『木曾街道六拾九次』と英泉、広重の主導権争い
東海道五十三次を念頭に置いた場合、宿場の数53、日本橋と三条大橋を加えた数55が重要な数字であることは説明を要しないでしょう。そして、その53の符帳は35になりますが、たとえば品川から35番目は日本橋から36番目ということで、おそらく起点1を加えた36も大事な数字だと思われます。この符帳35を中心とする絵番号の観点で『木曾街道六拾九次』(以下、木曽街道と略します)を調べてみると、前回までのブログからおもしろい結果が得られました。すなわち、起点1も含めて、絵番号35、36、53、55の全てが英泉の作品であったことです。東海道五十三次の街道ブームを作った広重自身が、それを象徴する絵番号に一切触れることができなかったのです。
では、別の観点からさらに木曽街道シリーズの絵番号を分析してみましょう。もとより、木曽街道シリーズは保永堂が英泉を頼みとして制作に取り掛かった経緯がありますから、絵番号1から10までの作品が、この両者のコンビであることは納得のいくところです。次の10枚については、最初の絵番号11「本庄宿 神流川渡場」、最後の絵番号20「沓掛ノ驛 平塚原雨中之景」ともに英泉の作品です。英泉の主導権が見えています。
絵番号21は「追分宿 浅間山眺望」、絵番号31は「塩尻峠 諏訪ノ湖水眺望」、絵番号41は「野尻 伊那川橋遠景」となっていて、10枚1セットの浮世絵販売を前提にした場合、その最初の1枚目は、絵番号1と絵番号11も含めて、全て英泉の作品です。そして、初めにも言ったとおり、絵番号1は「日本橋 雪の曙」、絵番号55は「河渡 長柄川鵜飼舩」の英泉作品ということは、木曽街道を東海道になぞらえた場合、その初めと終わりを英泉が取ってしまったのですから、英泉の主導権は決定的です。このような結果に至ったのは、東海道シリーズの版元保永堂と絵師広重の関係が良好ではなく、その事態が木曽街道シリーズの制作にまで影響を与えたことは想像に難くありません。
一方、絵番号56からシリーズ最後の絵番号70までは、基本的には、版元錦樹堂と絵師広重のコンビ作品です。つまり、木曽街道シリーズは、東海道シリーズになぞらえられた55枚に、オリジナル部分15枚を加えた体系として構想されていたということが浮かび上がってきます。東海道と言えば広重のはずなのに、絵番号55までの間で主導権を取れなかった広重の忸怩たる思いには同情せざるをえません。
これではあまりに広重がかわいそうなので、広重を慰める事実はないかともう一度調べ直してみました。そうすると、上野国の最初は「新町」で広重、最後は「坂本驛」で英泉、信濃国の最初は「軽井沢」で広重、最後は「馬籠驛」で英泉、美濃国の最初は「落合」で広重、近江の最初は「柏原」で広重となっていて、やや広重に気を使っています。これで広重が納得したかどうかは判りませんが。 木曽街道シリーズ最後の作品を紹介しておきます。絵番号70「木曽海道六拾九次之内 大津」です。琵琶湖を望んで旅籠が左右に並ぶ遠近法を応用した情景の中に、多くの文字が入れられています。右側の旅籠の壁に「全」とあるのは、これでシリーズが全てが完結したという意味でしょう。またその屋根の2番目と3番目の飾りには、「ヒとロ」の意匠と「重」の文字があって、広重自身をアピールしています。1番前の飾りの「金」など各所に見える丸金の文字は、入金を願ってのことでしょうか。左側の旅籠の1階と2階には、「大當 いせ利」、「山に林」の商標、「新板」、「大吉」など版元錦樹堂の宣伝と作品の大当たりの願いが読み解けます。符帳35を中心にシリーズの制作過程をほんの一部垣間見ただけですが、本作品からは、広重が木曽街道シリーズに込た思いの丈が十二分に伝わってくるのではないでしょうか。また、広重の忍耐強さと誠実な性格もあわせてに感じられます。
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