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0 冨士三十六景 目録

Fuji_0 題名『名所(冨士)三十六景』と書かれた扇形の下に配置される2つの色紙形に、作品の目録が記されています。その左の色紙に「初代立斎廣重翁遺画」とあります。その遺画となった経緯について、一番下の懐紙形に(二代)三亭春馬が、次のように書いています。すなわち、安政5年の秋の初めに、「生前の思ひ出に」と『冨士三十六景』の版下絵を広重が版元蔦屋吉蔵(紅英堂)に持ち込んだのですが、同秋9月上旬のある日(9月6日)広重が亡くなってしまったとあります。つまり、本シリーズは、その遺志にしたがって版行されものであるというのです。そして、「今将思ひ合すれば過る日言れしことの葉は世の諺に謂る如く虫が知らしゝものなるべし」と述べています。


 この制作経緯については、やや脚色があるものの、版元が「追福のこゝろにて彫摺なんども上品に製し侍べる」というのは、版元の正直な気持ちを代弁するものと思われます。各作品の改印からは、版下絵の制作は、安政5年4月前、つまり、春頃と認められます。したがって、広重が秋の初めに「生前の思ひ出に」と言ったというのは、おそらく、これが広重の遺作であることによって商品価値を高めようとの宣伝文句として理解する必要があります。ただし、版下絵を制作した4月前から具体的作業が進んでいない状況において、秋になって早く版行を進めて欲しいと広重が催促した可能性は排除されません。その意味で結果として、『冨士三十六景』が広重の遺志を反映した作品になったと言ってもよいのかもしれません。


 目録では、「東都一石はし」から「東都目黒夕日が岡」まで東都の10作品が続き、その後11番目に、下総国に当たる「鴻の臺戸根川」が挿入されます。そして、12番目以後に武蔵国がまた5作品続きます。今日の感覚では、鴻の台が東都と武蔵国の間に入るのは不自然かもしれませんが、これは、江戸百やその下資料の一つ『江戸名所図会』などでは、鴻の台がかつて国府のあった地として江戸に含めて捉えられていた当時の地理感覚に基づくものなのです。当ブログでは、江戸時代の感覚を大切にして、目録順に作品を解説していく予定でいます。また、個々の作品解説で明らかになることですが、作品1~14番目までが第1部・江戸近郊(『名所江戸百景』と競合する)部分、作品15~27番目までが第2部・東海道沿線(『東海道五十三次』と競合する)部分、作品28~36番目までが第3部・木曽街道・甲州街道・房総からの富士見図部分と大別することができます。


 なお、『江戸名所図会』の解説・図版の引用や掲載に関しては、「ちくま学芸文庫」(全6巻別巻2)を使用し、その巻数とページを括弧書きにて表記しておきます。

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