自分の体験とを付き合わせながら挿絵を繋ぎ合わせるように制作しています。広重については、後に詳述しますが、本シリーズ制作中、一旦中断の時期があって、その時に初めて中山道を旅しています。したがって、前半の構想図(『木曽路名所図会』などを下敷きにした部分)と、後半の実景図(スケッチを加味した部分)とに2分されます。上述の観点を踏まえながら、第2グループでは、東海道で一躍一流絵師に仲間入りした広重のプライドと、ライバル意識から北斎的表現を垣間見せる英泉の対抗心を見据えつつ、両絵師の作品を見比べて行きます。


*注2:『岐蘓路安見絵図』(本庄)

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10 武蔵国 「深谷」

「第十 岐阻街道 深谷之驛」 英泉画 竹内・版元保永堂・左枠外に竹


Kisokaido10 『木曽路名所図会』(巻之4)には、「岡部忠澄古跡(おかべのただずみのこせき) 普濟寺」の図版が掲載され、一谷合戦で薩摩守平忠度の首級を得た勲功などが紹介されています。清心寺には忠度を弔う五輪塔もあって、岡部(六弥太)ゆかりの土地柄と判りますが、稗史などとは無関係に、英泉は深谷宿の飯盛女を夜景の中に描いています。なぜならば、秩父の入口・寄居への追分に当たり、利根川舟運の中瀬河岸を控え、また旅籠が80軒(本陣1軒、脇本陣4軒)もあって江戸を出発した旅人の2日目の宿泊地として栄えるなど、商業的に発展した現状を英泉はよく知っていたからです。なによりも、熊谷にはいなかった飯盛女が深谷には数多くいました。

 大坂より中山道を通って江戸に向かった大田南畝の『壬戌(じんじゅつ)紀行』(『太田南畝全集 第八巻』p321)には、宿内では5と10の日に市が立ち、「ある人家に太鼓三味線はりかへといへる札出せるあり」と記されています。つまり、歌舞音曲が盛んでその道具修理の商いが成立する程であったということです。各地を遍歴した英泉ならば、ここ深谷に立ち寄ったのではと想像するのですが、少なくとも、美人画を描いて一家を成した英泉にしてみれば、深谷の華やかな女達の殷賑の様は手馴れた感じで描くことができたはずです。

 本作品では、左の旅籠屋に「竹うち」の柱行灯が掛けられ、格子越しに女達が遊女風に座り、島田髷に左褄をとって芸者風に描かれた2人の飯盛女が、「竹」の意匠の付いた提灯を持った仲居に案内されています。その後ろでも、遣手(やりて)と芸者風の飯盛女が打ち合わせをしています。光が当たった旅籠に対して、右奥の枡形部分は影絵のような表現で、杖を衝く按摩や御用提灯を持った宿役人などが描かれています。光と影の対比をもう1つのモチーフにした作品です。


*注1:大田南畝『壬戌紀行』(じんじゅつきこう)
 みずのえのいぬ、享和2(1802)年3月21日、大田南畝(蜀山人)が大坂銅座詰の任を終え大坂を立ち、中山道を経由して4月7日、江戸に着くまでの紀行。『大田南畝全集 第八巻』(岩波書店・1986)に所蔵。


*注2:浅田次郎『一路 下』(中公文庫、p251)
「旅宿八十軒を算える大きな宿場だが、ここに泊まる行列は少ないと聞いている。飯盛女が多いからである。家来衆が御家の体面を穢すことを怖れ、行列は飯盛女のいない熊谷宿に泊まる。江戸からわずか二十里たらず、つまらぬ評判は伝わりやすい。」


*注3:『岐蘓路安見絵図』(深谷)

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09 武蔵国 「熊谷」

「第九 岐阻道中 熊谷(クマカヤ)宿 八丁堤ノ景」 英泉画 竹内・保永堂


Kisokaido09 『木曽路名所図会』(巻之4)には、熊谷の宿中にあった浄土宗寺院「熊谷直實古跡 熊谷寺(ゆうこくじ)」の図版があり、またその蓮生山熊谷寺の縁起に関連して、熊谷次郎直実の源平合戦での活躍、一谷で平敦盛を討った無常感、熊谷次郎の伯母聟権守久下直光との所領争い、その後の出奔と法然上人との出会いなどが記述されています。次に、久下、吹上、箕田と立場の紹介があって、「ばら原に山王のやしろ(現吹上神社)あり。これより土手のうへを通る。(江戸方向)左の方土手の下はみな沼なり。(江戸方向)右にあら川見ゆる。吹上の茶屋にて忍さし足袋を商ふ左に忍(しのぶ)の城への道あり。一里餘なり」と記しています。

 英泉は前掲名所図会の後段部分を受けて、副題「八丁堤ノ景」の下、吹上村から久下・戸田八町村まで続く、荒川左岸の土手道「熊谷堤」(英泉の言う「八丁堤」)を選択したようです。前作品「鴻巣」が副題を「吹上冨士遠望」としているので、視点を吹上側からではなく久下・戸田八町側に置いて、歩んできた荒川堤防上の道を見返すという視点で描いていると考えられます。藍摺りの田畑風景の中、九十九折の土手道を旅人が歩く姿が、一種漢画風に作品背景に描かれています。同作品左側の茶屋では馬子と旅人が煙草を吸い、「竹」の意匠の入った腹掛をする馬は飼葉桶に頭を突っ込んでいますが、場所が久下の立場とすれば、忍藩の藩主が鷹狩の際休憩したことから「御狩屋」(みかりや)と呼ばれた茶屋のイメージです。「あんころ」と「うんとん」(うどん)の看板が目を引きます。

 さて、議論が分れるのが、右側の石標と地蔵菩薩です。石標には、「みぎおしぎょうだ道」、「左深谷二里廿町」と書いてあります。同名所図会には、既述したように、吹上から忍城(城下町は行田)への道があると記されていることから、吹上にあった追分の石標と考えれば良いでしょう。そこから、熊谷までおよそ「二里廿町」程ですから、石標の「深谷」は「熊谷」の誤記となります。このように解するのは、吹上(荊原)には「権八延命地蔵」と呼ばれる川守の地蔵菩薩があって、本作品の右側に描かれる情景を説明するのに矛盾がないからです。『旅景色』(p16)は、久下(熊谷堤下)にあった川守の地蔵菩薩を「権八地蔵」と考えているようですが、「この石標の位置には疑問が残る」という一貫しない結論になっています。

 英泉の作品を一体の絵画と評価するのは間違いで、複数の名所(要素)を挿絵的に描き入れたガイドブックと見なければなりません。したがって、本作品の場合は、左の茶屋から「八丁堤」を望み見るのは久下の立場であり、右の石標と地蔵菩薩は吹上の立場・追分辺りなのです。熊谷堤(八丁堤)の両端が一図に納められているという理解です。とすれば、供を連れ、駕籠に乗る裕福そうな町人が窓越しに旅人に声をかけているのは、吹上(荊原)の権八延命地蔵を話題にしていると推察されます。なお、権八地蔵は、鴻巣の勝願寺にも一体あります。なぜならば、歌舞伎の名場面から、後付で生まれた名所だからです。


*注1:権八地蔵
 本庄助太夫を斬って江戸に出奔し、大宮原で強盗を働いた鳥取藩士平井権八をモデルとした歌舞伎では、役名・白井権八がこの辺りで辻斬りをし、そばの地蔵に「このことを言うな」と言ったところ、地蔵が「わしは言わぬが、お前も言うな」と答えたという有名な場面があり、そこから生まれたのが、権八地蔵です。その他に、権八と小紫が絡む歌舞伎『浮世柄比翼の稲妻』(うきよづかひよくのいなずま)では、幡随院長兵衛から「お若いの…」の台詞を引き出した『鈴ヶ森』が有名です。


*注2:忍城
 忍城は、15世紀末、成田親泰が利根川や荒川の流れを利用して築城した防備の固い名城でしたが、豊臣秀吉の小田原北条攻めに際し最後まで抵抗したものの、逆に川の流れがあだとなって、石田三成等の水攻めで落城しました。のぼう様(成田長親)について、野村萬斎『のぼうの城』(2012年・日本映画)参照。


*注3:『岐蘓路安見絵図』(熊谷)

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08 武蔵国 「鴻巣」

「第八 岐岨街道 鴻巣(カウノス) 吹上冨士遠望」 溪斎画 竹内・保永堂


Kisokaido08 『木曽路名所図会』(巻之4)は、鴻巣について、「大木の杉林大竹の林あり。(江戸方向)左の方に館林並に日光山への道有。又ここに勝願寺といふ浄土宗十八檀林の一ヶ寺あり」と記しています。「大木の杉林大竹の林」の記述は、この地にあった大木に鸛(鵠の鳥)が飛んできて蛇を退治して御神木の祟がなくなったことから、鸛(鵠の鳥)を祀った宮(氷川神社)ができ、それが地名の由来になった伝説を踏まえているのでしょう。館林行田道、日光裏街道、松山道など交通の要衝であることも判ります。なお、勝願寺には、初代関東郡代として新田開発や河川付け替え工事等に従事した、伊奈忠次・忠治父子の墓があります。
                                                      
 ところで、前掲名所図会は、鴻巣から熊谷に向かう途中にあった、「箕田(みた)村八幡宮 渡辺綱舊趾(わたなべつなのきうし)」という図版を載せています。嵯峨源氏にして、源頼光の四天王と言われた渡辺綱ゆかりの土地柄であるということです。同名所図会によれば、鴻巣から、その箕田村、中井村、前砂村、吹上村、荊原(ばらはら)村、久下村、戸田八町村を経て熊谷に至るとあります。そして、その吹上村に関して、「立場にして茶店(さてん)あり」とあって、英泉作品は、副題を文字通り信じれば、この立場の辺りから富士を遠望するものであると謳っていることになります。ところが風光という観点から同名所図会を読んでみると、吹上に関しては荒川の土手と忍の刺足袋の記述が中心で、むしろ、箕田村近くの「前砂むら(江戸方向)右に浅間峯見ゆる」とあります。土手上にあった高度の低い吹上の立場を富士見の名所とすることには不自然さを感じます。したがって、本作品は、土手に下る前、吹上よりももっと鴻巣に近い「前砂の一里塚」辺りからの富士遠望図と判断することにします(後掲『岐蘓路安見絵図』鴻の巣参照)。

 英泉が鴻巣を発って、箕田村を過ぎ、前砂の一里塚辺りで富士や浅間を遠望し、そして吹上の立場の茶店で休息をした体験と印象から生まれたのが本作品と考えれば、納得できるのではないでしょうか。つまり、「鴻巣宿から吹上の立場に行く途中、富士遠望する図」ということです。途中の道程と時間の長さが省略されています。

 さて、本作品の近景には、全国を行脚する虚無僧の旅姿が描かれています。白装束、編笠、尺八、帯刀がお決まりの普化宗の有髪僧です。その虚無僧と擦れ違う振分荷物を担う旅人の後ろを振り返る姿は、その視線の先に富士が来ていませんが、まさに富士を見返す仕草の典型(浮世絵的表現)と考えなければなりません(保永堂版東海道「原」参照)。次に、中景と後景には、両掛荷物と振分荷物の商人、風呂敷包同士の商人が描かれています。旅は道連れという風情です。九十九折になった榎の道に3組の旅人を重ね合わせるのは、視線の移動を利用して旅人に動きを感じさせようとの試みです。強風に弄ばれる富士と旅人の対比構図である、北斎『冨嶽三十六景』「駿州江尻」を彷彿とさせます。ただし、英泉作品には、あまり風や人の動きが感じられません…。ちなみに、道程を短縮する傾向のある英泉が、敢えて道を蛇腹に描いている意味は、荒(畑)地の中に、長い一本道が続いていると想像しなければならないでしょう。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(鴻の巣)

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07 武蔵国 「桶川」

「第七 岐阻街道 桶川(ヲケカワ)宿 曠原之景」 無款(英泉画) 保永堂


Kisokaido07 『木曽路名所図会』(巻之4)には、「上尾まで三十町」とあって、宿場間がかなり短く、実際にも上尾と一体となって発展していた宿場と言えます。大宮台地の一番高い部分に当たり(東間浅間神社)、そのため麦などの畑作が中心の地域で、その他に、「桶川臙脂(えんじ)」と呼ばれる紅花、武州藍、紫根などの染料植物、煙草栽培などが有名です。江戸や京都を念頭に置いた商品作物の生産地ということになります。穀物問屋、紅花(染料)問屋などと旅籠が混在する宿場です。

 英泉は、このような環境を理解して、副題「曠原之景」の下、桶川宿から北に延びる広大な畑地を走る街道とそこを呑気に歩む帰り馬の馬子を描いています。また前景には、石臼に扱(こ)き箸を差して穂から麦を引き離す作業をする農婦、さらに煙草の葉を干す農家では囲炉裏から煙管に火を点けようとしている農夫が描き入れられていて、上尾の鍬太神宮(現氷川鍬神社)と関連する踏鋤の農具、さらには麦の落穂を狙う雀等も含めて、農村地・桶川の畑作農家の情景が色々と表現されています。農婦に話しかけている旅人は、その指の方向(東方)から想像すると、同名所図会に「岩付への道これあり」、後掲『岐蘓路安見絵図』(桶川)に「岩付へ二リ」とそれぞれ記される岩槻道、『旅景色』(p14)の言う加納天神に向かう天神道、あるいは反対方向に、十返舎一九『続膝栗毛十二編下』でお礼参りの旅人が向かう松山(箭弓・やきゅう)稲荷道などを尋ねているのかもしれません。つまり、桶川宿が交通の要地であることが前提とされている作品と考えられます。

 農作業を正確に描いている点などからして、おそらく本作品は、放浪時代、桶川と鴻巣とを繋ぐ曠原の道を実際に歩いた自身の取材と記憶から制作されたのではないでしょうか。ただし、それによって、当作品が江戸庶民に受けたかどうかは別問題です。なお、本作品には英泉の落款がないのですが、平成18年、「英泉画」の署名作品が米国にて発見されていることを付言します。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(桶川)

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06 武蔵国 「上尾」

「第六 木曾街道 上尾(アゲヲ)宿 加茂之社」 溪斎画 保永堂


Kisokaido06 上尾宿は、『木曽路名所図会』(巻之4)には、「此駅より川越道、岩付道、日光道あり」と記され、追分の宿場に当たることが判ります。児玉幸多『中山道を歩く』(中公文庫、p43)には、飯盛女も多く、「三里はなれた川越あたりからも遊びにきたという」とあります。また、大宮と上尾の中間にある賀茂村につき、同名所図会は、「賀茂村に賀茂祠(かものやしろ)あり」と記し、英泉の当作品もこれを受けて、副題「加茂之社」を描いています。加茂神社は、京都の賀茂別雷(わけいかずち)神社(上賀茂神社)の分霊を奉祀した社で、五穀豊穣の神です。おそらくそれに掛けて、加茂大明神の幟が見える境内隣の農家の前には、当時、最新式であった唐箕(とうみ)を使って籾摺りを行う様子が紹介されているのだと思われます。画中で、両掛を担った供を連れる合羽姿の武士が見返しているのも、その珍しさに引き込まれた様子を表現するものです。また、当神社は安産の神としても祀られていたようで(『ちゃんと歩ける中山道六十九次 東』山と渓谷社、p30)、境内に掲げられた、「竹之内板」、「保永堂」などの幟は、宣伝とシリーズの安産を願ったものかもしれません。左後方の森の背後に描かれる山は、街道が向かう上州や日光の山々のイメージと思われます。

 英泉が加茂神社をなぜ画題に選んだのかは、一考に値する問題です。なぜならば、そもそも、大宮作品で武蔵国一宮の氷川神社を直接描いていないうえ、大宮から上尾にかけての街道沿いには、天満宮、諏訪(南方)、愛宕、鍬、雷電、浅間等々その他にも多くの神社があるからです。後掲『岐蘓路安見絵図』(大宮)を参照すると、「加茂村・加茂大明神の社」を挟んで、右手に「土手村」の立場があり、左手に「馬喰町新田」の立場があります。そして、「左にちゝぶ山見ゆる」との注意書きとあわせて、加茂神社の正面(南西)に、「秩父山」が描かれています。また、『中山道分間延絵図』(上尾)には、加茂神社の南西に、富士の遠景が描かれています。つまり、加茂神社を英泉が描いたのは、神社自体を名所として選んだのではなくて、秩父山、富士山と正面する場所の標識として紹介する趣旨と考えた方が説得力があります。そこから見える富士は、前作品「大宮宿 冨士遠景」と同様な姿であったことでしょう。この前提に立つと、当作品中、街道上左の武士と従者が見返しているのは、唐箕(だけ)ではなくて、富士・秩父の遠景であるのかもしれません。中景の森の背後左手に薄く2つの山が描かれているのも、描かれていない正面の山を意識させる工夫かと思われます。


*注1:『岐蘓路安見絵図』(大宮)

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05 武蔵国 「大宮」

「第五 木曾街道 大宮宿 冨士遠景」 溪斎画 竹内・保永堂版


Kisokaido05 大宮といえば氷川神社の門前町で、『木曽路名所図会』(巻之4)にも「氷川神社 武蔵国一宮」という図版があります。しかし、英泉はそれを避け、富士の遠景をテーマにしています。そこで、大宮辺りの富士見の名所を探してみると、同名所図会に、「大宮原」として、「野原の間三十町許(ばかり)あり。中程に立場の茶店(さてん)あり。これを六国見といへるなり。纔(わづか)三十歩餘の所より近国の高山見ゆる。富士、浅間、甲斐、武蔵、下野日光、上州伊香保などあざやかに見えたり」との記述が見つかります。また、同名所図会には、「針ヶ谷村」として、「此所よりも雲晴たる時は富士峯見ゆる」と記されています。後掲『岐蘓路安見絵図』(浦和)には、「はりがへ村」に「空はれたる時は冨士山見ゆる」とあり、さらにその先の場所に、「大宮原の間三十丁斗あり。中程茶屋あり。立場なり」との注意書きが付されています。

 以上の記述と英泉作品とを対照すると、当作品の左下の「青面金剛」とかかれた石塔は針ヶ谷村にあった庚申塔と看做されます。次に、(宿)駕籠に乗った旅人、振分荷物姿の男の進む先、左手に土堤道が描かれてますが、これは大宮原を進む中山道と見ることができ、「六国見」を表現していて、これも先の記述と矛盾しません。したがって、桜咲く春の景色のなか、画中左下の鍬を担いだ農夫と竹籠を背負った少女は浦和宿方向に歩いていく姿となります。まさに、村境の庚申塔が、村人には悪霊侵入を防ぐ賽の神であり、旅人には道中の安全を守る道祖神であったことがよく表れています。桜の木の間から見える富士の姿は北斎作品に前例があり、富士の祭神が木花開耶姫であると思えば、非常に親和性のある情景です。いずれにせよ、針ヶ谷(近景)と大宮原(右手中景)の2ヶ所からの富士眺望を、1図にした作品と理解できます。

 茶色の土堤道を針ヶ谷の立場から右に折れる赤山街道とする見解(岸本豊『中山道浪曼の旅 東編』信濃毎日新聞社、p25)は、方向が真逆であり、作品に採り上げるほど重要な街道でもなく、賛同できません。大宮原を宿場方向に進む中山道と捉えた方が、その街道の北西側に氷川神社があるという地理関係を想像することができます。つまり、大宮の名の由来となった氷川神社を作品に取り込むことができるということです。なお、『旅景色』(p12)は、大宮宿を越えた「土手村へ入ると、左手に富士山と秩父山地にある武甲山がよく見えるようになる」とし、英泉作品をその風景と解説しています。大宮の宿場と氷川神社を一気に飛び越えてしまっている点で、やはり賛同できません。英泉の次作品「上尾宿 加茂之社」と比べ、描いた場所があまりに近すぎるという不自然さもあります。


*注1:浅田次郎『一路 下』(中公文庫、p297)
「武蔵国一宮氷川神社は、太古に出雲大社を勧請したと伝えられ、諸国氷川社の総本社である。むろん大宮の地名はこの御社にちなむ。
 国生みの神である大己貴命(おおなむちのみこと)と、その父母たる素戔嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫(くしなだひめ)などの諸神を祀ることから幕府の崇敬も篤く、社領三百石を寄進されていた。
 社殿に至る参道は十八町もの長さがある。それもそのはずで、古来この参道そのものが中山道であった。三代将軍大猷院(だいゆういん)様の御代に道を改め、新たに門前町を営んだゆえに、大宮宿は隆盛をきわめた。
 本陣が一軒きりであるのに、脇本陣が九軒もの多きを数えるのは、貴人がしばしばここに参詣するからである。しかし参勤道中にとって江戸までの七里十六町は半端であるから、宿泊はせずに脇本陣にて休憩し参拝するが常であった。」


*注2:『岐蘓路安見絵図』(浦和)

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04 武蔵国 「浦和」

「第四 支蘓路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望」 英泉画 竹内・版元保永堂・左枠外に竹


Kisokaido04 『木曽路名所図会』(巻之4)は、浦和について、「ひがしの口に月読宮(つきよみのみや)また稲荷のやしろあり。空晴たるときここよりも浅間山見ゆる」と記し、さらに浦和の南、岸村にあった「調神社(みつぎのじんじや)」と白幡村にあった「焼米坂(やきごめざか)」を紹介しています。後掲『岐蘓路安見絵図』(浦和)にも、宿場出口に「空はれたる時は浅間山見ゆる」と記されてます。浅間山が画題となる所以で、遠景は浦和宿とその先の大宮台地上から見える浅間山です。中景には土橋と榜示杭があって、通説は浦和宿の入口と考えていますが、同安見絵図には該当する川がありません。そこでもう少し手前を探ると、蕨と浦和の間の辻村に川(見沼代用水)があって橋が架けられています。『中山道分間延絵図』(辻村)を見ると、そこには「山口土橋」「トウカケ土橋」の名があって、当作品の土橋の風景と一致します。したがって、画中の榜示杭も辻村と西の根岸村との境をなすものと考えられます。土橋手前右側の建物に人が居ますが、これは辻村の立場茶屋ということになります。この土橋を越えたところに、同安見絵図は、「此所年中やき米を売る。名物也。よつてやき米坂と云。本名うらは坂也」と注意書きを入れています。調神社は、さらに先、宿場入口右側にあります。

 では近景左側の、版元を表す「竹」の文字の腹掛をする馬と馬子、右側の従者を連れた武士は、それぞれ何を意図するものでしょうか。前掲分間延絵図には、山口土橋の手前から左に折れる道があって、「足立郡笹目領道満渡場江出ル一里余り」と記されています。また辻村の一里塚を過ぎた辺りには右に折れる道があって、「日光御成道鳩ヶ谷宿江出ル道法二里余り」ともあります。以上から考えて、左側の馬子は荒川の道満河岸に荷物を運ぶ姿、右側の武士は日光(街道あるいは山)方向を見返す姿と想像できます。つまり、蕨と浦和の間にあった辻村の追分(交通)情報を提供しているのです。英泉は、作品の中に比較的このような街道情報をよく入れています。いずれにせよ、近景の人物群は、荒川や日光などを暗示して江戸から離れて行くという状況を語る記号と捉えられます。これによって、反面、画中遠景の浅間山(信濃国)を目指す旅が本格的に始まるということが表現できるということです。なお、馬糞を集める子供は、この辺りの農村風景の典型ということでしょう。

 当作品の構想意図は、前作品「蕨之驛」が板橋の志村側にあった戸田の渡しを描いていたので、蕨宿を出た辻村の立場を紹介し、蕨宿近郊の様子を補いつつ、副題にある主テーマ、浦和宿からの「浅間山遠望」を採り上げたというところにあります。英泉作品は、広重と比べると、いささか状況説明的ですが、その分挿絵的手法を駆使して、意外に正確な地理情報を提供しています。


*注1:『東海木曾兩道中懷寳圖鑑』(宝暦6・1756年)の改訂版が、天保13(1842)年正月、版元須原屋茂兵衛より出版されていますが、その絵図を英泉が担当していることは非常に興味のある事実です。


*注2:桑楊編『岐蘓路安見絵図』(蕨)
 版元、万屋清兵衛、茨城多左衛門、須原屋茂兵衛。宝暦6(1756)年11月刊行。

A03

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03 武蔵国 「蕨」

「第三 木曾街道 蕨(ハラビ)之驛 戸田川渡場」 溪斎画 保永・竹内


Kisokaido03 板橋宿を発ち、志村(一里塚)を過ぎると中山道最初の難所、戸田の渡しに出会います。そこからさらに2km程進んだ所が蕨宿です。戸田川は下流で荒川、隅田川に続きます。出水して川止めになると、江戸から来た者は引き返すか、千住へ回ることになります。『江戸名所図会』(前掲書4、p382~p383)の後掲図版「戸田川渡口」を見れば、遠くに富士や大山、秩父の山々が望める様子が一目瞭然です。英泉は、そこから渡し船の部分だけを切り取って描いたと言えそうです。船が向かう先の(下)戸田村が渡し船の権利を持っており、川会所もあって、本作品ではよしず張りの船頭小屋が描かれています。飛び立つ白鷺の中、人馬ともに渡し船に乗っていますが、引回合羽を着て風呂敷包を背負った旅商人の背後に座り込む2人連れは、村々を謡い歩く盲目の瞽女(ごぜ)です。広重(保永堂東海道)が「川崎(六郷川渡舟)」で、やはり2人の女性を描いているのを意識したのでしょうか?戸田川の上流にあった神宮(かにわ)川は、曲亭馬琴『南総里見八犬伝』では犬塚信乃が登場する場所であり、三代豊国や国芳の浮世絵作品では、この辺りを八犬伝ネタと関連付けて紹介しています。

 なお、ここまで英泉描く旅人は、日本橋北詰彼岸を出発し、板橋で庚申塚を過ぎ結界の地を越え、再び戸田川で彼岸に渡るといった具合です。庶民にとって旅は日常を越えた彼岸への旅立ちなのだと、強く感じさせる序章構成となっています。


*注1:『木曽路名所図会』(きそじめいしょずえ)
 大坂の版元・和泉屋源七等と京都の版元・小川多左衛門等から、文化2(1805)年に刊行され、6巻7冊の構成です。編著者は、『都名所図会』を筆頭に数多くの名所図会を刊行した秋里籬島、絵師は、京都の西村中和(号・梅渓)です。当図会の言う「木曽路」は、京都三条より近江・美濃・信濃・上野の四つの国を経由して江戸日本橋に至る中山道のことを意味しています。69駅、135里余りあります。『木曽名所図会』ではなく、『木曽路名所図会』と呼ぶ所以です。ただし、京から草津の宿までは『東海道名所図会』と重なるので、そちらに譲ることとして基本的には省略されています。
 西村中和の跋文によれば、この図会を作成するために、秋里籬島と西村中和は、享和2(1802)年夏から、木曽路の旅に出て、江戸に着いたのは2年8ケ月後の文化2(1805)年3月であったと記しています。秋里籬島はこの当時すでに70近い年齢で、実に3年を費やして取材旅行をし、実地調査に基づいて編纂し、写生画を掲載したことが判ります。
 全6巻のうち、4巻目で江戸日本橋に到着し、5巻は日光道中、6巻は香取・鹿島・筑波山といった木曽路とは関係のない名所図会となっています。これは、先行作『木曾路之記』(正徳3・1713年)を著した貝原益軒が、あわせて、日光参詣記などを出しているので、それらを営業的に意識したものと想像されます。


*注2:『江戸名所図会』(戸田川渡口)

Todagawawatasiguti

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02 武蔵国 「板橋」

 「第二 木曾街道 板橋之驛」 英泉画 竹内・保永堂


Kisokaido02 板橋は中山道第一宿で、『江戸名所図会』(前掲書4、p262)には、「伝舎(はたごや)・酒舗(さかや)軒端を連ね、繁昌の地たり」とあり、また『木曽路名所図会』(巻之四)には、「花魁(うかれめ)店前にならび紅粉(こうふん)を粧ふ」ともあって、東海道の品川宿と同様に飯盛女(事実上の遊女)が多数置かれ、遊興の地でもあったことが判ります。おそらく、英泉も遊んだことでありましょう。品川、千住、板橋、内藤新宿は江戸四宿と呼ばれ、いずれも街道の起点にあり、同時に遊興の地でもありました。同『江戸名所図会』には、「駅舎の中ほどを流るる石神川(しやくじがわ)に架する小橋あり。板橋の名ここに発(おこ)るとぞ」とあります。

 さて、英泉描く風景は板橋宿ではなく、後掲『江戸名所図会』(前掲書4、p258~p259)の図版「巣鴨庚申塚」と照らし合わせると、少し手前の場所であることが判ります。英泉作品の中央部に描かれる石塔が、王子稲荷や王子権現に向かう王子道との分岐点にあった庚申塔です。巣鴨の立場にあったその石塔の正面には「青面金剛(しょうめんこんごう)」、右面には「右王子道」と書いてあるはずです。悪気悪霊封じのため村境などに建てられました。英泉作品の左端には、竹矢来に囲まれた榜示杭(棒鼻)が見えていますが、「従是(これより)板橋宿」と記してあるはずで、宿場の端に当たります。つまり、遠近画法を応用して、巣鴨の立場から板橋宿の旅籠を遠望するという構図を採っているということです。ただし、巣鴨の立場と板橋の宿場との間にはある程度の距離があるので、その間をショートカットしたうえでの作図です。立場には木陰を利用してよしず張の出茶屋があって、その店の前で馬の草鞋を交換する馬子の仕草があります。これは追分などの典型的表現で、以後の作品においても何度か応用されています。街道には供を連れた夫婦の旅人が描かれていて、駕籠舁が葛籠を天秤に担ぐ供と交渉しているようです。

 なお、加賀の前田家は本郷に上屋敷(赤門)がありましたが、板橋宿の東側にも21万坪の下屋敷があって、本作品に描かれる宿場背後の森はそれを表しているものと思われます。ちなみに、縁切榎(えのき)は宿場の北(出口)側にあって、本作品に描かれる木立は反対方向なので違います。


*注1:『江戸名所図会』(巣鴨庚申塚)

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01 武蔵国 「日本橋」

「第壹 木曾街道續ノ壹 日本橋 雪之曙」 英泉画 竹内・保永堂版・左枠外に竹


 これより、第1グループ(渓斎英泉と保永堂の組み合わせ)1~10枚が始まります。


Kisokaido01 広重(保永堂版東海道)が日本橋を南方向から描いたのに対して、英泉は北(西)方向から描いています。『東海道名所図会』、『木曽路名所図会』、『江戸名所図会』のいずれも日本橋を北(東)方向から描き、日本橋川の北側にあった河岸に視線を向ける構図を意識していて、その意味では英泉の構図の方が自然なのかもしれません。先行する絵図とは反対に、英泉が上流(西)から下流(東)の江戸橋方向を遠望するのは、題名「雪之曙」を表現するためで、『江戸名所図会』(ちくま学芸文庫1、p65、p70)が「この橋を日本橋といふは、旭日(あさひ)東海を出づるを、親しく見るゆゑにしか号(なづ)くるといへり」とある命名由来に素直に従ったものと考えられます。なお、雪晴の景色は、新春への希望とシリーズの出発とを掛けたもので、また、朝日の紅色は、雪の白色と相まって紅白のおめでたい雰囲気を醸し出しています。

 日本橋上の人物群を見てみましょう。日本橋川の北側に庶民の台所・魚河岸があるので、橋の北詰には、必然的に、ヒラメや貝類を売りながら帳簿を眺める商人、その前には寒ブリを天秤棒で運ぶ男、天秤を担ぐ棒手振(ぼてふり)、寒ブリを籠に担ぐ男など河岸風景が描かれることになります。絵の中央辺りの傘には、「霊岸島 竹内 未五千…」と書かれていて、版元保永堂(竹内孫八)が天保6(1835)年に本作品を版行したことを表すと解釈されています。その傘の背後では2人の芸者が立ち話をしていて、いかにも美人画の英泉らしいと言えます。さらに右手には木綿を積んだ大八車を押す人足がいますが、日本橋界隈にある呉服屋・染物屋を連想させるものか、どの名所図会にも描かれる日本橋を特徴づける風景です。橋の手前には従者を連れ、頭巾を被った町名主が橋を渡って行き、それに対向し、笠を被り、引回合羽を着る人物は、中山道を目指す旅人と思われます。広重(保永堂版東海道)が大名行列でシリーズを始めたのと比較すると、私的な紀行の旅が開始される雰囲気です。英泉の担当部分は、大名(武士)や弥次喜多ではなくて、絵師自身が旅の主人公なのかもしれません。

 文筆業にも携わった英泉ということを踏まえると、以後、英泉の担当部分に関しては、『木曽路名所図会』などからいかなる紀行文が構想され、それにどんな絵が付けられたかという読み解き方も一考かと思われます。


*注1:渓斎英泉はどんな絵師
 寛政3(1791)年~嘉永元(1848)年。武士・池田家に生まれ(本名義信)、6歳で母、20歳で父と継母を亡くし、幼い3人の妹を養うために水野壱岐守の江戸屋敷に仕官するも、讒言によって流浪の身となります。その後、狂言作者に出入りし狂言作家の道に進み、さらに菊川英山の父英二の家に寄寓し、そこから浮世絵師・渓斎英泉としてデビューします。これらにつき、自伝、池田義信『无名翁随筆(むみょうおうずいひつ)』(天保4・1833年)参照。
 『浮世絵類考』(岩波文庫、p187)には、「北斎翁の画風を慕ひ画則骨法を受て後一家をなす」とあって、北斎への傾倒が読み取れます。また、「団扇画も多し、近世藍摺の錦画は此人の工風より流行す」ともあって、北斎の藍摺『冨嶽三十六景』誕生の機縁を窺わせる記述もあります。「粋とあだ」に集約される、新しい美人(遊女)像を描き出した浮世絵師として高名です。天保の改革以後は、「一筆庵可侯」という筆名で戯作者としての仕事が主になっています。版元蔦屋伴五郎の『信濃国善光寺略絵図』に絵師として渓斎英泉の名があるのも、美人画だけではなく、本作品に代表される名所絵をも描いているからです。同『浮世絵類考』には、「唐画を好み書を読の一癖あり、…戯作を楽みとして近世草双紙、中本、春画、好色本を多く出せり」とあります。小説類への挿絵制作や後に戯作者になったことも含めて文章を読み書ける人である点で、本シリーズ英泉部分の理解に、絵にあわせてどんな文章が想定されているかを読み解く必要がありましょう。


*注2:講座では、『天保国絵図で辿る広重・英泉の木曾街道六拾九次旅景色』(人文社・2001)を使用して解説しています。以下、『旅景色』として引用します。本ブログに画像がないとイメージが掴めないと思われるので、国立国会図書館所蔵の作品を参考画像として掲載します。版の違いによって、若干、説明が異なることご了解ください。

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広重・英泉の木曽海道六拾九次

◆はじめに

 本作品シリーズの題名について、最初に制作を担当した絵師・渓斎英泉に敬意を表すと、英泉・広重の『木曾街道』と呼ぶべきかもしれませんが、シリーズを完成させた広重に視点を置けば、広重・英泉の『木曽海道六拾九次(之内)』となります。本講座では、後者の語法に従うことにします。


◇作品制作の経緯

 『東海道五拾三次』と同じ版元竹内孫八(保永堂)が、渓斎英泉に頼んで天保6(1835)年の春頃から制作版行したと考えられます。それは、シリーズの第一図・英泉画「木曾街道續ノ壹 日本橋雪之曙」画中の傘に「未」とあることからの推測です。もともとは広重に依頼するのが自然でしたが、『東海道五拾三次』ないしは『近江八景』、『京都名所』、『浪花名所図会』などの仕事が完結していなかったのか、ひとまず、英泉と組んで始められました。その後、広重が加わり、版元も伊勢屋利兵衛(錦樹堂・伊勢利)との共同になり、最終的には、広重・伊勢屋利兵衛コンビとなり完成しました。なお、3分の2の50図(英泉24図、広重26図)が出た時点で、一時、企画は中断されています。その後、広重の計21図を加えて、少なくとも、極印一印時代の、天保13年までには完結されていたと考えられます。

 広重の作品が、前期26図と後期21図に分かれることは、「広重画」の署名にも表れています。いずれ、詳しく点検しますが、たとえば、同じ宿場で2枚の作品が版行されている、いわゆる「雨の中津川」と「晴れの中津川」の署名を見比べると明らかになります。とくに、画の字体の相違が判りやすいです。

 さて、広重作品が前期と後期に分かれる理由は、この期間にどうやら(やっと!)、広重は中山道を通って上方に向かい、そして東海道を経て江戸に帰還する旅をしていたと想定されるのです。天保8年頃ではないかと言われています。とすると、後期の版下制作は、天保8、9年頃となり、シリーズの完成は、天保13年より早く、天保9年頃かもしれません。シリーズ中、名図と呼ばれるものが前期に集中し、後期には1枚もないことも、広重が旅をしていてシリーズ版行が中断したことと密接に係わっている可能性があります。すなわち、前期は図会等の資料を元にした構想図であり、後期はスケッチに基づく写生図と考えれば、名図を生み出した構想やイマジネーションにかなりの濃淡があるということです。

 総括すると、広重・英泉の『木曽海道六拾九次』は、「英泉の担当した部分」、「広重が旅に出る前に担当した部分」、「広重が旅から帰って後に担当した部分」の三つに分かれ、これが同じ『木曽海道六拾九次』の名の下に併存しているということなのです。同時に、これがまた同シリーズの読み解きを複雑にする主因でもあるのです。広重に関して言えば、構想図についてはそのイメージが、実景図についてはどこからスケッチしたのかという点がそれぞれ問題となりましょう。


◇絵番号から判ること!

 『木曽海道六拾九次』には、一部誤りもありますが、絵番号が日本橋「第壹」から大津「七拾」まで振られています。じつは、その絵番号から、従来ほとんど指摘されていなかった面白い事実が浮かび上がってきます。揃い物の浮世絵は、5枚ないしは10枚セットで販売されることが多いという事実を勘案して、作品を絵番号1から10(10枚)、11から20(10枚)、21から30(10枚)、31から40(10枚)、41から55(15枚)、56から70(15枚)と6つのグループに分けます。第5グループと第6グループは、10+5の15枚になっているところがミソです。また、絵番号46は、「四拾六」と「四十六」の2枚がありますが、ここでは同じ46番「中津川」として処理します。

 まず気が付くことは、第1グループ10枚は全て英泉の作品と想定されることです。また、第6グループ15枚は逆に全て広重の作品だということです。したがって、大まかに言って、英泉で始まったシリーズが途中広重に交替したと見ることができます。つぎに、絵番号1、11、21、31、41の各グループ最初の作品は、全て英泉・保永堂のコンビと考えられます。各グループのトップを英泉・保永堂が取っているということは、このシリーズの主導権のありかを暗示しています。何よりも、同シリーズ最初の作品は、英泉の「日本橋 雪ノ曙」なのですから…。

 次に、英泉・保永堂コンビの最後の作品が、絵番号55の「河渡 長柄川鵜飼舩」で終わることに注目して下さい。これは、第5グループを15枚・絵番号55で切った理由にも係わっています。つまり、その意味するところは、保永堂は、英泉を使って、絵番号「第壹」の「日本橋」と「五十五」の「河渡」を押さえ、東海道53次・55枚に擬えていると見ることができるということです。これが、思い過ぎでないことは、絵番号53も英泉・保永堂コンビで「鵜沼ノ驛 従犬山遠望」となっていることから確認できます。言うまでもなく、53次の53です。『木曽海道六拾九次』の後半になって、急に英泉作品が登場してくる理由も、保永堂が『東海道五拾三次』の版元であったことに拘わり、数字53、55等を先に押さえたからだとすれば説明が付きます。

 さらに分析すると、53の符丁と考えられる、数字をひっくり返した絵番号35も、英泉・保永堂コンビの「奈良井宿 名産店之圖」、日本橋を除いた宿場の35番目・絵番号36も、英泉・保永堂コンビの「薮原 鳥居峠硯ノ清水」となっています。53次ゆかりの縁起のよい数字の総取りです。この絵番号55を最後に保永堂は『木曽海道六拾九次』から離れ、第6グループは広重・錦樹堂のコンビに替わります。なお、絵番号63(本来は絵番号64)の「鳥居本」については、唯一例外として保永堂が版元として係わっていますが、その謎については該当箇所で触れます。

 このような結果は、『東海道五拾三次』の絵師であった広重には散々な状況と感じられますが、その埋め合わせでしょうか、上野、信濃、美濃、(近江)といった国のトップは全て広重に任されています。正確に示すと、国の終わりは英泉、次の国の初めは広重となっています。たとえば、武蔵国の最後「本庄宿」は英泉、次の上野国の最初「新町」は広重、上野国の最後「坂本」は英泉、次の信濃国の最初「軽井澤」は広重、そして、信濃国の最後「馬籠驛」は英泉、次の美濃国の最初「落合」は広重といった具合です。『木曽海道六拾九次』の制作に関して、版元と絵師、あるいは絵師相互の軋轢など突発的事象があったことがしばしば指摘されますが、英泉・保永堂コンビ優位の中、意外にも、版元・絵師の合理的な約定関係が読みとれることは重要です。

 いずれにせよ、保永堂『東海道五拾三次』55枚+15枚=錦樹堂『木曽海道六拾九次』70枚という関係性(二匹目のどじょう)が読み解けてきませんか。


*注1:参考文献
 菅原真弓『浮世絵版画の十九世紀 風景の時間、歴史の空間』(ブリュッケ・2009)、浅野秀剛『浮世絵は語る』(講談社現代新書・2010)

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