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05 武蔵国 「大宮」

「第五 木曾街道 大宮宿 冨士遠景」 溪斎画 竹内・保永堂版


Kisokaido05 大宮といえば氷川神社の門前町で、『木曽路名所図会』(巻之4)にも「氷川神社 武蔵国一宮」という図版があります。しかし、英泉はそれを避け、富士の遠景をテーマにしています。そこで、大宮辺りの富士見の名所を探してみると、同名所図会に、「大宮原」として、「野原の間三十町許(ばかり)あり。中程に立場の茶店(さてん)あり。これを六国見といへるなり。纔(わづか)三十歩餘の所より近国の高山見ゆる。富士、浅間、甲斐、武蔵、下野日光、上州伊香保などあざやかに見えたり」との記述が見つかります。また、同名所図会には、「針ヶ谷村」として、「此所よりも雲晴たる時は富士峯見ゆる」と記されています。後掲『岐蘓路安見絵図』(浦和)には、「はりがへ村」に「空はれたる時は冨士山見ゆる」とあり、さらにその先の場所に、「大宮原の間三十丁斗あり。中程茶屋あり。立場なり」との注意書きが付されています。

 以上の記述と英泉作品とを対照すると、当作品の左下の「青面金剛」とかかれた石塔は針ヶ谷村にあった庚申塔と看做されます。次に、(宿)駕籠に乗った旅人、振分荷物姿の男の進む先、左手に土堤道が描かれてますが、これは大宮原を進む中山道と見ることができ、「六国見」を表現していて、これも先の記述と矛盾しません。したがって、桜咲く春の景色のなか、画中左下の鍬を担いだ農夫と竹籠を背負った少女は浦和宿方向に歩いていく姿となります。まさに、村境の庚申塔が、村人には悪霊侵入を防ぐ賽の神であり、旅人には道中の安全を守る道祖神であったことがよく表れています。桜の木の間から見える富士の姿は北斎作品に前例があり、富士の祭神が木花開耶姫であると思えば、非常に親和性のある情景です。いずれにせよ、針ヶ谷(近景)と大宮原(右手中景)の2ヶ所からの富士眺望を、1図にした作品と理解できます。

 茶色の土堤道を針ヶ谷の立場から右に折れる赤山街道とする見解(岸本豊『中山道浪曼の旅 東編』信濃毎日新聞社、p25)は、方向が真逆であり、作品に採り上げるほど重要な街道でもなく、賛同できません。大宮原を宿場方向に進む中山道と捉えた方が、その街道の北西側に氷川神社があるという地理関係を想像することができます。つまり、大宮の名の由来となった氷川神社を作品に取り込むことができるということです。なお、『旅景色』(p12)は、大宮宿を越えた「土手村へ入ると、左手に富士山と秩父山地にある武甲山がよく見えるようになる」とし、英泉作品をその風景と解説しています。大宮の宿場と氷川神社を一気に飛び越えてしまっている点で、やはり賛同できません。英泉の次作品「上尾宿 加茂之社」と比べ、描いた場所があまりに近すぎるという不自然さもあります。


*注1:浅田次郎『一路 下』(中公文庫、p297)
「武蔵国一宮氷川神社は、太古に出雲大社を勧請したと伝えられ、諸国氷川社の総本社である。むろん大宮の地名はこの御社にちなむ。
 国生みの神である大己貴命(おおなむちのみこと)と、その父母たる素戔嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫(くしなだひめ)などの諸神を祀ることから幕府の崇敬も篤く、社領三百石を寄進されていた。
 社殿に至る参道は十八町もの長さがある。それもそのはずで、古来この参道そのものが中山道であった。三代将軍大猷院(だいゆういん)様の御代に道を改め、新たに門前町を営んだゆえに、大宮宿は隆盛をきわめた。
 本陣が一軒きりであるのに、脇本陣が九軒もの多きを数えるのは、貴人がしばしばここに参詣するからである。しかし参勤道中にとって江戸までの七里十六町は半端であるから、宿泊はせずに脇本陣にて休憩し参拝するが常であった。」


*注2:『岐蘓路安見絵図』(浦和)

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