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信濃国善光寺略絵図 蔦屋伴五郎 

Edo_zenkoji01 本絵図は江戸時代後期の善光寺を紹介するものです。制作時期は、弘化4(1847)年3月24日の善光寺地震による「横死人ノ塚」が描かれていること、絵図の制作者として嘉永(1848)元年7月22日に亡くなった浮世絵師渓斎英泉の名があることから、弘化4年から嘉永元年の間のことと推測されます。英泉は広重とともに『木曾街道六拾九次』の制作に参加しているので、信州に縁の深い絵師と言うことができます。なお、本堂前東側に「塔地所」とあることからすると、本絵図は、江戸期以前に存在した五重の塔やその他被災した善光寺各施設の再建資金(浄財)を集める目的に使用された可能性が考えられます。


Edo_zenkoji02 「別當大勧進」「大本願」の間に「社家」と記載される建物が描かれています。善光寺地震の後、大本願敷地内から当地に移転したとされる諏訪神社の神官家のことです(小林計一郎『善光寺研究』参照)。諏訪社」自体は、仁王門を潜って東側に鳥居と共に描かれています。善光寺境内において、諏訪神社とその社家が少なからぬ勢力を持っていたことが確認できます。なお、社家の北側にある「天王」は(牛頭)天王社のことで、現在では弥栄(やさか)神社と名前が変わっていますが、社家とともに祇園祭を中心となって執行しています。


 別當大勧進と大本願の敷地の北東部分にそれぞれ鳥居が描かれています。いずれも、寺の鎮守社という位置づけと考えられます。同じ視点で眺めれば、善光寺本堂の北側に描かれる「年越ノ宮」も善光寺全体の鎮守社と看做すことができます。この宮の正体は、その祭神名が「健御名方富命彦神別神」(たけみなかたとみのみことひこがみわけのかみ)とあることから、諏訪(健御名方命)の御子神と推測されます。ただし、善光寺境内に諏訪神社が別に存在するにもかかわらず、さらに御子神として祀られる神があるとすれば、この地の地主神の水内神(みのちのかみ)以外には考えられません。本絵図は、水内神社が、諏訪の御子神として諏訪神社の分社・末社とされつつも、善光寺の鎮守社として静かに存在していたことを示す貴重な資料です。


 本絵図には、水内神、諏訪神という神社の2要素と大本願、大勧進という寺の2要素の計4要素が一体となって「善光寺」を形成している姿が写し取られています。これは、諏訪神社が、上社(前宮、本宮)と下社(春宮、秋宮)の4要素によって構成されているのと類似する構造とも考えられ、両寺社の相関関係には一段と興味が惹かれるところです。たとえば、善光寺大本願が尼僧寺院である伝統は、諏訪下社の祭神八坂刀売命(健御名方命の妃)の役割とも何か関連があるように想像されます…。

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信濃国善光寺略絵図 七泉堂

Zenkoji_meiji2 明治初期の本絵図には、善光寺境内にあった諏訪社、熊野社、天王社、山王塚、諸神塚、秋葉社などの神社施設が描いてあるにもかかわらず、鳥居とあわせてその名前などが一切省かれています(赤丸印参照)。これは、明治初年の神仏分離令に基づいて、神道施設と仏教施設とを分離しようとした意図を受けているからです。歴史的経緯を見れば、善光寺の創建に諏訪神社あるいは水内神社などが下支えしたと考えられるのですが、現在の境内にはその影響を示す証拠をほとんど見ることができません。その意味で、本絵図はその過渡期の様子を示すものとして、かなり貴重な資料です。


 仁王門を潜った東側にある諏訪社は、かって本堂が存在した表(南)側に位置し、もしそこに御柱が建てられていたと仮定すると、旧本堂と釈迦堂の前に2本の柱があったことになります。これが、後に現本堂と釈迦堂の2本の回向柱に発展したと推理することもでき、諏訪神社の御柱と善光寺の回向柱との相関関係を想像させる、おもしろい資料ということができます。


Toshikosi_do 見落としがちですが、善光寺本堂の裏(北)側には年越堂が描かれています。「堂」とあり仏教施設のように見えますが、江戸時代までは「宮」として扱われていました。それが証拠には、取り壊された後、明治12年近隣の城山に(旧)県社となって再建されています。その祭神は、「健御名方富命彦神別神」(たけみなかたとみのみことひこがみわけのかみ)です。その祭神の名前からすると諏訪の御子神と看做されますが、ここに一つのからくりが隠されています。上の絵図からも判るように、同じ境内に諏訪神社があるにもかかわらず、さらに諏訪の御子神をも祀るのは、古くは当地に存在した水内神社を諏訪神社の末社と化して支配した実態を表すものではないでしょうか。


 水内神はかつては諏訪神と並ぶ程有力な地元神であって、日本書紀にも登場しています。善光寺本堂の北側一番奥にあった、この隠された神社こそ、実は水内神社の後裔と考えられるのです。飯山市や信州新町にも同じ健御名方富命彦神別神を祭神としている神社があり、これらは善光寺にあった水内神社の分社と考えられます。つまり、千曲川から犀川流域一帯が水内神社の支配地域であったことを示しているのです。なお、これによって、年越堂で行われる堂童子の秘儀は仏事ではなく神事であることも判ります。その目的は、廃絶された水内神が怨霊化することを封じることにあったのではないかと想像しています。

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