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「平塚」 歌川広重 伊勢屋市兵衛

(稲毛三郎重成)

08_new「馬入川ハ平塚宿の手前にあり 昔ハ相模川と唱ふ。甲州猿橋より流れて大河也と相傳ふ。建久九年十二月 稲毛三郎相模川に橋供養をいとなむ。右大将頼朝公も行向ひ給ふ。此時 水上に悪霊出てくろくも舞下り 雷電霹靂(らいでんへきれき)す。頼朝公の乗馬(じょうめ)驚て水中に飛入りて忽ち死す。故に馬入川と号るよし 俗説に言傳ふ。」


 詞書きは、『東海道名所図会 巻之五』「相模 平塚」の「馬入川」に記されている文章の抄訳で、実は、同図会は、頼朝逝去のいきさつを紹介する話が主になっています。馬入川の命名については付随的なことだったので、上記詞書きには、「俗説に言傳ふ」という言葉が入っています。主たる話では、稲毛三郎が亡妻の追善のために相模川に橋供養をした際、亡妻が頼朝の妻・政子の妹(北條時政の娘)という因縁から、頼朝も参列したのですが、その帰途、頼朝は、義経・行家の怨霊を見て、そして安徳天皇の御霊(ごりょう)が現形するに及んで、身心昏倒して落馬し、翌正治元年正月十三日に逝去した話が展開されています。

 広重は、詞書きにしたがって、馬入川の雷電と不気味に波立つ川面を描いています。菅原道真が怨霊となって雷神と化した話を思い起こせば、ここでの隠された主題は、頼朝を襲う怨霊とその後の頼朝の死であると思われます。稲毛三郎重成を正面に出しているのは、言うまでもなく、頼朝=将軍の死を描く愚を避けるためです。

 ちなみに、『東海道五十三對』「平塚」の稲毛三郎重成の袴に描かれる紋は、保永堂版東海道「關 本陣早立」の幔幕の意匠と同じです。これは、広重の父が養家に入る前の実家(祖父)の「田中家」の家紋です。「關」では、特定の武家の家紋ではないことを明らかにして、幕府からの誤解を避けたいという目的が主たる動機と考えられます。同様に、『東海道五十三對』「平塚」での同家紋の使用は、作品の版行が天保の改革間もない時期であることを考えると、特定の人物や事跡を暗示するものではないことの証拠作りと思われます。たとえば、頼朝の死を想起させる題材は、場合によっては、徳川将軍の死を画題にしたと誤解される可能性がありますが、実家の田中家の紋ならば、言い訳が簡単だからです。国芳の『源頼政公館土蜘蛛作妖怪圖』では、「勘解判官卜部季武」の「澤潟」(おもだか)の紋が、時の老中水野忠邦を指すとして問題となりました。版元は、自発的に版木を処分して、難を逃れていますが…。

*保永堂版東海道「平塚 縄手道」は、大磯へと蛇行しながら続く田圃道を行き交う旅人が描かれ、その背後にある奇妙な形の高麗山とその右側の大山との間から富士がその姿を覗かせています。この高麗山には、晩年虎御前が庵を構えたという話があります。とするならば、ここから見える富士は、曾我兄弟の仇討ちが行われた富士(の裾野)を暗示しているのかもしれません。一方、『東海道名所図会』は「雨降山大山寺」の項に多くの文字を割いているので、同図会を意識する広重は、角張った大山と丸い高麗山の対比をただ楽しもうとしているだけなのかもしれません。

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