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04 武蔵国 「浦和」

「第四 支蘓路ノ驛 浦和宿 淺間山遠望」 英泉画 竹内・版元保永堂・左枠外に竹


Kisokaido04 『木曽路名所図会』(巻之4)は、浦和について、「ひがしの口に月読宮(つきよみのみや)また稲荷のやしろあり。空晴たるときここよりも浅間山見ゆる」と記し、さらに浦和の南、岸村にあった「調神社(みつぎのじんじや)」と白幡村にあった「焼米坂(やきごめざか)」を紹介しています。後掲『岐蘓路安見絵図』(浦和)にも、宿場出口に「空はれたる時は浅間山見ゆる」と記されてます。浅間山が画題となる所以で、遠景は浦和宿とその先の大宮台地上から見える浅間山です。中景には土橋と榜示杭があって、通説は浦和宿の入口と考えていますが、同安見絵図には該当する川がありません。そこでもう少し手前を探ると、蕨と浦和の間の辻村に川(見沼代用水)があって橋が架けられています。『中山道分間延絵図』(辻村)を見ると、そこには「山口土橋」「トウカケ土橋」の名があって、当作品の土橋の風景と一致します。したがって、画中の榜示杭も辻村と西の根岸村との境をなすものと考えられます。土橋手前右側の建物に人が居ますが、これは辻村の立場茶屋ということになります。この土橋を越えたところに、同安見絵図は、「此所年中やき米を売る。名物也。よつてやき米坂と云。本名うらは坂也」と注意書きを入れています。調神社は、さらに先、宿場入口右側にあります。

 では近景左側の、版元を表す「竹」の文字の腹掛をする馬と馬子、右側の従者を連れた武士は、それぞれ何を意図するものでしょうか。前掲分間延絵図には、山口土橋の手前から左に折れる道があって、「足立郡笹目領道満渡場江出ル一里余り」と記されています。また辻村の一里塚を過ぎた辺りには右に折れる道があって、「日光御成道鳩ヶ谷宿江出ル道法二里余り」ともあります。以上から考えて、左側の馬子は荒川の道満河岸に荷物を運ぶ姿、右側の武士は日光(街道あるいは山)方向を見返す姿と想像できます。つまり、蕨と浦和の間にあった辻村の追分(交通)情報を提供しているのです。英泉は、作品の中に比較的このような街道情報をよく入れています。いずれにせよ、近景の人物群は、荒川や日光などを暗示して江戸から離れて行くという状況を語る記号と捉えられます。これによって、反面、画中遠景の浅間山(信濃国)を目指す旅が本格的に始まるということが表現できるということです。なお、馬糞を集める子供は、この辺りの農村風景の典型ということでしょう。

 当作品の構想意図は、前作品「蕨之驛」が板橋の志村側にあった戸田の渡しを描いていたので、蕨宿を出た辻村の立場を紹介し、蕨宿近郊の様子を補いつつ、副題にある主テーマ、浦和宿からの「浅間山遠望」を採り上げたというところにあります。英泉作品は、広重と比べると、いささか状況説明的ですが、その分挿絵的手法を駆使して、意外に正確な地理情報を提供しています。


*注1:『東海木曾兩道中懷寳圖鑑』(宝暦6・1756年)の改訂版が、天保13(1842)年正月、版元須原屋茂兵衛より刊行されていますが、その絵図を英泉が担当していることは非常に興味のある事実です。


*注2:桑楊編『岐蘓路安見絵図』(蕨)
 版元、万屋清兵衛、茨城多左衛門、須原屋茂兵衛。宝暦6(1756)年11月刊行。

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