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「大磯」 歌川国芳 海老屋林之助

(曾我十郎 虎御前)

09_new「曾我十郎祐成ハ 弟の五郎と共に父の仇(あだ)なる工藤祐経を討んと心を砕きて附覘(つけねら)ふといへども 其便を得ず。或時 不圖(ふと)大礒の遊君虎御前になれそめ深き中とぞ成にける。虎ハ祐成が本望達せし後 十九歳にて尼と也。諸国を巡り後 紀州熊野に趣(おもむ)く路にておはる。時に寛元二年正月なり。年七十一歳という。」

 『東海道名所図会』の「相州 大礒」には、詞書きと同一の文章は見当たりません。しかし、「虎小石」(とらこいし)の項のもとで、曾我十郎と虎御前の誓いを主題とする「羅山子」(林羅山)の漢詩が掲載されています。同図会が朱子学者・林羅山を引用していることからは、武士にとっての仇討ちが幕府朱子学の第一の道徳原理の忠義と結びついていること、そして、そのことが広く庶民にまで浸透していたことがよく判ります。幕末になると、この忠義の対象が、幕府(将軍)から天皇に推移し、明治維新の行動原理にもなって行きます。とすれば、幕府は、庶民に人気のあった仇討ち話の流布を禁じておけばよかったのかもしれません。

 ところで、保永堂版東海道「大礒」は副題「虎ヶ雨」として、曾我兄弟の仇討ちが成就した旧暦5月28日に降る雨模様を描いています。言うまでもなく、仇討ち成就後命を失った曾我十郎の恋人、大磯の遊女「虎御前」が流す涙雨の意味です。国芳の『東海道五十三對』「大磯」が、人物の風俗は今様ですが、曾我十郎と虎御前の出逢いを描くのも同様の趣向と考えられます。

*保永堂版東海道「大礒」については、上に述べた通りです。ちなみに、広重の晩年の大作『名所江戸百景』「駒形堂吾妻橋」(安政4年正月)において、天空にほととぎすが飛び、夕立が降る風景描写があります。この雨も、陸奥仙台藩伊達綱宗の意に従わず、三又(隅田川河口)の船中でつるし斬りされたという伝説がある、三浦屋の高雄太夫が流す涙雨と考えれば、保永堂版東海道「大礒」にその原点があったことが判ります。

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