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広重の冨士三十六景に寄せて

おわりに


 『広重の冨士三十六景』は、2014年、長野県カルチャーセンターで行なった浮世絵講座資料を元にブログとしてアップしたものです。「浮世絵に聞く!」シリーズとしては5番目に当たります。一番初めのブログ『冨嶽三十六景・北斎の暗号』においては、北斎作品が富士信仰者あるいは富士講信者の目にどのように写ったかを思案しながら、作品構図に潜む仕掛けやトリックを読み解こうと努力しました。他方、『広重の冨士三十六景』では、江戸庶民にとって名所の日常景とはどんなものなのかに注意を尽くして鑑賞するように努めました。地元故に関心が持たれているので付言しますが、両作品の比較から、北斎『冨嶽三十六景』「信州諏訪湖」は、広重作品と同じく、高島城のある諏訪湖東岸ないしは北東岸の衣ヶ崎周辺からの眺望を想定しているという考えに至っています。詳しくは、本ブログ「28 信州諏訪之湖」を参照下さい。いずれにしろ、実景とは異なった構想図として作品を見ています。その他の点でも、両ブログを読み比べていただければ幸いです。


 なお、私の浮世絵に関する諸活動の経過について触れておきます。すなわち、長野冬季五輪の前年、1997年10月、長野浮世絵研究会を発足し、同時に「市民の浮世絵美術館」活動に着手しました。その精神は、一般市民生活で手に入る程度の資料で十分に浮世絵は愉しむことができるというものです。インターネットの普及によって、閲覧できる図版や手に入る研究資料・書籍など飛躍的に増えたことが大きく影響して、一般市民が浮世絵を愉しめる環境はかなり整ったように思われます。こうした活動の一貫で浮世絵展を企画・開催する他に、2006年10月から長野県カルチャーセンターで「浮世絵を読む」という講座を開設しました。その後、浮世絵について判らないことがあれば、同種の他の浮世絵を参照すれば大概理解できるという趣旨で、つまり、「浮世絵のことは浮世絵に聞け!」という意味で、「浮世絵に聞く!」と銘打った講座に改めました。この頃より、ある程度、オリジナルな解説ができるようになったというのが正直な感想です。浮世絵講座自体は、ありがたいことに、本年(2015年10月)で開講10年目に入ります。


 さて、冒頭に述べた2014年は、ちょうど私の還暦の年に当たりました。したがって、ブログ『広重の冨士三十六景』は、結果的に還暦を記念するものになったことを報告いたします。個人的所感ですが、大学卒業後、大学院(法学研究科)に進み、さらに助手として刑法学の研究を積み重ねてきた月日を思うと、現在、浮世絵の研究者を目指している自分が不思議に感じられます。また、浮世絵講座において、同じシリーズ物の作品を統一的観点から説明しようとする自身の態度には、法解釈における「体系的思考」が確実に影響を与えていると自覚されます。過去の遺産でしょうか。


 ともあれ、英泉・広重『木曾街道六拾九次』や広重『名所江戸百景』など浮世絵講座ではすでに扱いながらも、まだブログにアップしていない浮世絵シリーズがいくつかあります。いずれも長い揃い物なので一度には無理ですが、機会を改めて、絵師の世界観や作品体系を読み下しながら、少しずつ掲載していきたい考えです。長野冬季五輪を機縁に始まった活動なので、少なくとも、東京夏季五輪まではなんとか継続しつつ、「浮世絵に聞く!」シリーズを総括したいと決意しています。今後とも、よろしくお願い申し上げます。

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36 房州保田(ほた)ノ海岸

Fuji_36 「34 上総黒戸の浦」、「35 上総鹿楚(埜)山」と段々南に下がってきて、いよいよ、本作品は安房国の保田の海岸からの富士見図です。『浮世絵師歌川列伝』(中公文庫・p172)には、広重の日記を読み解いて、「(嘉永)五年閏二月廿五日、広重再び上総に赴き、また鹿野山に上り、安房に入り小湊誕生寺および清澄寺に参詣し、東房州海岸の風景を眺め、更に西海岸に出でて那古、勝山、保田、鋸山の絶景を探り、四月八日江戸に帰る。」と解説されています。その第一の目的は、「専ら海岸線の奇勝を探るにあるのみ」と結論づけています。


 先行する『不二三十六景』「安房鋸山」では、上総国と安房国との国境に聳える鋸山からの展望を作品化していますが、その鋸山の麓海岸にあったのが、本作品の保田湊に当たります。作品の棲み分けが想定されています。


 『冨士三十六景』の本作品の構成は、右端に鋸山の麓にある明鐘岬の奇岩を見て、その海岸に打ち寄せる波飛沫の背景に浦賀水道、三浦半島を望み、遥かに富士を眺望するものです。海岸の波が富士に相似する三角形を成しているのは、北斎流の技法の応用です。これに対して、海岸沿いの街道を旅人が富士を見ながら歩いている日常景は、広重の特徴です。とくに、手前の法体姿の旅人は、明らかに広重の旅姿に重ね合わせられた人物と考えられます。シリーズ最後の1枚を広重の自画像と思しき人物を登場させて締めることによって、シリーズ全てが広重の旅の体験から生まれた印象を与える効果が生まれています。考えてみれば、シリーズ最初の1枚「1 東都一石ばし」は、広重生家の八代洲河岸を遠望するものでした。シリーズ最後の本作品においては、名所絵の大家としての自負を法体姿の広重の旅姿に見る思いです。


 『房総行日記』(嘉永5年)には、誕生寺堂前の桜の木ぶりが梅に似ているのを見て「梅の木に似たる桜のかたへには 鶯に似し法華経の声」という(狂)歌が紹介されています(前掲書p173)。また、木更津船に乗り遅れて、「葉桜や木更津舟ともろともに 乗りおくれてぞ眺めやりけり」という歌もあって(同書p175)、広重本人は、漂泊の人、西行気取りなのかもしれません!

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35 上総鹿楚(埜)(かのう)山

Fuji_35 弘化元年3月と嘉永5年2月、広重は2度に亘って「鹿埜山」の参詣に出かけています。鹿野山は、木更津から海岸線を南に行った場所(君津市)にあって、安房国の清澄山、鋸山と並ぶ房総半島の名山です。山中北東の白鳥の峰には、日本武尊を祀る白鳥神社があり、富士山や筑波山を望む景勝の地です。本作品もその白鳥神社の参道から富士を展望するもので、広重の旅の経験が元になっての作品と考えられます。


 『浮世絵師歌川列伝』(中公文庫)に引用される日記によれば、「(弘化元年三月)廿七日。天気。四ッ時頃より、鹿野山参詣。庄兵衛殿、勇吉殿、四人連れ、七ッ過頃鹿野山に着。…」「廿八日。天気。同所白鳥大明神祭礼にて参詣。商人群集す。…」とあります(p171)。また、「嘉永五子年閏二月二十五日。夜四ッ時、江戸橋出舟。…昼食食い、鹿野山に赴く。夕刻宿に着。」とも記されています(p173)。


 本作品以前には、『不二三十六景』「上総鹿楚(埜)山鳥居崎」があって、参道の坂を上った鳥居を潜った所から、旅の女が馬上より三浦半島越しの富士を眺める様が描かれています。傍らに桜が咲いているのを勘案すると、広重の旅の時期と符合します。『冨士三十六景』の方は、坂道を上って左に折れた所にあった鳥居を潜る前の視点で作品を描いています。その分、杉の大木を作品中央部に配し、遠近を強調する構成に努めています。


Hokusai17 富士と杉の大木との重なり、あるいは富士と鳥居との組み合わせは、北斎『冨嶽三十六景』「甲州三嶌越」あるいは「登戸浦」を彷彿とさせる構図ですが、両作品の思想的背景は全く異なっています。北斎は富士(講)信仰であり、広重は日常景への回帰を意図しています。ただし、北斎は構図重視故に実景から離れ、広重は日常景故に実景に近いという見解もありますが、意外にも北斎の方が実際の地理に正確であることもままあって、この点に関し両者の違いは相対的なものであると思われます。

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34 上総黒戸の浦

Fuji_34 畔戸(くろと)の浦は、小櫃(おびつ)川の河口に位置し、現在の千葉県木更津市に当たります。広重の弘化元年の『鹿埜山行日記』によれば、江戸橋より船を利用して木更津に渡り、その北方に位置する久津間道を歩んだとあって、「左に海辺見晴らしよし」とも記されています(中公文庫『浮世絵師歌川列伝』p171参照)。したがって、その時あるいは嘉永5年『房総行日記』に際しての体験を元に本作品は描かれた可能性があります。


 小櫃川河口から鳥瞰的に江戸湾上に富士を遠望する構成で、手前に漁をする船、中景に停泊する五大力船(木更津船)、遠景に帆を張って江戸湾を行き交う船がそれぞれ描かれています。このシリーズを通して貫かれている、日常景の中に富士を配置する作品です。海岸線が丸みを帯びていて、自然と目が向かうその中心部分は、紙の地色が白く光を反射しているかのように見えます。技巧的表現です。なお、停泊する五大力船(木更津船)の綱が三角形を形成しているのは、富士の相似形を富士自身の前に置く、北斎に由来する構図です。


 本作品以前には、『不二三十六景』「上総木更津海上」があります。中央に五大力船(木更津船)を停泊させ、そこから遠浅の海岸を歩いて浜に向かう人々を描いています。そして船の帆柱を中心に三角形を作る綱の背後に富士を覗かせるという、北斎を意識した構図を応用しています。この横絵の作品を竪絵にする際、松の生えた海岸線を加えたのが本作品ですが、その処理方法は、「28 信州諏訪之湖」と同じと考えられます。


 ちなみに、五大力船(木更津船)とは、基本は海船造りの構造ですが、河川を航行できるように吃水が浅く船体の幅が狭くなっています。したがって、海からそのまま河口に乗り入れて市中の河岸に横付けすることができます。江戸橋木更津河岸と上総国木更津湊で貨客輸送を行なっていた船はとくに木更津船と呼ばれます。これに対して、弁財船(千石船)は菱垣(ひがき)廻船・樽(たる)廻船・北前船など、内航海用の大型船を指します。


Hokusai24 北斎『冨嶽三十六景』「上総ノ海路」に登場する帆船が、その弁財船(千石船)に当たります。浦賀水道を進む船越しに富士を遠望する作品で、明らかに帆を張る綱が富士に相似する三角形を形成し、富士を掴まえる構図となっています。これは、富士(講)信仰を背景に、近景に富士の御利益世界を描き上げる趣旨と考えられます。船体の窓から乗船客の顔が覗いているのは、まるで、富士の人穴や石室に参集する富士(講)信仰者のようでもあります。

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33 下総小金原

Fuji_33 小金原は水戸街道・小金宿(千葉県松戸市)の原を意味し、そこに野馬を放牧する江戸幕府直轄の牧の管理施設が置かれたので、利根川(江戸川)東部一体に広がる牧全体を指し示す名称でもあります。本作品の場合も、いくつかに分かれて広がる小金牧を意味し、故に野馬が描かれているというわけです。「14 武蔵越かや在」が日光街道から選択された富士見の新名所であったのに対して、「33 下総小金原」は水戸街道から選択された富士見の新名所ということになります。


 本作品では水を飲む馬を近景に大きく描いていて、いわゆる近像型構図を採用しています。このような場合、作品制作の材料に乏しいことが少なくありません。本件にも、やはり先行する広重作品はないようです。ただし、「11 鴻之臺とね川」からは、利根川(江戸川)東岸の下総国より西方に富士が遠望できたことは容易に想像できます。


 ところで、『木曽路名所図会』(巻之五)は、江戸から香取・鹿島神社までの名所や街道の宿場などを紹介する部分に当たります。その図版「釜ケ原」はいわゆる小金牧を描写するもので、おそらく広重が参考にしたのではないかと推測されます。同名所図会には、牧から筑波山と富士峰が眺望でき、「野飼の駒五、六十ばかり此野原に放たれて何れも草をあさりて遊ぶさま、いとをかし。…見るに親馬動けば其子もそれにつれてゆき戯れる様、画にかくとも及ばし。」とあります。この辺りの資料から着想を受けて、広重はツツジ咲く牧で戯れる馬の背後に富士を遠望する構図を創作したのではないでしょうか。

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32 甲斐犬目峠

Fuji_32 作品の順番とは逆に、富士講の信者は、江戸からは、内藤新宿、府中、小仏峠、上野原、犬目峠、猿橋、大月と歩きます。犬目峠は、上野原を2つ越えた野田尻宿と猿橋2つ手前の下鳥沢宿との間にある峠で、甲州街道が桂川の河岸段丘上を対岸の山々を見ながら進む関係上ほとんど富士が見えない中、初めて富士を遠望できる場所と言うことができます。


 天保12年の広重『甲州日記』(中公文庫『浮世絵師歌川列伝』p159以下)にも、「犬目峠の宿、しからきといふ茶屋に休」と記述されているので、本作品はその体験に基づいていることは間違いありませんが、実景やその際のスケッチとは異なった絵画構成となっています。たとえば、本作品近景に展開される桂川の断崖絶壁は峠を越えて桂川上流部に至らないと見えない部分で、広重が度々描いている猿橋(『甲陽猿橋之図』、『六十余州名所図会』「甲斐さるはし」)などを彷彿とさせます。したがって、本作品は、犬目峠から桂川の対岸に見えるはずの富士(それを眺める旅人)と峠を下った桂川上流の絶壁(その傍を歩む旅人)とをコラボさせた、2つの名所を紹介する秋の紅葉観光案内的作品に位置づけることができます。技法的には、作品中央部の紫雲が本作品を2つに分けているのでしょう。コラボ作品としては、「22 伊豆の山中」参照。


 本作品の原型は、『不二三十六景』「甲斐犬目峠」にあります。峠の上に描かれる茶屋は、明らかに広重が体験した「しからきといふ茶屋」をイメージするものです。意外なことに、北斎『冨嶽三十六景』「甲州犬目峠」の方がまだ犬目峠の実景に近いと言うことができます。作品の中央部に湧き上がる霧を描くことによって、そこに桂川があることを暗示するに止めています。


Hokusai08 なお、北斎の場合には、広重と違って、富士信仰者・講信者へ向けてのメッセージあるいはトリックが仕掛けられていることが多い点に注意が必要です。富士講信者には、甲斐国にて初めて目にする富士という意味で重要な富士見の名所を描いたことの他に、峠を天然の富士塚の如くに描いて、そこから朝日に照らされる(あるいは夕景でしょうか)ツートンカラーの富士が眺望できる僥倖を知らしめていると理解できましょう。ある意味で、富士を直視する北斎の方が、広重よりも富士に対する愛着が深いとも考えられます。その証拠に、広重『冨士三十六景』には、富士そのものと直接対決する、北斎『冨嶽三十六景』「凱風快晴」および「山下白雨」に対応する作品はありませんし、富士講信者を直接描く「諸人登山」に対応する作品もありません。

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31 甲斐大月の原

Fuji_31 甲斐国では、甲州街道は、信濃国から、甲府、大月、猿橋、犬目峠、上野原を経て相模国に進みます。広重が浮世絵作品にした地域が何ヵ所か含まれ、本作品は、甲州街道と上吉田村(富士吉田市)に至る谷村道(富士道)との分岐点であった大月宿から画題を選んでいます。富士講の信者が江戸から甲州街道で富士を目指す場合、小仏峠を越えた後富士が見えるのは、桂川の河岸段丘上の谷間を歩くので、後掲「32 甲斐犬目峠」と本作品「31 甲斐大月の原」との2ヵ所に限られます。そして、富士講信者は大月から富士道を通って富士吉田に出て、北口登山道から富士に登るということになります。

 交通の要衝というイメージですが、『不二三十六景』「甲斐大月原」などを見ると、茫漠とした野原が広がっていたようです。同作品は、1人の法体姿の旅人が秋風吹く一面のすすき野(大月原)から御坂山地の上に顔を出す富士を眺め、寂寥感が漂う雰囲気です。おそらく、桂川対岸の岩殿山麓辺りからの遠景と想像されます。甲州を旅し、実際の風景を体験した広重の思い出を重ねたものでもありましょう。広重の旅日記・旅絵日記については、『甲州日記』(天保12・1841年4月)、『甲州日記写生帳』(同年11月)などを参照。


 これに対して、本作品は、絵師の視点を相当下に置いて、大月原に分け入って、すすきだけではなく、野菊、桔梗、女郎花(おみなえし)などの綺麗な色の花々を加え、華やかささえ感じさせる作風となっています。年月を積み重ね、個人的体験を超えた絵師の熟成した技を見せる作品となったのかもしれません。明るい色使いが主体となっている、本シリーズを代表する作品の1つです。

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30 甲斐御坂越

Fuji_30 甲州街道の宿場甲府の1つ手前にある石和(いさわ)宿から南東方向に、甲斐国と駿河国とを繋ぐ鎌倉往還が走っています。その山間部の峠にあったのが御坂峠で、河口湖を抜けて、往還は富士山麓を通って駿河国に至ります。広重の発想は、木曽街道と甲州街道の分岐点・下諏訪から江戸に向かって、甲州街道周辺の富士見の名所を渉猟していこうということだと思われます。峠を登りきったところで、旅人の目には、富士と河口湖が飛び込んできます。本作品は、まさにその旅人の感覚を絵にしています。直前の「29 信濃塩尻峠」とは視点が反対で、遠ざかる小さな富士ではなくて、出会いの大きな富士として描かれています。前作品の左側の崖と比べて本作品の右の崖が半分位の高さに抑えられているのも、出会った富士の雄大さを損なわないための工夫でしょう。河口湖の右手の島は富士五湖唯一の中島・鵜の島です。左端の岬は産屋ヶ崎、右奥の山は足和田山です。


 昭和に入ってから、この峠にあった茶屋が天下茶屋と呼ばれ、 昭和13年の9月からは太宰治が数ヶ月滞在し、小説『富嶽百景』の舞台となっています。「富士には、月見草がよく似合ふ」という言葉が有名です。ちなみに、当ブログで「(浮世)絵になる風景」という言葉を度々使ってきましたが、それは太宰治の言う、「私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。」と表現した風景を逆に肯定したものです。御坂峠からの富士は、まさに「絵になる風景」の典型です。


Hokusai29 北斎『冨嶽三十六景』には「甲州三坂水面」があり、中世の富士信仰の中心地、富士御室浅間神社が作品の中央部分に描かれているのは、富士信仰を表現する北斎作品としては当然です。しかし、描かれる2つの富士を巡っていくつかの見解があります。まず、逆さ富士の部分が、湖上の富士をそのまま写した姿ではないことにはすぐ気付きます。次に、峠から見た夏の富士は大沢崩れがあって駿河側から見た富士です。河口湖畔からの逆さ富士は雪を被った冬の富士です。実景でない富士2つを1枚の作品で楽しむ仕掛けがあります。私見ですが、峠から見える富士は実体ではなくて、湖水(鏡)に映った逆さ富士こそが実体であると北斎は示唆しているのではないでしょうか。そのうえで、水神(弁天)を祀った鵜の島、富士山岳信仰の富士御室浅間神社、そして法華経の妙法寺をそれぞれ富士信仰の本質と感じた北斎が、それを白鳥が羽ばたくかのような聖なる姿で表現したものと考えます。また、河口湖に富士神霊の姿を捉えた北斎は、そこに釣り船を一艘浮かべ、諏訪湖では見ることができなかった、「富士の上漕ぐあまの釣船」の奇観を描いたのです。いずれにしろ、風景画では決してなく、名所絵でも足らず、北斎の信仰をユーモアをもって告白する作品です。

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29 信濃塩尻峠

Fuji_29 渓斎英泉・歌川広重『木曾街道六拾九次』において、英泉「塩尻嶺 諏訪湖ノ湖水眺望」では、諏訪湖と塩尻峠は1図に納まっており、その視点は江戸方向に歩む旅人のものでした。これに対して、広重は作品を2図に分けて、諏訪湖からの眺望とは別に、本作品では、峠の坂を下り京(洗馬・本山)方向に進む旅人の背後に見返すような富士の姿を描いています。広重が2つに分けたのは、諏訪湖と塩尻峠との2つの図版を載せる『木曽路名所図会』(巻之三、四)と同じ思考に拠ったのかもしれません。いずれにしろ、木曽街道(中山道)から見える最後の富士を描き留めておこうという発想です。


 本作品では、くの字に曲がった街道の視線の先に富士が描かれ、紅の一文字ぼかしは夕暮れ時を表現し、空には雁の帰巣姿があって、旅人が宿へ急ぐ姿も重ねられています。富士の右手に見える山々は、今日、南アルプスと呼ばれるものです。後掲「30 甲斐御坂越」に比べると絵師の視点が高く、街道は谷底にあり、また旅人や富士を見下ろすような感覚で描写されています。

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28 信州諏訪之湖

 これより、本シリーズの第3部に当たる、木曽街道、甲州街道、房総からの富士見図部分に入っていきます。


Fuji_28 信州諏訪の地は、諏訪大社の鎮座する場所として古来より有名であり、また諏訪湖からの富士の眺めは古歌にも多く採り上げられ、歌枕の地としても周知されています。本作品に先行する図版として、まずは『木曽路名所図会』(巻之四)「諏訪湖下諏訪神宮寺高嶋城」があります。渓斎英泉・歌川広重『木曾街道六拾九次』の下資料の1つと考えられるものです。当該木曽街道シリーズでは、英泉が「塩尻嶺 諏訪湖ノ湖水眺望」において、凍結した湖面を描いて「御神渡」時期の諏訪湖を主題にしていますが、本作品では、季節を春として、衣ヶ崎辺りからの富士の眺望を描いています。


 遠景中央に白い富士が見え、その左手には八ヶ岳の黒い山並みがあって、湖水左岸には花咲く桜に囲まれる諏訪氏の居城・高島城が収められています。城の沖には、小舟が3雙、4雙と描かれていて、諏訪湖で行なわれていた鮒、小海老や蜆の漁が表現されているようです。諏訪湖での春の日常景と富士という趣向です。先の『木曽路名所図会』には、「須波の海 衣が崎に来て見れば富士の上漕ぐあまの釣船」という歌の紹介があり、本作品の着想が『木曽路名所図会』にあることを窺わせます。ところで、本作品は、広重の先行するシリーズ『不二三十六景』「信濃諏訪湖」においてすでに完成していた構図を、竪絵に修正したと解することもできます。横絵を竪絵にしたことから生じた近景の空白を、松と梅と思しき花木が描かれる、緑の湖岸が埋めています。しかしながら、その戦略が成功したかどうかには、やや疑問がありますが…。なお、広重は富士の前に船を描く際、綱などで小さな三角形を作ることが少なくありません。その点からすると、本作品において諏訪湖に浮かぶ小船の櫓と棹が作るハの字は、その代わりの工夫かもしれません。


Hokusai13 さて、ここでは、北斎『冨嶽三十六景』「信州諏訪湖」との対比に触れておかなければなりません。作品の中央に大きな2本の松が描かれています。この北斎の構図重視の松を広重は意識していて、あえて広重流の自然な形に戻した結果が本作品の松ではないでしょうか。広重作品が、北斎の松、英泉の冬など先行作との違いを自覚して制作されることは当然ですが、北斎作品自体は、後の浮世絵師とはまったく違う哲学に基づいて描かれています。すなわち、作品は漢画風の様式を踏みつつも、その様式は富士信仰を表現するための技法に過ぎず、具体的には、中央の小高い丘とその上にある粗末な小屋もしくは水神祠とが造る三角形は、遠景にある富士に相似する自然の富士塚を形成していて、この近景にこそ富士世界(御利益)があることが示されているのです。また手前の2本の松は、富士の前面にある八ヶ岳を象徴するものでしょう。さらに、左手の船は、『木曽路名所図会』に紹介される古歌の「あまの釣船」を意識している可能性があり、構図全体として、近景の「富士の上漕ぐあまの釣船」となります。北斎が作品を描いた場所に関し、高島城の対岸の釜口辺り(当時の弁天島祠)、または塩尻峠の浅間神社の祠辺りからとする見解が各々あります。しかしいずれでもなく、前出の古歌を絵にしたと考えれば、広重と同じ衣ヶ崎付近からの可能性が強くあります。

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27 伊勢二見か浦

Fuji_27 二見ヶ浦は、伊勢湾に注ぐ五十鈴川の河口に形成された三角州状の地帯で、伊勢神宮参拝の禊場でもあります。そこには、「立石」と「根尻岩」という二つの岩があって、「夫婦岩」と呼ばれています。立石崎の夫婦岩を結ぶ大注連縄は、沖にある猿田彦ゆかりの興玉神石(おきたましんせき)の鳥居とされていて、古代の磐座(いわくら)信仰に基づいています。夏至には夫婦岩の間から日が昇りますが、とくに富士の背後より昇る日の出が有名です。本作品は、伊勢と富士の両信仰が重なる、大変おめでたい神域を主題にしています。


 作品の制作過程は、『伊勢参宮名所図会』(巻の五)の図版「二見浦」が参照されていると推測されます。ただし、『冨士三十六景』の本作品では、竪絵のためか、「立石」(男岩)と「根尻岩」(女岩)とが重なり合っていて、伊勢信仰的意味合いがやや犠牲にされています。反対に、富士の背後から朝日が上る直前の情景に主眼が置かれ、その富士がまた本作品の遠近法上の消失点になるよう、海岸の岩などの配列にも気が使われています。


 なお、山梨県立博物館『北斎と広重』の図録133頁は、左隅の岩を「根尻岩」(女岩)と見て、岩の位置が実際とは「反転してしまっている」と解説していますが、これは誤りです。さらに、実際の「根尻岩」(女岩)と本作品、上記名所図会、そして国芳『東海道五十三對』「掛川」などの作品に描かれる岩との形が違うのは、岩が明治末の台風で折れ、それを修復した経緯があるからです。


 本作品において、東海道を西に進みながら富士見の景勝地を描いてきた部分は終了となり、以後は、木曽街道、甲州街道、房総からそれぞれ富士見の名所を選定していく趣向になります。

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26 駿遠大井川

Fuji_26 駿河国と遠江国との国境を流れる大井川からの富士の眺めです。宿場の名を挙げれば、嶋田と金谷ということになります。富士が眺望できるのは、金谷宿側からです。『東海道名所図会』(巻の四)にある図版「大井川」、「大井川続き図」をベースに、保永堂版「嶋田 大井川駿岸」と「金谷 大井川遠岸」とは描かれたと考えられます。そして、その川渡しの様子を拡大した作品には、保永堂版「府中 安部川」があります。その後、同種の構図を持つ作品がいくつも生み出されています(『東海道五十三對』「金谷」など参照)。本作品もその1つとなります。川渡しの日常景の中に富士を置く趣向です。


 本作品では、近景右側には、駕籠をそのまま平輦台で運ぶ様子が描かれ、左側奥には、2人の旅の女性を直接輦台に載せる描写があります。女性達はくつろいでいるように見えます。人足の肩に直接担がれる武家、女性の外に飛脚などもおり、さらに、嶋田宿側の岸には大名行列が川渡りの準備をしている様子までも見えています。さらにその背後の木々の生える堤は、幕府によって建設された水除堤です。川渡りの旅人や川越人足の連なるその視線の先・消失点に富士を置く、遠近法を応用した構図です。また、近景の駕籠の三角形と遠景の富士とを相似形として置く、北斎由来の構図を応用していますが、比べれば日常景の範囲内に納まっています。


Hokusai45 北斎『冨嶽三十六景』「東海道金谷ノ不二」も、大井川の川越人足による徒歩渡しの様を描くものです。一見すると、旅人の丸い笠の群れと三角の富士との対比の妙が画題かと思われてしまうのですが、波立つ大井川に巨大な富士に相似する三角形が隠されていることに気付けば、近景に富士世界を描く富士信仰に基づく作品であることが判ります。対岸の桜は、富士の祭神・木花咲耶姫の象徴であり、かの女神は水神であることを忘れてはなりません。日常景を目指す広重と富士信仰世界を描こうとする北斎の、大きな相違です。

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25 東海堂左り不二

Fuji_25 海上を西に進んでいた広重の視点は、内陸の宿場町吉原に戻ってきました。『東海道名所図会』(巻の五)によれば、「吉原駅より五町ばかり東の方、中吉原という所より西一町ばかりの間を、土人、左富士という」とあります。江戸から京都に上る際、基本的に街道の右側に富士を見て行くことになりますが、街道が北上するこの辺りでは、しばらく左側に富士を見るのがその由来です。古より、富士の名所・歌枕の地として知られています。


 本作品は、保永堂版「吉原 左富士」の構図が基本となっていて、一層松並木に接近して富士を眺望する形式を採っています。中央の松の左に富士、右に愛鷹山という構成です。大きな違いは、保永堂版の方は、三方荒神と呼ばれる伊勢参りの旅姿が描かれているのに対して、本作品では、田植え仕事をする地元の人々の日常景に重ねて、立札と榜示杭の前に富士を眺める法体姿の人物が加えられているところです。おそらく、平安時代末から鎌倉時代初めに生きた、西行法師をイメージしているのだと思われます。晩年の文治2(1186)年、奥州への旅の途中、この地で振り返って眺めた左富士に感嘆したという伝説があるからです。「風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬ我が思ひかな」という和歌があります。なお、本作品では、街道が狭い印象であった保永堂版の欠点を修正しています。


 ところで、狂歌師天明老人は、広重の死絵の中で、「狂歌江都名所図会を選み、此図を頼みしより、其月/\にあらはす出板摺本の図取見る人、筆のはたらきを感吟せり」と述べ、広重の功績の1つに、『狂歌江都名所図会』を挙げています。これは、天明老人と梅素亭玄魚が編纂者となって、広重が狂歌に挿絵を付けたものです。この中で、広重は自身も狂歌をいくつか詠んでいて、その狂歌師名を「東海堂歌重」と名乗っています。したがって、その事実から、「東海堂左り不二」は「東海堂=広重の左り不二」という意味に推理できます。たとえば、嘉永4(1851)年、『武相名所旅絵日記』で広重がスケッチした折の、自分自身の姿を重ね合わせていると考えることができましょう。西に向かう広重が、西方極楽浄土を象徴する富士を眺める情景は、また、広重辞世の歌をも思い起こさせます。すなわち、「東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見む」というものです。

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24 駿河三保之松原

Fuji_24 薩埵峠から海岸線をさらに西に進んだ駿河湾に突き出た砂州にあるのが、三保の松原です。この順番は、海側から富士見の名所を攻める思考の表れでしょう。三保の松原には羽衣(松)伝説があって、『東海道名所図会』(巻の四)によれば、「そもそも羽衣松というは、むかし天人降りて、この松枝に羽衣を脱ぎかけしを、漁夫ひろい取りて返さず」とあります。これに、都良香『富士山の記』にある、「仰ぎて山の峯を観るに、白衣の美人二人有り、山の嶺(いただき)の上に雙(なら)び舞う」という富士の天女伝説を重ねると、この地が富士信仰と深く結びついた土地であることが判ります。富士、松、海原など、古来よりの歌枕の地です。


 『東海道名所図会』(巻の四)には、「村松久能寺」、「三保入江三保松原三穂神社羽衣松」、そして「寛政丙辰秋八月在 久能山上望三保崎平安原」の図版3点があって、広重の本作品の下資料として使われたことが推測されます。「村松久能寺」の図版を参照すると、各地名もよく読み取ることができます。描かれているのは、富士を背景に清水湊への帰帆風景です。本作品においても、清水湊と三保の松原の間に帆を下ろした船が描かれ、富士の前面に三角形の綱を置くという、北斎に由来する構図が採用されています。


 本作品では、三保の松原の対岸(画中左手)清水湊の方が見えませんが、こちらは、保永堂版「江尻 三保遠望」で鑑賞できます。保永堂版の方は、『東海道名所図会』の図版「久能山上望三保崎平安原」を強く意識した構図と思われます。視点は、清水湊側から丹沢山系(愛鷹山)、箱根山系(二子山)を望むものなので、近景より遠景に向かって、清水湊の家々の屋根、湊の船々、三保の松原、帆を張る船々、丹沢山系、箱根山系の山々が帯状に並び、同時に船の列はそれに直行する視線の流れに添うという構成を楽しんでいます。北斎『冨嶽三十六景』版行直後なのもあって、富士と三保の松原の2つが揃った、まさに「絵になる風景」となる場所ですが、富士を描かず、整いすぎたお膳立てを避けています。これに対して、『冨士三十六景』の本作品では、第一人者のプライドを支えに「絵になる風景」を素直に実現しています。

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23 駿河薩タ之海上

Fuji_23 東海道を西に進む場合、箱根、伊豆の次は、「25 東海堂左り不二」(吉原)がシリーズの順番として相当ですが、そうしなかったのは、海上からの視点を先行させたい思惑があったのかもしれません。実際、本作品には、海上であるからこその大きくうねり、かつ泡立つ波頭が描かれています。また、本作品では、絵師の視点は、峠道から相模湾上に出て富士を仰ぎ見る方向を採っています。このことによって、飛沫を上げる荒れる波越しに静かに佇む富士が見えることになります。波は富士を巻くような形をし、その先に千鳥が飛ぶという視線の流れを意識した構図です。北斎『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」に対比される所以です。


 保永堂版「由井 薩埵峠」は、シリーズ中一番売れた作品で、『東海道名所図会』(巻の四)の図版「薩埵山」を元絵とした、ある意味完成された典型的な「絵になる風景」です。その後の『不二三十六景』「駿河薩岳嶺」も、基本的にはその構図を引き継いでいます。薩埵峠は駿河湾に面した東海道の難所で、江戸方向に向かう旅人が、右手に海を見渡しながら峠を上っていくと、左手に富士の雄大な姿が望めるという絶景ポイントです。その旅人の驚きを絵にしたのが、『不二三十六景』の作品と言うことができます。


Hokusai01 上述したように、本作品が、北斎「神奈川沖浪裏」あるいは『富嶽百景』第2編「海上の不二」と比較されるのも一面で当然です。本作品の題名も「駿河薩タ之海上」ですし…。しかしながら、構図的には北斎の影響を強く読み取ることはできますが、北斎作品が持っていた富士信仰の本質は意図的に消されているように思われます。すなわち、富士を相対化して、近景(此岸)波の上に富士世界を描くという意図はなく、荒れる波の動と泰然とその姿を見せる富士の静とを対比させる一景が目的です。言い換えれば、由井の薩埵峠という現実の中に、構図を重視する北斎作品を自然な形で描き込むというのが、日常景を目指す広重の趣向だということです。

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22 伊豆の山中

Fuji_22 箱根宿から三島宿に至り、東海道を離れて下田街道に進み、下田へ向かう途中、天城峠を越える辺りにあった浄蓮の滝が画題となっています。この滝は、近在に浄蓮寺という寺があったことが命名の由来です。滝は、狩野川の上流部、天城山の北西麓を流れる本谷川にあり、玄武岩溶岩流を流れ落ちる伊豆第一の名爆で、落差は25m、幅は7m程あります。その滝壺には女郎蜘蛛の精が棲み、杣人がその化身である美しい女性と出会ったために、深い眠りについたという伝説があります。そのためでしょうか、本作品では、左上の下田街道には旅人が、右の山道には明らかに杣人が描かれていて、その伝説を彷彿とさせる工夫があるようです。


 問題なのは、下田街道を天城山に向かった場合、富士の姿は旅人の背後方向にあって直接は目にすることはなく、一方で、浄蓮の滝は、川が北流しているので、旅人の前方に見える点です。つまり、浄蓮の滝の背後に、富士が見えることはないということです。ここに至るまでも、江ノ島や富士の位置が実際とは違う構図はありましたが、完全に正反対というのは初めてです。これは、まったくの絵空事(構想図)なので、広重を風景画の大家と考えたい向きには大変不都合な事態です。しかしながら、作品を商品として描く浮世絵師としては、イメージを表現した観光ポスター(コラージュ)としては当然ありえることです。技法的には、富士を廻る白雲がこの場からは見えない仮想であることを物語っています。本作品は、商品性を背負った浮世絵として、そして広重を浮世絵師として理解して初めて成立するものと言えましょう。その他に、シリーズ中に1枚くらい滝の図が欲しかった事情も確かにあるでしょうし、その動機に北斎『諸国瀧廻り』への意識がなかったとは言えないかもしれません(謎解き『冨士三十六景』p60)。


 なお、伊豆と富士との深い関係は、『日本霊異記(りょういき)』にも記載される役優婆塞(えんのうばそく)(小角)伝説が参考になります。すなわち、文武天皇に謀反を讒言され、役優婆塞は伊豆大島に流されるのですが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行したというのです。結果、その富士信仰故に放免されることになります。北斎『冨嶽百景』にも描かれる、富士山岳修行の開祖・優婆塞伝説です。

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21 はこねの湖すい

Fuji_21 まず比較すべきは、広重自身の保永堂版『東海道五十三次』「箱根 湖水圖」です。何よりも、作品中央に描かれる波のように切り立った崖(山)が目を引き、箱根越えの厳しさを象徴する好評価の構図です。興味深いのは、広重が、横絵の保永堂版では縦に高い崖(山)を描き、反対に、竪絵の『冨士三十六景』では箱根権現社の敷地周りの崖(岩場)を横に半島状に描き込んでいる点です。本作品では、それによって、富士山下に緑・黄・青の色の帯を、半島部分にも同じ色の帯をもう一度繰り返すという面白い表現を実現していて、「風景表現のみで勝負する積極的な試み」という評価もあります(謎解き『冨士三十六景』p58)。


 次に、本作品を『不二三十六景』「箱根山中湖水」と比較してみると、竪絵と横絵および絵師の視点の高低にそれぞれ違いはありますが、基本的構図はほぼ同じと考えられます。つまり、同「箱根山中湖水」を制作した時点で、箱根からの富士眺望図はすでに完成していたと考えることができます。この点については、広重『武相名所旅絵日記』(嘉永4・1851年)の元箱根「賽の河原」で描いた写生が下絵になっているという研究報告があります(山梨県立博物館『北斎と広重』参照)。


Hokusai28 さらに、本作品を画題を同じくする北斎『冨嶽三十六景』「相州箱根湖水」と比較してみると、広重作品の中央部に半島のように大きく描かれる地形が実際にはかなり小さいことが判ります。敢えて特定すれば、北斎作品の杉木立のある箱根神社辺りからの富士眺望であると推測されます。なお、同「相州箱根湖水」は、富士(山岳)信仰の中心地の一つ、箱根神社の神聖な姿を静謐に描いています。しかしながら、富士と芦ノ湖の藍の色調を一体と見れば、大きな富士が眼前に見えてきて、その大きな富士の山裾に箱根神社があることが確認できます。これと同じ隠し技は、「武州玉川」にも見ることができます。また、信仰の地を静謐なタッチで描く前例は、「相州江の嶌」にも表れています。


 本作品の描写は、過去の作品と対照され工夫されていることがよく判ります。その上で、『東海道名所図会』(巻の五)の図版「箱根権現社」と比較してみると、当図版には、広重がスケッチをとった賽の河原と箱根権現社がともに描かれていることに気付かされます。つまり、広重は、結局、一番古くに制作された当図版を眺めながら本作品の構図を定め、次に先のスケッチをとって制作を補完したのではと想像されるのです…。広重にしてみれば、自分が目にした写生ではなく、先行する名所図会の各図版風景こそが伝統的日常景という認識なのではないでしょうか。

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20 相模江之島入口

Fuji_20 「19 相模七里か濱」からいよいよ相模湾を西に進み、江ノ島に至ったのが本作品です。江ノ島弁天は芸能の神様なので、近景に描かれる3人の女性達は、歌舞音曲の上達を願ってのお参り一行と想像できます。「19 相模七里か濱」の女性達とも繋がってくる江ノ島の日常景です。『東海道名所図会』(巻の六)の「江島海浜」「江島弁天宮」と対比すると、富士は参道入口の「青銅の鳥居」(文政4・1821年建立)のもっと左手のはずですが、江ノ島弁天の鳥居を富士の鳥居と見せる北斎流構図を応用して、実際の位置とは違って描かれています。確かに「絵になる風景」ですが、北斎のような精神性・宗教性を感じることはありません。なお、江ノ島は引き潮の際には、陸と繋がる陸繋島です。本作品は、反対に満ち潮時を想定しています。それ故、背後に参詣客を運ぶ船が描かれているのです。


Hokusai35 これに対して、『東海道名所図会』(巻の六)の図版と同様、北斎の『冨嶽三十六景』「相州江の嶌」は、砂嘴(さし)で陸に繋がる様子を画題にしています。北斎にしては、おとなしい風景に見えるという評価が一般的です。詳しくは触れませんが、北斎は、陸が江ノ島と繋がり、江ノ島が富士と繋がることによって、陸が富士と繋がるという富士信仰上の核心(風穴・人穴伝説)を描いているので、内容には深いものがあります。満潮時の江ノ島を描いた広重には、北斎を意識しつつ、信仰的観点からのおもしろさを剥ぎ落とそうとの考えがあるのかもしれません。ちなみに、19と20の2作品は、もとより実景ではありませんが、広重『武相名所旅絵日記』(嘉永4・1851年)のスケッチを元にしているという研究報告があります(山梨県立博物館『北斎と広重』参照)。

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19 相模七里か濱

Fuji_19 本シリーズの作品配列は、一旦東海道を離れ、鎌倉と江ノ島を結ぶ海岸上から、富士見の名所を選び出す方針のようです。それが、「19 相模七里か濱」と「20 相模江之島入口」に当たります。七里ヶ浜は稲村ヶ崎と腰越の間にあり、『東海道名所図会』(巻の五)によれば、関東風に6町を1里とすると鎌倉から7里あることが命名の由来と説明されています。


 七里ヶ浜の海岸線を江ノ島方向に歩く旅人に小銭でもせがむ子供達や茶屋で一休みする揃いの着物姿の女性達が、七里ヶ浜の代表的日常景なのでしょう。女性達は芸能上達を願っての江ノ島参詣と想像がつきます。江ノ島の右側の緑の丘が、断崖部分は見えていませんが、小動(こゆるぎ)岬に当たります。よく見ると、茶屋に掛かる暖簾に、「日本はし」、「魚かし」の他に、「ヒロ」(広重)、「蔦吉」(蔦屋吉蔵)などと書かれていて、絵師と版元の宣伝となっていることに気付かされます。これは、前半18枚が終わって、これより後半が始まるというサインとして書き入れられたもので、広重が各種シリーズ版行時にしばしば行う定番の儀式と考えられます。


 本作品でも、富士に相似する三角形の茶屋の屋根を近景に置いています。しかし、北斎とは異なって、自然に見えるような穏やかな構成です。本シリーズに先行する『不二三十六景』「相模七里か濱風波」は、本作品よりさらに江ノ島に近づいた地点での風景です。江ノ島と小動岬の間に富士に相似する三角形の波を描き入れて、まさに北斎的構図の応用と考えられ、作品の発展過程を読み取ることができます。形式的には、『不二三十六景』「相模七里か濱風波」は、北斎のたとえば「神奈川沖浪裏」と似ていますが、富士信仰の観点では、本質的部分を承継しているとは言えないでしょう。


Hokusai12 北斎『冨嶽三十六景』「相州七里濱」と対比してみましょう。北斎は、稲村ヶ崎上空に視点を置いたので、「七里濱」という題名にもかかわらず、七里ヶ浜は全く見えず、広重の本作品と対照してやっと江ノ島と小動岬の向こうに富士を遠望する、本作品と同様の構図だということが確認できます。通常の風景と考えてはならず、右隅に描かれる三角の鎌倉山が富士と相似形であることには、北斎的重要な意味があります。すなわち、雲間から頭を出す富士と日光を反射する江ノ島の海から頭を出す鎌倉山とが相似し、遠景の富士世界と近景の富士(鎌倉山)世界とが連続して繋がっていることを表現しているのです。つまり、富士世界に包摂される「相州七里濱」の姿なのです。

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18 さがみ川

Fuji_18 東海道の藤沢宿から西に進んで、次の平塚宿に入る手前(東側)に馬入川(相模川)があります。『東海道名所図会』(巻の五)によれば、一説として、相模川での橋供養に際して、水上に悪霊が出て、黒雲が舞い上がり、落雷があって、源頼朝騎乗の馬が驚いて頼朝を落馬させ、馬も水中に飛び込んで死ぬという事故があり、故に、馬入川と呼ぶようになったそうです。


 保永堂版『東海道五十三次』「平塚」では、高麗(寺)山と大山の間から覗く富士の姿が描かれています。大山越しの富士の名所であることが判ります。したがって、本作品でも、船渡しのあった相模川河口近く(戸田の渡し)から大山と富士を眺望する構図を採っています。本作品と同様の構図は、すでに『不二三十六景』「相模川」に見ることができます。両作品の違いは、本作品では、葦の前に鷺、後ろに筏を漕ぐ男をそれぞれ配して、遠近を強調している点です。筏の上で焚く火を覆う三角の屋根と男が被る笠は、遠景の富士と大山に相似する三角形で、北斎的構図を意識した工夫と思われます。ただし、『不二三十六景』の作品でも、富士と大山の前に三角を思わせる船の帆に張られた綱が見えています。そして、いずれの作品も、北斎ほど強くは構図性に囚われていない表現が感じられます。たとえば、本作品の場合、三角の囲いは葦に隠されており、『不二三十六景』の方では三角の綱の一辺がやはり隠されているといった具合です。


 ちなみに、ゴッホ「タンギー爺さん」の肖像の頭部背後に描かれている1枚が、本作品と考えられています。

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17 相州三浦之海上

Fuji_17 本作品より、相模国に入ります。神奈川の景勝地を発ち、東海道を西進すると、次の代表的名所は江ノ島ということになりましょう(『東海道名所図会』巻の六参照)。たとえば、保永堂版『東海道五十三次』「藤澤」では、遊行寺の景色の前面に、江ノ島に向かう座頭の一行と大山詣りの男達が描かれています。おそらく、これが着想となって、広重は三浦半島の海上側から、江ノ島(富士の直下の緑の島)と大山(富士の右側黒い山)の2大名所を従える富士見の作品を構想したものと思われます。本作品の近景に描かれる松が生えた岩場は城ヶ島で、その後ろの断崖が三浦半島先端部です。


 富士が夕焼けの中に描かれていることから、漁船などの帰帆風景と想像されます。「瀟湘八景」の「遠浦帰帆(えんぽきはん)」の趣があります。「16 武蔵本牧のはな」と同様、富士の手前には船の帆柱の綱が三角形を作り、富士との相似形を演出していますが、北斎とは異なって、構図性よりは日常性を重視していることが判ります。とはいえ、実際には江ノ島は作品中もう少し右手に位置するはずです。つまりは、これによって、広重の日常景は実景とは違うということが明らかになります。

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16 武蔵本牧のはな

Fuji_16 本牧の「はな」とは、本牧岬の端もしくは突端という意味で、『江戸名所図会』(2-p283)によれば、本牧十二天宮が祀られています。神奈川宿の台(の景)から見える絶壁が、この社の裏手にある巨巌に当たります。『江戸名所図会』の図版「本牧吾妻権現宮」(2-p290~p292)の詞書解説には、「本牧の地は、神奈川駅の南に続きて海上に鋭(さ)し出でたる一方の景地にして、勝区を探る人をりをり道をここに取ると見えたり」とあります。


 本作品の手前には、筵(むしろ)の帆を張った船があって、魚などを運んでいるのでしょう。その背後に見える海岸線の桃色は、磯子浜の桜(あるいは梅)の花と思われます。春の桜(梅)、丹沢山地(大山)、そしてと富士という情景です。この構図の基本となった作品は、すでに、『不二三十六景』「武蔵本牧海上」に見られます。ただし、竪絵と横絵の違いがあって、本作品では崖の上部がトリミングされていて、崖の高さが強調され、また低い視点からの富士眺望を味わおうとの意図が感じられます。北斎ならば、船の帆を張る綱の三角形と富士の三角形の相似をもっと強調したのではと思われます。広重は、繰り返しになりますが、本牧の日常景の中に富士を置くことに主眼があります。


 ちなみに、『富士見百図』の最初の絵は「武蔵本牧」を描いた作品になっています。シリーズ幕開けに相応しい様式性のある風景と感じられます。

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15 武蔵野毛横はま

 本作品より、東海道を西に進みながら、海上からの富士見の名所を紹介する第2部に入ります。『東海道五十三次』を富士という視点で再構成していると分析することもできます。それ以前の部分(14番まで)は、『名所江戸百景』と競合する地域を富士という視点で再構成あるいは棲み分けして描いたものと言い換えることができます。


Fuji_15 保永堂版『東海道五十三次』「神奈川 臺之景」では、宿場の茶店や旅籠の背後に、わずかに横浜村対岸から突き出た洲崎・州乾(しゅうかん)島が見えているにすぎません。本作品では、帆船が浮かんでいた神奈川の海側からの視点で描いているため、富士の眺望と併せて、画面中央の州乾島の右に野毛村、左に横浜村がよく見えます。野毛村の前面に広がる浦には、姥(うば)島という奇岩があって小舟で物見する人も少なくありません。一帯は漁場で、獲物は東海道各宿や江戸の市に送られました。なお、州乾島は対岸の横浜村と陸続きのように見えますが、当時は島です。本作品において、敢えて横浜からの風景が加えられている点には、安政5年9月6日死亡の広重が、安政6(1859)年7月1日の横浜開港をまるで予期していたかのような印象を受けます。


 『江戸名所図会』(2-p284~p292)には、「横濱辯財天社」、「芒(のげ)村姥島」、「本牧塙十二天社」、「本牧吾妻権現宮」等と図版が続き、神奈川宿からの西方海岸線は、なかなか風光に勝れた所であったことが判ります。そのため、広重は本作品では富士眺望を根幹として海側からの新名所を探索していたようです。また、『冨士三十六景』では日常景を作風とする広重なのに、本作品では人物があまり描かれていないように見えます。しかし、出帆、帰帆風景の背後海岸線には、小舟で漁あるいは物見をする人々の姿があって、やはり日常景を忘れてはいません。なお、『富士見百図』の2図目「武蔵加奈川海上芒村横浜」が本作品と似ていることから考えて、新機軸の風景様式を本シリーズで事前に習作あるいはお披露目した可能性を感じます。


 『不二三十六景』「神名川海上」は、野毛浦を正面に据えて、『冨士三十六景』「武蔵野毛横はま」を拡大した作品と考えられます。比べれば、帆柱と富士を重ね合わせている点などは、北斎『冨嶽三十六景』の構図からの影響を強く感じます。ただし、北斎ならば、三角に張った綱の間から富士を遠望したことでしょう。おそらく、『不二三十六景』制作時点での広重は、『冨士三十六景』「武蔵野毛横はま」作品に見られるような日常景への脱却途中にあったのではないでしょうか。

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14 武蔵越かや在

Fuji_14 越谷からの富士風景は、『江戸名所図会』、広重の『絵本江戸土産』、『不二三十六景』、そして江戸百にも見当たらず、初出と考えられます。もちろん、北斎の『冨嶽三十六景』にもありません。二代広重『絵本江戸土産』第9編に「越谷鷲大明神」を見る程度です。では、本作品制作はかなり特異なことなのかと言うと、必ずしもそうではありません。千住から日光街道沿いと目黒川沿いの両地域は、富士講が盛んなところとして知られていて、数多くの富士塚が造られています。したがって、日光街道(奥州街道)の3番目の宿駅で、草加宿と粕壁宿との間にある越谷からの富士風景は、北方江戸郊外に拡大した富士講信者を取り込むという点では、営業的にも十分制作に値します。もちろん、北斎『冨嶽三十六景』が千住地域から3作品(「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」)を描いているので、それを避けて、千住に次ぐ大きな宿場越谷から選定したことも動機としてあるでしょう。


 本作品に咲くのは、越谷地方の名産であった、桃の花と考えられます。今日の桃とは違って果実はかなり小さく、甘味も少ない種類です。桃の木の下や背後の畑地には、春らしく、菜の花も咲いているようです。画面を横切る川は、宿場の中央を流れる元荒川で、渡し船を待つ旅人が小さく描かれています。越谷宿は、北に農村地域大沢町、南に商業地越谷町とに分かれますが、本作品は、大沢町付近から元荒川越しに富士および丹沢山地を望んだものと思われます。作品の感じは、江戸百「蒲田の梅園」を彷彿とさせます。

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13 武蔵多満川

Fuji_13 多摩川は、秩父山地より、多摩丘陵と武蔵野台地の間を流れて江戸湾に注ぎます。江戸百において多摩川に係わる作品は、多摩川河口の「はねたのわたし弁天の社」のみです。しかしながら、上中流域の風光は古来より歌枕の地・六玉川の1つとして、かつ優美な名所として、当然、江戸百に収められていささかも不思議ではありません。それが外されたのは、やはり、本作品を『冨士三十六景』のために残しておいたと言うべきでしょう。『江戸名所図会』(3-p448~p455)にも、図版が4点程掲載されていて、本作品構成の元絵になったと思われます。その詞書に、「西北に秩父および甲州の諸山を望み、東南は堤塘(つつみ)の斜めに連なるを見る。鮎をこの川の産とす。夏秋の間多し。ゆゑに、つねに漁人絶えず。」とあります。


 本作品は、甲州街道が多摩川を渡河する日野の渡しの東岸から西岸に富士を眺望する構図です。渇水期には、本作品に見るような土橋が架けられていたようです。鮎などの漁が盛んなので、友釣りをする人達などの日常景の中に富士および丹沢山地(大山)が置かれています。俯瞰図にすることによって、竪絵の特徴を生かしていることが確認されます。広重『絵本江戸土産』第4編の「多摩川」は、土橋の下流辺りの風景で富士を除外しています。『不二三十六景』「武蔵多摩川」は、逆に土橋を外して富士と丹沢山地を正面に据えています。柳の木、渡し船、鮎漁を思わせるのどかな情景という点では、いずれも共通しています。


Hokusai10 本作品と同じ場所からの富士の作品と考えられる北斎『冨嶽三十六景』「武州玉川」は、船を待つ旅人、日野の渡しを進む船、そして多摩川の背後に富士を描くというスタイルです。広重との違いは、すやり霞によって、富士と多摩川が一体化されて見える点です。富士と多摩川に共通して使われる藍色によって、多摩川が富士の山容の一部と化して見える仕掛けが重要です。北斎は、富士の日常景を描くことが目的なのではなくて、富士と多摩川が一体化した特異な景色となっていることに関心があり、かつ、それが富士(講)信仰上とても大事であると考えていると理解されます。感覚的な表現ですが、空も藍色なので、渡し船がこのまま天駆ける船となって富士まで飛んでいってしまいそうな印象です。

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12 武蔵小金井

Fuji_12 江戸百には、神田上水の水源地「井の頭の池弁天の社」が描かれています。それと対比すれば、玉川上水上流部の名所小金井(桜)が描かれていないのは不思議なことです。そこで、それを埋め合わせようとしたのか、江戸百には「玉川堤の花」という新機軸の作品が制作されています。ただし、残念なことに、その桜は老中筆頭阿部正弘の命によって伐採されることになり、作品自体がいわくつきのものとなってしまいましたが…。視点を変えて、『冨士三十六景』が江戸百を補完していると考えれば、小金井(桜)が江戸百からは外された事情も合理的に説明できるでしょう。


 本作品は、武蔵小金井の玉川上水堤に植えられた桜木の洞(うろ)越しに富士を覗く構図です。『江戸名所図会』(4-p73)によれば、「この地の桜花は享保年間[1716-36](あるいはいふ、元文二年丁巳[1737])、郡官川崎某(川崎貞孝、1689-1767。幕臣)台命を奉じ、和州吉野山および常州桜川等の地より桜の苗を植ゑらるるところにして」とあり、「なかんずく金井(こがねい)橋の辺りは佳境にして」と記されています。これが、本作品の言う「武蔵小金井」に当たります。『江戸名所図会』には、「小金井橋春景」(4-p76、p77)を含め2図が掲載されています。おそらく、それに対応させて、広重『絵本江戸土産』第4編は、「小金井堤両岸満花」「其二小金井橋花見」の2図を掲載しています。


 ところで、先の『江戸名所図会』(4-p80)によれば、桜の数は、「おほいに減じておよそ三百株あまりあり」とあって、かなりの老木化を示唆する記述があります。そのためか、『絵本江戸土産』第4編の扉の絵は、「小金井の櫻」と題して、本作品と同様、洞のある桜の背後に富士が見える構図となっています。おそらく、同時期の『不二三十六景』「武蔵小金井堤」の作品も同じ着想と思われるます。これらの作品の系列上に、『冨士三十六景』の本作品があることは間違いなさそうです。


 なお、本作品は、『冨士三十六景』では珍しい「近像型構図」を選択しています。日常景を旨とする本シリーズの中では違和感があり、明らかに北斎を感じさせるものです。おそらく、本作品は本来的には江戸百に収められるべきものとして構想されたにもかかわらず、江戸百「玉川堤の花」を優先させた版元の営業戦略から、前述したように、意図的にシリーズから外されたのではないでしょうか。

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11 鴻之臺とね川

Fuji_11 「鴻之臺」は、利根川(現在の江戸川)の上流部にあって、下総国にあります。基本的に東都の富士見の名所が紹介されていた流れからすると、武蔵国から離れて下総国の紹介となるのは、今日的には不自然ですが、当時は、江戸の名所として一体的に扱う習慣でした。この地に下総の国府・国分寺等があって、古くからの歴史を背負っているという、文化的な一体感がその理由と思われます。『江戸名所図会』(6-p329)によれば、「国府の近き辺りにあるところの丘山なれば、国府台とは号したりしなるべし」とあります。また、「総寧寺の辺より真間の辺までの岡を、すべてかく称するなるべし」ともあります。その歴史・文化性から、『江戸名所図会』にも多くの図版紹介があって、なかでも、「国府臺断岸之圖」(6-p338、p339)が各種広重作品の元絵ではないかと思われます。


 帆を張った多くの船は、銚子→(新)利根川→関宿→(旧)利根川(江戸川)→行徳→新川・小名木川→日本橋川(行徳河岸)と進むもので、江戸への豊かな物流を表現しています。したがって、ここでの富士は、江戸を象徴するランドマークとしての役割を担っています。崖の上に見える僧侶は、謎解き『冨士三十六景』が言うように、崖背後に位置する総寧寺の僧で、富士の眺望に絡めて、かつての古戦場でもあった鴻之台の歴史などを物語っているものと想像できます。崖の周辺には多くの紅葉が描かれています。これは、近在する名所「真間の紅葉」の情景を意識して援用しているのでしょう。


 広重『絵本江戸土産』初編に図版「国府の臺眺望」があって、やはり、江戸の富士見の名所として紹介されています。また、同時期の『不二三十六景』「下総鴻の臺」では、横絵と竪絵の違いはありますが、ほとんど、本作品と同様の俯瞰的視点の構図となっています。江戸百「鴻之臺とね川風景」との棲み分けという観点では、本作品の方が、絵師の視点が高いということです。ただし、作品の趣にそれほどの差違はありません。つまり、総寧寺の僧侶の名所解説それ自体を日常景として描いています。


Hokusai25 敢えて言えば、北斎『冨嶽三十六景』「登戸浦」が、同じく下総国を扱っています。登戸神社の鳥居周辺の海岸で、女性や子供も含め潮干狩りをしている情景です。広重とは違って、富士塚があった登戸神社の鳥居を富士を本尊とする鳥居に代用し、近景に富士の御利益(豊かな収穫)世界を展開させています。北斎作品は、富士(講)信仰を強く意識し、それ故、庶民の姿は、日常性よりは、平等性(均しく収穫する姿)を体現する道具として描かれていると解すべきでしょう。

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10 東都目黒夕日か岡

Fuji_10 『江戸名所図会』(3-p106)によれば、夕日の岡は、「明王院の後ろの方、西に向かへる岡をいへり。古へは楓樹数株(ふうじゅすちゅう)梢を交へ、晩秋の頃は紅葉(もみじ)夕日に映じ、奇観たりしとなり。されどいまは楓樹少なく、ただ名のみを存せり。」とあります。夕日に映った紅葉の名所であり、西を向く岡なので、富士の景観を楽しめる場所であることが判ります。本作品は、江戸百「目黒太鼓橋夕日の岡」と比べると、その情景がよく理解できます。すなわち、「目黒太鼓橋夕日の岡」は、太鼓橋を目黒川の上流方向から東方向を概観するもので、右隅に屋根が見える家がしるこ餅の正月屋です(『江戸名所図会』3-p112、p113参照)。これに対して、本作品は、夕日の岡から目黒川を横切って西方向を概観する構図において、富士を眺望しています。富士の麓の手前の森辺りが目黒不動尊のある場所です。本作品に紅葉が描かれているのも、かつて紅葉の名所であった記憶を元にしています。このように、本作品と江戸百とが季節柄や視点を棲み分けていることが判ります。


 江戸百には、目黒に関し、「目黒千代か池」、「目黒爺々が茶屋」、「目黒新富士」、「目黒太鼓橋夕日の岡」、「目黒元不二」等の作品があり、後ろの4作品は、目黒不動尊の御開帳を制作動機としていると考えられています。本作品も、この4作品と係わって、棲み分けされながら制作されたことが想像されます。また、広重『絵本江戸土産』では、目黒方面の作品を第3編で一度採り上げているのにもかかわらず、再度第7編でいくつかの作品を掲載しています。これは、『絵本江戸土産』第7編と江戸百および『冨士三十六景』との制作準備が重なったために生じた混乱か、もしくは、第7編制作のために手抜きしたのではないかと推測しています。


 『不二三十六景』には、「東都目黒千代が崎」という作品があります。これは、『絵本江戸土産』第3編「千代ヶ崎風景」と制作時期が同じ頃と考えられることから、両作品には深い関連性があるはずです。夕日の岡から続く丘陵地からの富士の眺めです。紅葉の風景という点では、共通しています。


Hokusai22 ところで、北斎『冨嶽三十六景』「下目黒」も、やはり、目黒台地から西方に富士を眺める作品の1つです。千住とならんで、目黒は富士講の中心地ですから、北斎が富士の作品を残すのは当然です。丘陵地に展開する畑地の向こうに小さく富士を覗かせる構図です。富士を丘、畑、家の屋根の1つとでも見まごう程の扱いです。富士を開削の神と考えれば、近景に広がる、この畑地風景こそ富士世界です。富士講中興の祖・食行身禄を念頭に置けば、食を支える畑地風景として、やはり、富士の御利益世界と考えることができます。単純な風景と見ては、北斎作品の意味は判らないでしょう。

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9 雑司かや不二見茶や

Fuji_9 「雑司かや不二見茶や」とは、一体どこにあるのでしょうか?江戸っ子にとって、雑司が谷と言えば、目黒正覚寺、「恐れいりやの鬼子母神」で有名な入谷真源寺、そして雑司が谷法明寺を加えて、三大鬼子母神の参詣地としてよく知られた場所です。したがって、画題の富士見茶屋は、この法明寺の鬼子母神に至る道筋にあったことが推測されます。また、『江戸名所図会』の図版「法明寺雑司谷鬼子母神堂」(4-p222、p223)を見ると、門前や参道周辺に多くの茶屋が描かれているので、これらの西方富士を見通せる茶屋を想定していると考えられます。画中右の小山を、雑司が谷の西に位置する長崎村域の鼠山と見る説もあります(謎解き『冨士三十六景』p28参照)。


 ところで、鬼子母神堂(日蓮宗)は、子授け・安産・子育ての神様として、女性参詣者に人気のあった場所です。それ故、本作品においても、女性2人が茶屋で休憩しながら富士を眺める構図となっています。『江戸名所図会』の「雑司谷の会式」を紹介する図版(4-p224、p225)には、「毎歳十月八日より十三日まで修行す。参詣の輩は同じく六日の頃より二十三日の頃まで、群集して稲麻のごとし。」との書き入れがあって、多くの女性達の参詣姿が描かれています。なお、併せて、芭蕉の「菊鶏頭伐りつくしけり御命講」という俳句が記されています。この会式(日蓮の命日、旧暦10月13日)の頃、この地域では参詣者に売るための菊花などの栽培も盛んで、本作品中に、菊の鉢植えが覗いているのもそれを感じさせる表現かと思われます。茶屋の上下には、季節柄、柿の実が見えています。


 江戸百に関して、安政3年3月13日の板橋筋への将軍御成によって、「王子瀧の川」、「飛鳥山北の眺望」、「千駄木団子坂花屋敷」、「日暮里諏訪の臺」の各作品が制作され、安政4年1月21日の王子筋への将軍御成によって、「高田姿見のはし俤の橋砂利場」、「王子音無川堰埭(えんたい)世俗大瀧ト唱」、「高田の馬場」の各作品が制作されたと仮定すると、いずれの際にも雑司が谷道を抜けたと推定されます。にもかかわらず、江戸百には雑司が谷の作品がありません。その理由については、『冨士三十六景』のために本作品を残しておいたと考えれば、納得できるのではないでしょうか。


 広重『絵本江戸土産』第4編に「雑司ヶ谷鬼子母神法明寺」と題する作品があり、視点は変えてありますが、『江戸名所図会』の一部を切り取って制作されています。つまり、定番の富士見図ではないかもしれませんが、広重が雑司が谷からの風光に興味があったことは十分に窺われます。また、本作品に、広重が『絵本江戸土産』第3編、7編で採り上げた目黒の富士見茶屋の情景を重ねたであろうことも容易に想像ができ、この辺りに本作品の制作動機があるように思われます。『不二三十六景』には、該当作品はありません。


Hokusai23 なお、北斎の『冨嶽三十六景』にも雑司が谷の作品はありません。しかしながら、「東海道吉田」において、同じく富士見茶屋の作品を見つけ出すことができます。そこでは、富士を眺望する2人の美人を富士と一緒に建物の窓枠あるいは店入口の柱ごと切り取って、額縁仕立てとしています。富士と美人を同一世界に取り込み、その一体感を大事にする富士信仰上の思惑を見つけ出すことができます。一方、広重の本作品では、2人の女性の参詣姿という日常性を基調とする富士眺望図となっていて、富士を日常風景の中に収めようという意図が感じられ、北斎との差が顕著に示されています。

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8 東都飛鳥山

Fuji_8 『江戸名所図会』(5-p157)によれば、飛鳥山は、「数万歩に越えたる芝生の丘山にして、春花・秋草・夏涼・冬雪眺めあるの勝地なり」とあります。元享年中(1321-1344)に豊島氏が飛鳥の祠を勧請したことに始まり、元文の頃(1736-1741)、徳川吉宗の命によって桜樹数千本が植樹されてから、庶民の一大行楽地へと変じています。『江戸名所図会』の図版(5-p162、p163)によれば、桜のみならず、富士見の景勝地としても描写されています。したがって、広重『絵本江戸土産』第4編においても、広重は飛鳥山から西方に富士を眺望する作品を掲載しています。この点で、江戸百「飛鳥山北の眺望」が敢えて飛鳥山から北方に筑波山を眺望する構成を選択しているのは、後続『冨士三十六景』のまさに本作品を意識してのことであったことが推測されます。


 見落としがちですが、丘の向こうに見え隠れする傘の列は何なのか気になります。これは、江戸百「下谷広小路」、「上野山した」、そして『絵本江戸土産』第4編にも描かれています。当時の桜見に際する風俗で、琴や三味線などの音曲師匠とその弟子一行が桜見に向かう際に見せるデモンストレーションと考えられます。これが、江戸庶民にとっての日常景なのでしょう。


 『不二三十六景』「東都飛鳥山」は、『絵本江戸土産』第4編とほぼ同じ構図です。飛鳥山にあった由緒を記した石碑が、ともに作品の左手に取り入れられています。竪絵である本作品の制作に際して、石碑の部分はカットされていて、それに代え、料理屋や茶店の賑わいなどの表現が加えられたのだと思われます。北斎『冨嶽三十六景』には、飛鳥山を描く作品はありません。飛鳥山が富士よりは、桜の名所としての特徴が強いからでしょうか。

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7 東都隅田堤

Fuji_7 本作品は、桜の名所隅田川東岸の隅田堤から、金龍山(浅草寺)と吾妻橋越しに富士を遠望する構図です。典型的富士見の名所絵ですが、作品意図は、江戸百「吾妻橋金龍山遠望」と「真乳山山谷堀夜景」の2作品に重ね合わせるとよく判るのではないでしょうか。すなわち、「吾妻橋金龍山遠望」は向島芸者と隅田堤の桜を楽しみつつ舟遊びをする情景と理解され、遠景には吾妻橋、金龍山、富士の景色が見えます。また、「真乳山山谷堀夜景」は、向島辺りから堀の芸者で有名な山谷堀の料理屋の明かりを背後に感じつつ、その料理屋有明楼(ゆうめいろう)の女将お菊を描いています。これら両作品を前提にすれば、本作品の3人の女性達の出所も自ずと明らかになります。左手で褄を取り赤い襦袢を覗かせて歩く2人の女性は、おそらく向島の芸者衆でしょう。着物の木瓜紋から常磐津節の芸者と見られます。そして、その背後、竹屋の渡しの船着場から上ってくる女性は、お菊と特定できるかどうかは別として、対岸今土橋からやって来た料理屋あるいは船宿の女将と想定されます。夕暮れ時、影を帯びる富士の前に、江戸庶民にとってはやはり馴染みの日常景を配置した作品です。もちろん、宣伝を兼ねての趣向も読み解けてきます。


 広重『絵本江戸土産』初編には、「隅田堤花盛」など隅田川東岸を描く作品が複数あります。しかしながら、富士見の景はありません。一方で、『不二三十六景』「東都隅田堤」は、本作品の原点となった情景が描かれています。当作品を竪絵に再構成したのが本作品ということでしょう。


Hokusai27 ところで、北斎『冨嶽三十六景』ならば、富士の祭神・木花咲耶姫を念頭に、近景にこの世の富士(桜)世界を表現するか(「東海道品川御殿山ノ不二」)、あるいは、金龍山の屋根を富士塚として絵の中に取り込むはずですが(「東都浅艸本願寺」)、広重は敢えて日常景を写すことに徹したと考えられます。北斎の堤越しの富士の景として、荒川堤を疾走する騎馬の武士姿の彼方に赤富士が描かれる作品があります(「隅田川関屋の里」)。これと本作品を比較すると、広重の日常景への志向が際立ちます。反対に、北斎作品は、題名の千住「関屋の里」が当時富士講の中心地(信仰の出発点)であったことを理解しないと、その意図が十分には読み解けないでしょう。

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6 東都両ごく

Fuji_6 両国橋は、明暦の大火の後に、千住大橋に次いで、そして下流域では官府の橋として初めて隅田川に架けられました。また、かつて隅田川が武蔵国と下総国の国境であったことが命名の由来となっています(『江戸名所図会』1-p126)。橋詰には火除け地として広小路が設けられ、多くの出店や見世物小屋等が建ち並び、数多の人々が集まる江戸の中心的遊興ゾーンの1つでもありました。代表的な行事は、5月28日から始まる川開き、(納涼)花火ですが(『江戸名所図会』図版「両国橋」1-p130以下参照)、本作品は柳の芽吹き具合から春の頃と思われ、画題を異にしています。本作品と江戸百の作品を並べると、「両国橋大川ばた」は隅田川西岸から東岸方向を見遣る作品、「浅草川大川端宮戸川」は両国橋から隅田川上流北方向(筑波山)を見遣る作品、そして本作品は隅田川東岸から西岸西方向(富士)を見遣る作品と、それぞれ絵師の視点を違えて描かれ、棲み分けがなされていることが確認されます。


 江戸百との比較では、両国橋からの富士遠景は本作品が初めてです。しかし、『不二三十六景』「東都両國橋下」に橋脚の彼方に見える富士の構図があって、それと比べれば、本作品は絵師の視点が両国橋まで上昇したと言うことができます。同「東都両國橋下」は、おそらく、北斎『冨嶽三十六景』「深川万年橋下」を意識しつつ、日常的な情景に引き戻そうという広重の工夫がある作品と考えられます。


Hokusai32 広重的工夫という点では、本作品についても同じことが言えます。つまり、北斎「御厩河岸より両國橋夕陽見」の構図重視の作品を、広重らしく日常風景に引き戻そうとしたものと理解されます。したがって、富士の裾野が紫雲で覆われる夕方の様子として、近景に舟遊びの用意をする芸者2人を配し、その背後には吉原に向かうと思しき猪牙船がいずれもよくある日常の情景として加えられているのです。両国橋の上を大名行列が渡っているのは、もちろん、帰参風景となりますが、これも、武士出身の広重らしい題材選択と思われます。本作品は、北斎作品と対比することによって、作品の趣向、とくにその情緒性がいっそう浮かび上がってくる仕様となっています。江戸百と比べると、珍しく、女性が正面方向に顔を向けています。背中を見せている女性の着物の柄が燕になっているのは、「柳に燕」という季節感からでしょうか。


 広重『絵本江戸土産』初編「両國橋」は、同時期の『不二三十六景』「東都両國橋下」を意識したのか、絵師の視点は空中にあって、両国橋や富士を俯瞰するものとなっています。絵師の視点に違いはありますが、本作品も、それを元絵として、竪絵に切り取って制作されたとも言えましょう。付け加えれば、北斎が「御厩河岸より両國橋夕陽見」において構図性に拘っているのは、此岸と彼岸を繋ぐ両国橋の先に西方極楽浄土の富士世界を見せつつも、近景の此岸にすでに富士(平等)世界があるという一種宗教的信念を表現するためです。この点で宗教性に深く囚われない広重とは大きく異なること、すでに述べた通りです。

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5 東都御茶の水

Fuji_5 題名の「御茶の水」は、かつてこの地にあった高林寺境内の湧水を二代将軍秀忠に茶の湯用に献上したことに由来します。本作品で一番目につくのは、画面の左右を横切る構造物です。これは、御茶の水の丘陵地帯を割って流れる神田川に架けられた、神田上水の懸樋(かけひ)です。この水道の懸樋の後ろに小さく描かれる上流部の橋が、水道橋です。この辺り、神田川の南一帯を駿河台と呼び、『江戸名所図会』(1-p103)によれば、富士の眺めが駿河国に似ているからと説明されていて、富士の名所地であることがよく判ります。


 江戸百「水道橋駿河台」の方は、絵師の視点が上流部水道橋此岸にあるのに対して、本作品では下流部水道懸樋のやや上部此岸辺りにあって、各作品の棲み分けを読み取ることができます。その懸樋下には、菊正宗の酒樽を運ぶ小舟が見えています。本作品よりも絵師の視点を下げ、神田川から懸樋を見上げる構図を採っているのが、『江戸名所図会』の図版「御茶の水水道橋神田上水懸樋」(1-p106、p107)です。両作品を比べると、本作品では富士が懸樋を覗き込んでいるように感じられます。しかしながら、空に夏の鳥ほととぎすを飛ばす点等共通するところも多く、『江戸名所図会』の図版が元絵と推測されます。そして、広重『絵本江戸土産』第5編の「御茶の水」と「水道橋」の2図版を経て、江戸百と本作品へと至っていると考えられます。


 『不二三十六景』には、「東都水道橋」と「東都駿河臺」と題する作品があります。前者の水道橋の作品は、おそらく、『絵本江戸土産』第5編と同時期・同構想に基づくものと想像されます。後者の駿河台の作品は、神田川(懸樋)を描かない点で、『絵本江戸土産』第5編「御茶の水」や本作品とは大きな違いがあります。この点で考慮すべきは、神田川、懸樋、富士の3点セット全てを作品に収めるには、本作品のような竪絵が有効であるということです。なお、横絵の『絵本江戸土産』「御茶の水」には、富士は描かれていません。


Hokusai05 また、北斎『冨嶽三十六景』「東都駿臺」も横絵ですから、神田川両岸の峡谷感が描ききれず、絵組の苦しさが作品から読み取れるのではないでしょうか。しかし、北斎にとっては、広重のように富士の実景描写が眼目なのではなく、富士信仰あるいは富士講の平等世界を近景に展開させることが重要なので、これで良いとも言えます。

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4 東都佃沖

Fuji_4 佃島は、『江戸名所図会』(1-p197)によれば、「鉄炮洲に傍ひたる孤島をいふ」とあって、徳川家康が上方に在する頃、摂州佃村の漁船を度々利用したことが機縁となり、開幕後、その島民を呼び寄せ、(白魚)漁の権利を与え、鉄炮洲の干潟を授けたことがその命名の由来と解説されています。本作品は、その佃島沖の干潟地帯から西方に富士を眺望する図です。『江戸名所図会』の図版「佃島住吉明神社」(1-p192、p193)では、富士らしき山はかなり小さく描かれています。江戸百「佃しま住吉の祭」は、『江戸名所図会』の画題に従ったのか、住吉祭に焦点が当てられています。ただし、その時点で、『冨士三十六景』の構想があったとすれば、意図的に富士眺望部分を避けたとも考えられます。なお、同「佃しま住吉の祭」は、画題の住吉祭が老中筆頭であった阿部正弘の死による鳴物停止の時期と重なっていて、忌日明けの神輿風景を敢えて描いている点に、阿部の死を読み取ることができる大変興味深い作品です。ところで、広重『絵本江戸土産』第2編に「佃白魚網夜景」と題する作品があります。上述の佃島の由来からすれば、白魚漁の情景を描くことの方が自然かもしれません。その白魚漁については、江戸百「永代橋佃しま」に採り上げられています。


 では、佃沖からの富士眺望は、広重にとって本作品が嚆矢なのかというと、実は、富士に関する先行シリーズである横中判『不二三十六景』に、「東都永代橋佃島」がすでにあります。この永代橋の場所から、さらに沖合に出て西方を眺めた構図が本作品です。広重が作品を描く視点において、かなり工夫をしていることが判ります。過去描いた定番の構図を避けた結果、本作品では築地一帯が富士の手前に描かれることとなります。しかしながら、そのために、安政地震の翌年の台風で崩落した築地門跡(西本願寺)の本堂大屋根を描かざるをえなくなりました。広重は、この問題に、江戸百「鉄炮洲築地門跡」でも直面していて、いずれも、大屋根を描くという結論を出しています。おそらく初めから描く覚悟であったと思われます。なぜならば、この時点の広重の名所絵が実景ではなくて、人々の心のなかにある日常景を写すことに眼目を置いていると考えられるからです。とくに、江戸湊に聳える築地門跡本堂は、江戸の浄土性を象徴する存在として人々の心に強く焼き付いているものです。これに、西方極楽浄土のシンボルとしての富士を重ね合わせることによって、大変、心和らぐ風景となります。


Hokusai11 佃島周辺に描かれる弁財船も江戸湊の繁栄を示すだけではなくて、その帆柱に結び付けられた綱が造る三角形が、富士あるいは末広がりの八を表現する技法と理解すべきでしょう。この点については、北斎『冨嶽三十六景』「武陽佃嶌」にその原型を見ることができます。さらに、本作品の中景左隅には、投網する漁師が描かれています。漁師の視点では、北斎『富嶽百景』「綱裏の不二」と同様の構図となるはずですが、広重は、北斎のように構図性に重点を置くことなく、日常の風景の一部に溶け込ませて表現する方向を選択しています(江戸百「利根川ばらばらまつ」参照)。近景の都鳥も日常性の効果を高める工夫です。

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3 東都数奇屋河岸

Fuji_3 江戸百から本作品が描く場所に近い所を選ぶと、「山下町日比谷外さくら田」と「びくにはし雪中」の中間辺りとなり、数奇屋河岸御門の対岸の火除地からの眺めと考えられます。本作品では、右に外濠の石垣が、左に元数奇屋町の町屋が見えています。外濠の中にある石垣道は、その先には数奇屋御門に続く数寄屋橋が架かり、橋下の瀬木から濠の水が落下しています(二代広重『絵本江戸土産』第8編参照)。名所絵としては、一つポイントになる地形ではあります。なお、『江戸名所図会』に数奇屋河岸自体についての記述はありませんが、「織田有楽斎第宅(ていたく)の地」(1-p212)の説明によれば、「この人茶事に長ず、ゆゑに、宅地にいくつともなく、数奇屋を建て置かれし」とあり、これが(元)数奇屋町の町名の謂れとなったと解説されています。


 江戸百「山下町日比谷外さくら田」からよりも、本作品の数奇屋河岸からの方が、石垣越しに富士を正面に見ることができるので、その点で『冨士三十六景』の1枚に選ばれたのだと思われます。また、私娼を意味する「びくにはし雪中」という題名から判ることは、外濠近くとはいえ、この辺は場末感があるということです。したがって、雪晴の景色が持つ透明感・清涼感によって化粧直ししたものとも想像されます。さらに、雪景色の富士と雪に覆われた数奇屋河岸という構成によって、遠景の富士と同じ世界が近景の数奇屋河岸にも展開されているという意味で、富士信仰的な一体感も生まれてきます。


 考えてみれば、広重の生家に近いので、広重が個人的に馴染みの深い富士の名所風景を3枚目に挿入したというところではないでしょうか。広重発案なので、数奇屋河岸からの富士見の作品は、本作品以前にはありません。各濠にある御門を描かないのは、江戸百と同じく、広重の幕府に対する配慮からです。

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2 東都駿河町

Fuji_2 『江戸名所図会』に図版「駿河町三井呉服店」(1-p74、p75)があって、それを下資料として広重『絵本江戸土産』第5編および江戸百「するがてふ」が制作されたようです。どちらかと言えば、本作品は『絵本江戸土産』の構成の方に倣ったと考えられます。江戸百「するがてふ」が、名所絵の形式を採った呉服商三井越後屋の宣伝であったと同様、本作品も富士の名所絵の形式を借りた広告宣伝図です。故に、画面中央部に「するが町 呉服物品々 越後屋」という看板が目立つように描かれています。もともと駿河町は、通りの西方正面に富士が見えるよう都市計画された一角なので、名所絵の題材に相応しい絵になる場所です。「1 東都一石ばし」によって武家の町からの富士眺望を描いたのに対して、次は、商人第一の町からの富士眺望図というわけです。


 描かれているのは、門松・注連縄で飾られたお正月風景です。通りを歩く人物として、右より、お神楽の一行、素襖姿の三河万歳の太夫と才蔵の二人連れ(江戸百「霞かせき」参照)、編笠・三味線姿の鳥追いの二人(江戸百「日本橋通一丁目略図」参照)がそれぞれ描き加えられていて、お正月の門付けに忙しい情景を表現しています。ちなみに、三河万歳は、三河地方を根拠地として各地を回った正月の祝福芸ですが、三河出身の徳川家によって優遇され、江戸城や大名屋敷の座敷でも演じられたため、太夫は武士のように帯刀が許されていました。


 いずれにしろ、新年を寿ぐ様子に、縁起の良い富士を重ね合わせて、三井越後屋の商売繁盛を読み込んだ巧みな営業作品と理解されます。技法的には、典型的な一点透視遠近法を応用しており、その消失点に富士を置いて富士見図としての体裁を整えています。空舞う鳥は、空白の上部に奥行を与える工夫です。「一富士二鷹」の縁起担ぎならば、さらにおもしろいのですが…。


Hokusai31 三井越後屋に関しては、北斎『冨嶽三十六景』「江都駿河町三井見世略図」という作品があります。店の屋根と富士の三角形との相似を用いた構図です。三角形が富士を象徴することが判れば、瓦職人達が富士の頂上世界にいることを画趣としていることは容易に理解できます。決して身分の高くない人々も等しく富士世界に抱かれているというメッセージが本作品に秘められており、華やいだお正月の一場面(日常景)を切り取る広重とは大きく異なっています。

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1 東都一石ばし

 本作品1~14番目までを便宜的に第1部として、解説を加えていきます。制作に関し、『名所江戸百景』との重複・棲み分けが予期される部分です。


Fuji_1 「一石ばし」は、『江戸名所図会』(1-p65)によれば、「この橋の南北に、後藤氏両家(金座後藤庄三郎、呉服所後藤縫殿助)の宅あるゆゑに、その昔、五斗五斗という秀句にて、俗に一石橋と号けしとなり」とあります。また、この橋上から、日本橋・江戸橋・呉服橋・銭瓶橋・道三橋・常盤橋・鍛冶橋を望むことができ、一石橋を加えて八橋と言うともあります。


 本作品の制作経緯を考えてみると、まず、江戸百「八つ見のはし」が、安政地震によって崩れた一石橋ないしは道三橋の修復が完了したことを受けて、『江戸名所図会』の図版(1-p66、p67)を下敷きにし、広重『絵本江戸土産』第1編を経由して制作されたと推測されます。本作品は、明らかにその「八つ見のはし」をモデルとしていることが判ります。「八つ見のはし」の季節は初夏と推測されるのに対して、本作品では柳がさらに繁っていて、富士に雪もなく、盛夏と想定されます。さらに、絵師の視点を空中に上げて、御曲輪内江戸城、そして富士を俯瞰する構図に変わっています。ただし、日傘を差して橋を渡る様、船が進む様、日本橋川で漁をする様などは共通です。


 本作品の、富士の手前、おそらく大名小路と思われる所に小さく火の見櫓が描かれています。これは、広重生家の八代洲河岸の定火消屋敷のものと思われます。本作品が、最初の1枚として描かれた理由は、一石橋の俗称八つ見橋の八と末広がりの富士とを重ねて、縁起の良い富士見の名所からシリーズ制作を始めようとした動機が透けて見えてきます。くわえて、定火消同心であった広重の思い出の地を、それとなく忍ばせようとの思いがあったことも否定できないでしょう。広重が武家出身ではなく、町人出身ならば、一石橋ではなくて、日本橋から始めた可能性があるように思います。


 その日本橋に関しては、北斎『冨嶽三十六景』「江戸日本橋」があることを指摘しておきます。

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0 冨士三十六景 目録

Fuji_0 題名『名所(冨士)三十六景』と書かれた扇形の下に配置される2つの色紙形に、作品の目録が記されています。その左の色紙に「初代立斎廣重翁遺画」とあります。その遺画となった経緯について、一番下の懐紙形に(二代)三亭春馬が、次のように書いています。すなわち、安政5年の秋の初めに、「生前の思ひ出に」と『冨士三十六景』の版下絵を広重が版元蔦屋吉蔵(紅英堂)に持ち込んだのですが、同秋9月上旬のある日(9月6日)広重が亡くなってしまったとあります。つまり、本シリーズは、その遺志にしたがって版行されものであるというのです。そして、「今将思ひ合すれば過る日言れしことの葉は世の諺に謂る如く虫が知らしゝものなるべし」と述べています。


 この制作経緯については、やや脚色があるものの、版元が「追福のこゝろにて彫摺なんども上品に製し侍べる」というのは、版元の正直な気持ちを代弁するものと思われます。各作品の改印からは、版下絵の制作は、安政5年4月前、つまり、春頃と認められます。したがって、広重が秋の初めに「生前の思ひ出に」と言ったというのは、おそらく、これが広重の遺作であることによって商品価値を高めようとの宣伝文句として理解する必要があります。ただし、版下絵を制作した4月前から具体的作業が進んでいない状況において、秋になって早く版行を進めて欲しいと広重が催促した可能性は排除されません。その意味で結果として、『冨士三十六景』が広重の遺志を反映した作品になったと言ってもよいのかもしれません。


 目録では、「東都一石はし」から「東都目黒夕日が岡」まで東都の10作品が続き、その後11番目に、下総国に当たる「鴻の臺戸根川」が挿入されます。そして、12番目以後に武蔵国がまた5作品続きます。今日の感覚では、鴻の台が東都と武蔵国の間に入るのは不自然かもしれませんが、これは、江戸百やその下資料の一つ『江戸名所図会』などでは、鴻の台がかつて国府のあった地として江戸に含めて捉えられていた当時の地理感覚に基づくものなのです。当ブログでは、江戸時代の感覚を大切にして、目録順に作品を解説していく予定でいます。また、個々の作品解説で明らかになることですが、作品1~14番目までが第1部・江戸近郊(『名所江戸百景』と競合する)部分、作品15~27番目までが第2部・東海道沿線(『東海道五十三次』と競合する)部分、作品28~36番目までが第3部・木曽街道・甲州街道・房総からの富士見図部分と大別することができます。


 なお、『江戸名所図会』の解説・図版の引用や掲載に関しては、「ちくま学芸文庫」(全6巻別巻2)を使用し、その巻数とページを括弧書きにて表記しておきます。

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広重の冨士三十六景

はじめに


 浮世絵において富士を描いた作品と言えば、第一に、葛飾北斎の『冨嶽三十六景』を誰もが思い浮かべるでしょう。そして、他の浮世絵師、とくに歌川広重の作品と比較する際も、北斎作品を基軸にして参照することがやはり多くなります。しかしながら、視点を変えて、たとえば、広重の『冨士三十六景』を主軸として他の作品を参照する方法を採れば、また違った鑑賞・分析も可能なのではないかという思いに至り、今回のブログでは、敢えて、広重の『冨士三十六景』を分析の中心に置くこととしました。


 『冨士三十六景』は、富士見の名所を紹介する竪大判36枚のシリーズとして企画され、版元蔦屋吉蔵(紅英堂)から版行されました。これに、(二代)三亭春馬が目録1枚を加えて完成しますが、その目録の改印が安政6(1859)年6月になっているので、版行はその頃と考えられます。実は、広重の富士に関する揃い物には先行作があって、すでに、嘉永4(1851)年ないしは遅くとも嘉永5(1852)年頃までには、横中判の『不二三十六景』が版元佐野屋喜兵衛から版行されていました。北斎の死が嘉永2(1849)年4月18日と言われており、北斎に対する配慮があってか、それ以前には広重による富士に関する揃い物の発刊は見当たりません。


 ところで、『冨士三十六景』の各作品の改印は、安政5(1858)年4月となっています。つまり、シリーズ制作から版行まで1年以上の中断があったことになります。ちょうどこの頃、『名所江戸百景』(以下、江戸百と略します)が100あるいは110枚を越えてもなお継続する方針になったこと、安政5年9月6日に広重が突然死亡したこと、さらには、万延元(1860)年が富士出現の庚申縁年に当たるという販売事情などが絡んでのことと思われます。なお、広重には、『富士見百図』(安政4年改印、安政6年刊行)という未完の作品集があります。明らかに北斎の『冨嶽百景』を意識した作品で、今日的意味での風景画を旨としたスケッチ集と言うことができます。ただし、これについては別の機会に改めて触れることにしたいと考えています。


 上述したように、『冨士三十六景』は、構想制作の時期が広重晩年の大作シリーズ江戸百と重なっており、作品の制作態様につき、江戸百との棲み分けが明らかに考慮されているなど、従来見落とされてきた興味ある観点があります。したがって、この点にも、やや厚みを増した説明を加えていけたならばと思います。また、江戸百には、近景を極端にアップした「近像型構図」が多用されているのに対して、同時期の『冨士三十六景』ではほとんどそのような構成を見ることがありません。この点に関し、「近像型構図」は、江戸百の目録を作成した、能書家梅素亭玄魚(ばいそあんげんぎょ)の助言によるものという見解があります。もしそうならば、その分、『冨士三十六景』には広重オリジナルの思考が強く反映されていると評価することもできましょう。


 ちなみに、当ブログに掲載する『冨士三十六景』の浮世絵は、国立国会図書館に所蔵されるものであることを先にお断りします。北斎『冨嶽三十六景』に関しては、アダチ版画を便宜的資料として掲載しております。また、総説的解説として、町田市立国際版画美術館監修(謎解き浮世絵叢書)『歌川広重 冨士三十六景』(二玄社・2013)を挙げておきます(以下、謎解き『冨士三十六景』として引用します)。その他、赤坂治績『完全版 広重の富士』(集英社新書ヴィジュアル版・2011)。

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