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信濃国善光寺略絵図 大峯堂 長谷屋久左衛門

Edo_zenkoji03 江戸期の善光寺略絵図として有名なのは、浮世絵師渓斎英泉の名が入った蔦屋伴五郎版ですが、ここに紹介する略絵図は、それとは別の作品です。制作時期については、山門の東側に「地震横死塚」が描かれているので、弘化4年(1847)年3月24日起こった善光寺地震以降であることは確かです。蔦屋版との先後については、参拝する人々の位置などかなり細かい点を見ると大峯堂版では人が1人だけ欠けていたりするので、蔦屋版が先行する作品なのかもしれません。ただし、そもそもいずれも本堂が実際とは異なって描かれているので、実見に基づくものではなく、同じ下資料から制作されたほぼ共通の作品と見ることができます。


Kashima 具体的には、蔦屋版には実在しない「塔地所」が本堂前東側に枠取りされているのに対して、大峯堂版ではそこに地震横死塚があり、また経蔵近くの「秋葉社」には「鹿嶋社」が併記されているなど、大峯堂版の方が精確な描写に心掛けているようです。さらに、大勧進と大本願との間にある「社家」(神官家)を、蔦屋版は北から「天王、アジャリ池、社家」と記し、大峯堂版は「天王、社家、アジャリ池」と実際と同じに並べているので、やはり、大峯堂版の方が蔦屋版の改訂版と推測されます。なお、大峯堂版が敢えて鹿島神社を加えたことには意味があって、鹿島の神が要石で地震(ナマズ)を抑える力があると江戸時代考えられていたことから、直前の善光寺地震の甚大な被害を慮ってことです。古事記の時代まで遡れば、仁王門を入った東側にある、諏訪の建御名方神(たけみなかたのかみ)を打ち破ったのが鹿島の武甕槌神(たけみかずちのかみ)です。善光寺境内に、両神が並び立っているのは、神仏混淆と八百万の神の世界だからでしょうか。


 本略絵図にも、本堂の北側に、建御名方富命彦神別神を祀る「年越ノ宮」が描かれています。善光寺境内から外れますが、年越の宮の北方1.3キロの地附山中腹に同宮の奥社である駒形獄駒弓神社(こまがたたけこまゆみじんじゃ)があります。もちろん、祭神は建御名方富命彦神別神です。善光寺の最古層の話になりますが、神社の名前からすると、年越の宮の前身である水内神社には、馬の飼育に優れる海人族や、駒=高麗(高句麗)とすれば、この地に牧を開いた朝鮮半島系渡来人との係わりがあったことが想像されます。この点で、信州の古墳に顕著で、朝鮮半島系の墓制かと問題提起された「積石塚古墳」との関連も非常に気になるところです。

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