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「御油」 歌川国芳 伊場屋久兵衛

(山本勘助 勘助母 武田晴信)

36_new「山本勘助草盧

宝飯(ほい)郡小坂井の東牛久保村ニ有り。初此郷に住で 躬(ミづから)隴畝(ろうほ)に耕し。ある時ハ 別國に漂流して 専ら軍學を鍛ふ。又天文地理を暁(さと)し 韜畧(とうりゃく)を諳(そらん)じ 胸中に八陣を蓄え 此牛久保村を蟄す。其頃 甲州の太守武田大膳大夫春信 駕を枉(まげ)てこれを顧る事三度に及び 人を屏して籌(はかりごと)を精好する事日々に密なり。日數僅に十五日の間に信州に於て九城を陥す。是皆軍師の計策に據也。或人(ミなひと)云 和朝の臥龍 明の劉基にも比せんや。其頃名高き竹中 穴山 佐奈田など 此山本勘助が門子とぞ聞えし。」


 本作品の詞書きは、『東海道名所図会 巻之三』にある「山本勘助故居」の文章からの引用です。なお、言葉の説明をしておくと、「隴畝」は畑、「韜畧」は六韜と三畧のこと(六韜は太公望の兵書、三畧は黄石公が張良に伝えたといわれる兵書)、「八陣」は八種類の陣構え、「臥龍」は賢人が志を得ないで民間に隠れていること、そして「劉基」は字は伯温、『時務十八策』を陳じ、明の太祖を補佐し、諸大典を定めた軍師です。

 「甲州の太守武田大膳大夫春信 駕を枉(まげ)てこれを顧る事三度に及び」という部分は、蜀漢の劉備(玄徳)が諸葛亮(孔明)を迎える際、庵を三度訪ねたとする、三国志の「三顧の礼(草盧三顧)」の故事に由来しています。このことからも、勘助の活躍が本朝版の『三国志』に擬られていることが判ります。

 「竹中」は、後の豊臣秀吉に仕えた軍略家、竹中重治(半兵衛)、「穴山」は、武田信玄の甥の知将、穴山梅雪(信君)、「佐奈田」は、大阪の陣で活躍した豊臣方の軍師、真田幸村(信繁)のことと思われます。とくに竹中重治(半兵衛)には、『太閤記』において、三顧の礼をもって、織田方(木下藤吉郎)に迎え入れられたという、勘助と同様の伝説が語られています。

 下部の絵の方は、山本勘助の草盧に武田晴信(信玄)が訪れる場面で、やはり『東海道名所図会 巻之三』の「三州牛久保 山本勘助故居」の「雪の門」を叩く図版を参考にしています。また、その雪竹を背景にして、砧打ちをする勘助の母が描かれているのは、中国『二十四孝』の「孟宗」の故事を土台とする『本朝二十四孝』の「筍掘り」のシーンに見立てようとの工夫です(『カブキ101物語』178頁参照)。草盧の中の渾天儀(天球儀)や矢は、軍師を飾る道具で、国芳の三国志や水滸伝シリーズから踏襲した表現でしょう。

*保永堂版東海道「御油」は「旅人留女」の副題のとおり、弥次・喜多風の旅人に絡む留女がテーマです。この主題選択は、『東海道名所図会』ではなくて、十返舎一九『東海道中膝栗毛』からエピソードを引用したものです。

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