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「川崎」 歌川国芳 小嶋屋重兵衛

(新田左兵衛佐義興 大嶋周防守 井弾正)

03_new「新田義興は 竹澤右京亮江戸遠江守が姦計に欺れて矢口の渡にて亡され 其霊魂とヽまりて江戸が帰るさニ 霊魂雷に成て雲中より現れ 敵を取殺す。後 霊魂を慰めんが為ニ 新田大明神と崇祭る。其霊験 今に於て倍新也。」


 上の詞書きは、すでに述べた『東海道五十三對』「保土ヶ谷」と同じく、『東海道名所図会 巻之六』の「矢口のわたし」の図版に記される詞書きと「新田明神祠」の文章からの引用です。しかし、「川崎」の六郷川(多摩川)にあった矢口の渡しでの稗史、新田義興等の霊を慰める新田神社の縁起などは、おそらく、これも「保土ヶ谷」で紹介した『神霊矢口渡』を通して広く庶民に知られていたと思われます。

 国芳の絵は、延文3(1358)年に、竹沢右京亮および江戸遠江守の奸計によって多摩川の矢口の渡しを過ぎる際に船を沈められ、両岸から伏兵の攻撃を受けて、無念の最後を迎えた新田左兵衛佐義興等を描いていて、上記詞書きの前段部分に当たります。『東海道名所図会』自体は、その図版で祟をなす後段部分を絵にしています。なお、『東海道五十三對』「保土ヶ谷」は、『神霊矢口渡』の二段目切「新田館の段」に基づいて描かれています。同じ題材を二つの宿場で扱っているのは、それだけ人気のあった話題であったということでしょう。

 『東海道五十三對』および『東海道名所図会』は、「平塚」では「馬入川」の来歴に関し、雷鳴落雷を源行家・義経、安徳天皇の怨霊が頼朝を襲ったという理解を示していました。また、「保土ヶ谷」「川崎」の六郷川(多摩川)の矢口の渡しには、新田義貞の子義興の怨霊が落雷となって江戸遠江守の命を奪った話があり、それが『神霊矢口渡』の一つの主題であり、同時に新田神社の縁起紹介ともなっていました。これらは、いずれも、怨霊信仰の事例です。同図会の上記図版の詞書きが、祟りの雷神と化した菅原道真を引用しているのですから、間違いないことです。そして、これを鎮めるには、社に神としてとして「崇め奉る」のが代表的方法です。

 さて、穿った別の見方を付け加えれば、頼朝の死は江戸幕府将軍の死を暗示する題材に使用できますし、江戸遠江守の死は、江戸=江戸幕府将軍の死を暗示する道具仕立てにできると思われます。さすがに、『東海道五十三對』には表向きそこまでの意図はないと思われますが、上方の編者秋里籬島の『東海道名所図会』の題材収集には、いま述べた他意があるように感じられるのですが、いかがでしょうか。

*保永堂版東海道「川崎」は副題「六郷渡舟」とあり、六郷川(多摩川)の渡し船の景です。当時の六郷川渡口は、「矢口渡口」とは別の所に設けられています。『東海道名所図会』の「武州 川崎」は、第一に「大師河原平間寺」に触れ、次ぎに「玉川」、そして「矢口渡口」「新田明神祠」と続きます。広重は、六郷渡しが厳密には矢口の渡しとは異なるという事情から、御大師参りの人々を乗せた船の渡河風景を描いたものと思われます。『東海道五十三對』は、来歴の紹介を中心に据えて、「矢口渡口」「新田明神祠」に比重を置いています。

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