« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »

大回向柱と中回向柱

Zenkoji 御開帳の期間中、善光寺本堂の前には「大回向柱」が建っています。実は、回向柱はもう1柱あって、それは、世尊院釈迦堂の前に建っていて、「中回向柱」と呼ばれています。仁王門を潜り仲見世の中を歩いて行くと、右手に折れる道があり、そこに中回向柱と世尊院釈迦堂が見えてきます。大回向柱と同様、釈迦堂内の釈迦涅槃仏の右手とやはり善の綱によって結ばれています。大回向柱に触れると来世(阿弥陀仏)のご利益が、中回向柱に触れると現世(釈迦仏)のご利益が得られるそうです。両施設ともに参詣することをお薦めします。


 僭越ながら善光寺に参詣する立場から敢えてものを申すと、善光寺本堂と釈迦堂とが相隣接して建立されていれば、お参りも合わせて行うことができて便利なのにと思うことがあります。実は現在の本堂が再建される前、旧本堂は現在の釈迦堂の辺りに相並んであったと言われています。その意味では、ちゃんと庶民の信心に応えていたということです。防火対策もあって本堂は北の現在地に移動再建され、釈迦堂とは離れてしまいましたが、同時に回向柱が奉納される祭事において、かつては一体施設であった事実を今日に伝えているということができます。私は、旧本堂のあった土地への鎮魂と供養のために、釈迦堂前に中回向柱が建てられているのではないかと考えています。


 では、善光寺本堂と釈迦堂とが相並んで建立されていた時代、御開帳では、回向柱も2本並列して建っていたのでしょうか。これは、神社の鳥居を潜ってお寺にお参りするような形式で、なかなか想像できない風景です。たぶん、2本どころか、1本の回向柱も建てられていなかったように思います。なぜならば、当時、善光寺境内には北向きの諏訪神社もしくは熊野社と左右対になった諏訪社があって、直接、善光寺または本堂を守護していたと考えられ、故に諏訪の水神を呼び込む回向柱は必要なかったと推測されるからです。そのかわり、諏訪神社自身には御柱が建てられていたことでしょう。


 その後、善光寺本堂が北に数百メートル移動して再建される際、度重なる火災を反省して、松代藩の支援を受け、新旧の本堂前に直接回向柱を建てるより強力な火伏せの守護形式が発案されたのではないでしょうか。同時に神式から仏式に形態が整えられもしました。しかしながら、善光寺境内に(回向)柱が建つこと自体は、境内の中にあった諏訪神社の(御)柱を見慣れていた庶民からすれば、ほとんど抵抗感はなかったものと思われ、それが回向柱による守護方法変容の成功の一因でもあるでしょう。結果として、その後火災は発生しておりません。また、現在、善光寺境内には諏訪神社や諏訪社などの鎮守社もまったく存在しなくなってしまいました。


 世尊院釈迦堂前の中回向柱を見ながら、これも諏訪社の名残なのかもしれないと改めて考えていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

善光寺御開帳

Dscn1092 4月16日、娘と孫の惺大と一緒に御開帳で賑わう善光寺に参詣してきました。大回向柱に触れようと並んでいたところ、ちょうど、「お数珠頂戴」の機会に恵まれ、家族3人共に数珠を頭に頂戴させていただきました。梵字の書かれた回向柱の上部の角には切込が入っていて、巨大な卒塔婆(仏塔)であることが判ります。その柱には善の綱が結ばれ、本堂内陣の一光三尊の前立本尊・阿弥陀如来の右手と繋がり、触れた者には仏のご利益があるという有難いものです。


 江戸時代の善光寺再建以来、松代藩が回向柱を奉納する習わしで、木遣りを唄う様など、「諏訪御柱祭」を彷彿とさせるものがあります。諏訪の神様は、もともと水神と考えられていますから、諏訪信仰に篤い松前藩が奉納する回向柱が同時に御柱ならば、火災から善光寺を守るという観点からは勝れた守護方法かもしれません。巌や大木に神が宿るという信仰は、日本人にはごく自然な思考なので、それをうまく応用し、神への信仰と仏への信心をうまく融合させた行事と思われます。善光寺と諏訪大社への参拝を同時に体験できる(?)、極めて貴重な行事が7年目ごとの御開帳ですので、この時期ぜひ善光寺に足を運ぶことをお薦めします。


Dscn1097 善光寺本堂内瑠璃壇には、諏訪神社にゆかりの深い「守屋柱」が建っています。ここからも、善光寺創建・再建当時の諏訪神社の大きな力というものを感じます。神仏習合世界の一つの例として大変興味があります。ところで、『日本書紀』には、持統天皇5年8月23日「使者を遣わして、竜田風神、信濃の須波水内等の神を祭らしむ」とあって、善光寺のある水内(みのち)には須波=諏訪とは別の有力な水内の神がいたことが記されています。この水内の神は、善光寺の創建・再建時にはまったくその名が出てきません。ここからは、上水内郡飯綱町に住んでいる私の想像ですが、たぶん水内の地元神は、善光寺・諏訪の仏と神の連合軍に放逐・上書きされてしまったのではないでしょうか。たとえば、今は諏訪神社分社となっているところが古い時代の水内神社の残照なのかもしれません。前から気になっていたことですが、全国的にも有名な地元の戸隠神社や飯縄神社と善光寺があまり深い関連性を持っていないのも、このような地元神の放逐・上書き関係が遠因としてあるように感じられます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »