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「江尻」 歌川広重 伊勢屋市兵衛

19_new 「三保の浦羽衣松の由来

江尻の東 清水の湊より海濱を廻りて壹里余 三保の洲崎へ至る駿海(しゆんかい)一の名所にして風色世に知る所なり。羽衣松は同所にあり。里言にいふ むかし天人降りて松に羽衣をぬき置しを 漁師(れふし)ひろひ取て返さず。天女かりに漁師が妻となり 辛労(くらう)して羽衣を取りかへし 天に帰りしと言傅ふ。羽衣の松 今猶存せり。」


 『東海道名所図会 巻之四』に「羽衣松」の項はありますが、詞書きと同じ文章は見つかりません。おそらく、羽衣伝説は誰もが知っている話なので、参照する必要がなかったと考えられます。なお、同図会は、天子行幸の時、神宝を乗せる羽車を羽衣と言い誤り、これに大巳貴命(おおなむちのみこと)、すなわち、大国主命(おおくにぬしのみこと)が天の羽車に乗って妻を求めた話が付会して生まれたのが、羽衣伝説だという夢のない(?)解説をしています。

 平安中期の都良香『富士山記』に「仰ぎて山の峯を観るに、白衣の美女二人有り、山の顛の上に双び舞ふ」と報じられて、富士山頂に天女の舞う姿は古くから想起されていました。そして、鎌倉後期の『海道記』には、この天女と『竹取物語』のかぐや姫の話を並記して「彼モ仙女ナリ、コレモマタ仙女ナリ」と同類視していることを勘案すると、羽衣伝説は富士(浅間)信仰から生まれた天女降臨譚ではないかと思われます。(したがって、美保の松原が富士山の文化遺産登録の重要な構成要素となるのは当然です。)

 広重の絵は、漁師の妻となった天女が羽衣を取り戻し、天に帰る姿を描いています。そして、下部の絵の枠から天女の頭がはみ出るという、広重得意の構図です。広重が、時々、絵の枠を越えた富士を描くことがありますが、これも天の世界に通じた富士というものを暗示する表現と見ることができます。背後の海と富士の風景は、『東海道名所図会』「久能寺」の図版の一部を切り取ったものです。

*保永堂版東海道「江尻」の「三保遠望」は、『東海道名所図会』の三保の松原を描いた図版を写したものと考えられます。ちなみに、同図版には、「寛政丙(ひのえ)辰秋八月在 久能山上望三保崎」とあり、徳川家康が最初に葬られた久能山からのものであることが判ります。広重がこの事実を意識していたとするならば、静謐感漂う作品になっている理由はそこにあるのかもしれません。

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