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六十九 草津 冠者義髙

版元:湊屋小兵衛 年代:嘉永6(1853)年1月


Kn69  「冠者義髙」と言えば、清水の冠者義髙という人物がいます。木曽義仲の嫡男で、義仲と源頼朝との対立後、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下り、人質になった人物です。

 ところが、国芳が画題としているのは、嘉永6(1853)年正月中村座初演の歌舞伎『襷廓三升伊達染』(こぞってみますくるわのだてぞめ)の「馬斬り」の場面だと判ります。三代豊国にもほぼ同じ場面を描く二枚続の役者絵があります。これらは、『太閤記』を世界とする狂言を題材にしたもので、懐手の侍は、小田春永(織田信長)の子・三七郎義孝(織田信孝)で、義孝は真柴久吉(羽柴秀吉)が高野山に納める祠堂金三千両を積んだ馬を堺の大和橋で襲い、馬士を切り捨て金を奪います。そこに捕手が駆けつけるのですが、義孝との名を聞いて一同平伏し、義孝は悠々馬を引いて立ち去るという結末です。「冠者義髙」とは、三七郎義孝(信孝)と考えるべきです。なお、作品番号六十七は、六十九の誤りです。

 三七郎義孝(頼孝とも呼ばれます)は八代目市川団十郎、馬士の八蔵は中村鶴蔵の役者絵で、このシリーズでは唯一でしょうか、はっきりと役者の似顔絵となっています。国芳の当該木曽街道シリーズが役者絵を基本に据えているという、当講座の見解を証明するものだと思われます。背後の蔵には、「大當」の文字の他に、版元湊屋、絵師国芳の意匠が入っています。また、標題は、草鞋などの馬士(馬子)支度で囲まれています。

 さて、宿場名「草津」がどうして「冠者義髙」と繋がるのでしょうか。当該シリーズの「目録」を見ると「草津 馬士の八蔵」と記され、国芳は、「冠者義髙」に斬られる「馬士の八蔵」の方に注意を促しています。とすると、「草津(追分)」→「馬子の追分節」→「馬士(馬子)の八蔵」という迂遠な繋がりが答えとなるのでしょう。ちなみに、追分節は木曽街道の「追分」がその発祥です。

Kom69  コマ絵の形は、既述した「馬斬り」の場面に掛けて、馬士の草鞋です。英泉・広重版木曽街道の「草津追分」は、天井川である草津川を北側から追分の常夜灯方向を望む情景を描いています。これに対して、国芳のコマ絵は石垣が二つ見えています。おそらく、草津の宿場の入り口にあった見附のイメージではないかと思われます。名所旧跡は多いにもかかわらず、「守山」「草津」と急に風景が曖昧になってきたように感じられます。

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