五十三 鵜沼 与右ヱ門 女房累
版元:上総屋岩吉 年代:嘉永5(1852)年7月 「与右ヱ門 女房累」とくれば、怨霊物の代表格の一つです。作品四十八「大久手 一ッ家老婆」が観音霊験譚であったと同様、累の話は、高僧祐天上人の祈念によって怨霊が解脱した浄土宗(祐天寺)の霊験譚に基づいています。文化4(1807)年の曲亭馬琴読本『新累解脱物語』、文政6(1823)年の森田座夏狂言『法懸松成田利剣』(けさかけまつなりたのりけん)の浄瑠璃所作事『色彩間苅豆』(いろもようちょっとかりまめ)などに展開します。登場人物は、遺書を残して出奔した浪人の与右衛門とその子を身ごもった累(かさね)です。川辺に髑髏が流れてきてから怪談風となります。この髑髏は、与右衛門がかつて累の母菊と密通したときに殺した、累の父助のものでした。この助の霊が乗り移ったことにより、累の顔は醜く変わり、片足も不自由になって与右衛門に襲い掛かります。親の因果によって醜く変じた累は、土橋の柳の立木にて与右衛門に鎌で滅多斬りされます。所作事において、累の襦袢には血汐に見立てた赤い紅葉の模様が施されています。したがって、国芳作品も、まさにこの所作事を絵としたことが判ります。
遠くの橋の上に見えるのは祐天上人でしょうか。先の所作事では事件は木下川(きねがわ)堤で起こりましたが、下総国飯沼の弘経寺(ぐぎょうじ)にいた祐天上人がその累の怨霊を成仏させたということから、「飯沼」→「鵜沼」に当てられているのではないでしょうか。標題は、与右衛門の草刈り鎌など累殺しの場を飾る道具です。
なお、『色彩間苅豆』の曲(清元)の最後に「つかみかかれば与右衛門も鎌取り直して土橋の上、襟髪つかんでひとえぐり、情容赦も夏の露消ゆる姿の八重撫子、これや累の名なるべし、後に伝へし物語、恐ろしかりける」とあって、ここからコマ絵の意匠は撫子と解されます。英泉・広重版木曽街道の「鵜沼」は「従犬山遠望」となっています。国芳のコマ絵は、『木曽路名所図会 巻之二』にある図版「岩窟(いわや)観音」に間違いなさそうです。コマ絵に描かれていない木曽川は、前作品五十二と同様、全体図の川(沼)が代替しています。
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