35 上総鹿楚(埜)(かのう)山
弘化元年3月と嘉永5年2月、広重は2度に亘って「鹿埜山」の参詣に出かけています。鹿野山は、木更津から海岸線を南に行った場所(君津市)にあって、安房国の清澄山、鋸山と並ぶ房総半島の名山です。山中北東の白鳥の峰には、日本武尊を祀る白鳥神社があり、富士山や筑波山を望む景勝の地です。本作品もその白鳥神社の参道から富士を展望するもので、広重の旅の経験が元になっての作品と考えられます。
『浮世絵師歌川列伝』(中公文庫)に引用される日記によれば、「(弘化元年三月)廿七日。天気。四ッ時頃より、鹿野山参詣。庄兵衛殿、勇吉殿、四人連れ、七ッ過頃鹿野山に着。…」「廿八日。天気。同所白鳥大明神祭礼にて参詣。商人群集す。…」とあります(p171)。また、「嘉永五子年閏二月二十五日。夜四ッ時、江戸橋出舟。…昼食食い、鹿野山に赴く。夕刻宿に着。」とも記されています(p173)。
本作品以前には、『不二三十六景』「上総鹿楚(埜)山鳥居崎」があって、参道の坂を上った鳥居を潜った所から、旅の女が馬上より三浦半島越しの富士を眺める様が描かれています。傍らに桜が咲いているのを勘案すると、広重の旅の時期と符合します。『冨士三十六景』の方は、坂道を上って左に折れた所にあった鳥居を潜る前の視点で作品を描いています。その分、杉の大木を作品中央部に配し、遠近を強調する構成に努めています。 富士と杉の大木との重なり、あるいは富士と鳥居との組み合わせは、北斎『冨嶽三十六景』「甲州三嶌越」あるいは「登戸浦」を彷彿とさせる構図ですが、両作品の思想的背景は全く異なっています。北斎は富士(講)信仰であり、広重は日常景への回帰を意図しています。ただし、北斎は構図重視故に実景から離れ、広重は日常景故に実景に近いという見解もありますが、意外にも北斎の方が実際の地理に正確であることもままあって、この点に関し両者の違いは相対的なものであると思われます。
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