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4 東都佃沖

Fuji_4 佃島は、『江戸名所図会』(1-p197)によれば、「鉄炮洲に傍ひたる孤島をいふ」とあって、徳川家康が上方に在する頃、摂州佃村の漁船を度々利用したことが機縁となり、開幕後、その島民を呼び寄せ、(白魚)漁の権利を与え、鉄炮洲の干潟を授けたことがその命名の由来と解説されています。本作品は、その佃島沖の干潟地帯から西方に富士を眺望する図です。『江戸名所図会』の図版「佃島住吉明神社」(1-p192、p193)では、富士らしき山はかなり小さく描かれています。江戸百「佃しま住吉の祭」は、『江戸名所図会』の画題に従ったのか、住吉祭に焦点が当てられています。ただし、その時点で、『冨士三十六景』の構想があったとすれば、意図的に富士眺望部分を避けたとも考えられます。なお、同「佃しま住吉の祭」は、画題の住吉祭が老中筆頭であった阿部正弘の死による鳴物停止の時期と重なっていて、忌日明けの神輿風景を敢えて描いている点に、阿部の死を読み取ることができる大変興味深い作品です。ところで、広重『絵本江戸土産』第2編に「佃白魚網夜景」と題する作品があります。上述の佃島の由来からすれば、白魚漁の情景を描くことの方が自然かもしれません。その白魚漁については、江戸百「永代橋佃しま」に採り上げられています。


 では、佃沖からの富士眺望は、広重にとって本作品が嚆矢なのかというと、実は、富士に関する先行シリーズである横中判『不二三十六景』に、「東都永代橋佃島」がすでにあります。この永代橋の場所から、さらに沖合に出て西方を眺めた構図が本作品です。広重が作品を描く視点において、かなり工夫をしていることが判ります。過去描いた定番の構図を避けた結果、本作品では築地一帯が富士の手前に描かれることとなります。しかしながら、そのために、安政地震の翌年の台風で崩落した築地門跡(西本願寺)の本堂大屋根を描かざるをえなくなりました。広重は、この問題に、江戸百「鉄炮洲築地門跡」でも直面していて、いずれも、大屋根を描くという結論を出しています。おそらく初めから描く覚悟であったと思われます。なぜならば、この時点の広重の名所絵が実景ではなくて、人々の心のなかにある日常景を写すことに眼目を置いていると考えられるからです。とくに、江戸湊に聳える築地門跡本堂は、江戸の浄土性を象徴する存在として人々の心に強く焼き付いているものです。これに、西方極楽浄土のシンボルとしての富士を重ね合わせることによって、大変、心和らぐ風景となります。


Hokusai11 佃島周辺に描かれる弁財船も江戸湊の繁栄を示すだけではなくて、その帆柱に結び付けられた綱が造る三角形が、富士あるいは末広がりの八を表現する技法と理解すべきでしょう。この点については、北斎『冨嶽三十六景』「武陽佃嶌」にその原型を見ることができます。さらに、本作品の中景左隅には、投網する漁師が描かれています。漁師の視点では、北斎『富嶽百景』「綱裏の不二」と同様の構図となるはずですが、広重は、北斎のように構図性に重点を置くことなく、日常の風景の一部に溶け込ませて表現する方向を選択しています(江戸百「利根川ばらばらまつ」参照)。近景の都鳥も日常性の効果を高める工夫です。

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