« 24 駿河三保之松原 | トップページ | 26 駿遠大井川 »

25 東海堂左り不二

Fuji_25 海上を西に進んでいた広重の視点は、内陸の宿場町吉原に戻ってきました。『東海道名所図会』(巻の五)によれば、「吉原駅より五町ばかり東の方、中吉原という所より西一町ばかりの間を、土人、左富士という」とあります。江戸から京都に上る際、基本的に街道の右側に富士を見て行くことになりますが、街道が北上するこの辺りでは、しばらく左側に富士を見るのがその由来です。古より、富士の名所・歌枕の地として知られています。


 本作品は、保永堂版「吉原 左富士」の構図が基本となっていて、一層松並木に接近して富士を眺望する形式を採っています。中央の松の左に富士、右に愛鷹山という構成です。大きな違いは、保永堂版の方は、三方荒神と呼ばれる伊勢参りの旅姿が描かれているのに対して、本作品では、田植え仕事をする地元の人々の日常景に重ねて、立札と榜示杭の前に富士を眺める法体姿の人物が加えられているところです。おそらく、平安時代末から鎌倉時代初めに生きた、西行法師をイメージしているのだと思われます。晩年の文治2(1186)年、奥州への旅の途中、この地で振り返って眺めた左富士に感嘆したという伝説があるからです。「風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬ我が思ひかな」という和歌があります。なお、本作品では、街道が狭い印象であった保永堂版の欠点を修正しています。


 ところで、狂歌師天明老人は、広重の死絵の中で、「狂歌江都名所図会を選み、此図を頼みしより、其月/\にあらはす出板摺本の図取見る人、筆のはたらきを感吟せり」と述べ、広重の功績の1つに、『狂歌江都名所図会』を挙げています。これは、天明老人と梅素亭玄魚が編纂者となって、広重が狂歌に挿絵を付けたものです。この中で、広重は自身も狂歌をいくつか詠んでいて、その狂歌師名を「東海堂歌重」と名乗っています。したがって、その事実から、「東海堂左り不二」は「東海堂=広重の左り不二」という意味に推理できます。たとえば、嘉永4(1851)年、『武相名所旅絵日記』で広重がスケッチした折の、自分自身の姿を重ね合わせていると考えることができましょう。西に向かう広重が、西方極楽浄土を象徴する富士を眺める情景は、また、広重辞世の歌をも思い起こさせます。すなわち、「東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見む」というものです。

|

« 24 駿河三保之松原 | トップページ | 26 駿遠大井川 »

広重の冨士三十六景」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/197953/62300696

この記事へのトラックバック一覧です: 25 東海堂左り不二:

« 24 駿河三保之松原 | トップページ | 26 駿遠大井川 »