五十一 伏見 常磐御前
版元:林屋庄五郎 年代:嘉永6(1852)年2月 「常磐御前」は、平安時代末期の女性で、源義朝の側室。そして、今若、乙若、牛若(源義経)の母です。平治の乱で義朝が謀反人となって逃亡中に殺害された後、子供達を連れて雪中を逃亡し大和国にたどり着きます。『平治物語』によれば、その後、都に残った母が捕らえられたことを知り、主であった九条院の御前に赴いてから清盛の元に出頭します。『義経記』においては、清盛の意に従ったがゆえに子供たちがそれなりに身が立つようになったと記されています。常磐の逃避行の話は、室町期の幸若舞の『伏見常磐』『常磐問答』『山中常磐』などによって発展し、さらに、浄瑠璃、歌舞伎(『カブキ101物語』74頁参照)にも採り入れられ、常磐の「強い母」という面が強調される展開となります。
本作品も、宿場名の「伏見」に掛けて、『伏見常磐』から題材を選び、雪の夜、京都伏見木幡を裸足姿でさまよう常磐とその子らを画題としています。国芳も含め多くの浮世絵師が、度々描いてきている古典的表現です。三代豊国『役者木曽街道』も、『伏見常磐』を題材としていました。標題は、雪宿りの松で囲まれています。もちろん、神の依代や影向とされる常緑の常磐の松でもあります。
コマ絵の鳥は、平木浮世絵美術館資料も指摘するとおり、文政11(1828)年11月江戸市村座初演の常磐津『恩愛瞔関守』(おんないひとめのせきもり)の歌詞に、雪にさまよう常磐を「巣を離れたる黄鳥の吹雪に迷う風情なり」とあることから、鶯に因んでいると考えられます。描かれている風景は、英泉・広重版木曽街道の「伏見」では「伏見の大杉」が描かれていることを勘案すると、同じくその杉を描いているのでしょう。
作品五十と五十一とは、ともに平家再興、源氏再興の対となった作品として共通の下地があることを再確認しておきます。
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