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五十七 赤坂 光明皇后

版元:伊勢屋兼吉 年代:嘉永5(1852)年7月


Kn57  光明皇后は、奈良時代、聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘で、名は安宿媛(あすかべひめ)。光明子、藤三娘(とうさんじょう)とも呼ばれます。天平元(729)年、皇族以外から初めて皇后となり、以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となりました。作品四十五の久米仙人の逸話が同じ時代です。光明皇后は仏教に篤く帰依し、作品五十と係わってきますが、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられています。また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行いました。夫の死後遺品などを東大寺に寄進し、その宝物を収めるために正倉院が創設された外、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わっています。仏教擁護の姿勢は、実は藤原四兄弟等の死を招いた長屋王の怨霊を鎮め、皇位後継の男子を得るためであったとも言われています(井沢元彦『逆説の日本史』二巻413頁以下参照)。

 作品は、施薬院で千人の垢を洗うことを誓願し、その丁度千人目、重症の癩病(ハンセン病)患者の膿を自ら吸ったところ、その病人が阿閦如来(あしゅくにょらい)であったという光明皇后の伝説を画題としています。「垢をする」に掛けて、「赤坂」と関連付けたと考えられます。患者の背中から光が発し、如来であることを示しています。先の「美江寺」の美人が今様であったのに対して、こちらは往時の美人に描かれています。

 なお、阿閦如来は、大日如来が説法をするのを聞き、仏道を求める誓願をし、永遠の修行の後、仏になった金剛界曼陀羅の五仏のうち、東方の如来に当たります。東大寺の大仏が毘盧遮那仏(ビルシャナブツ)、つまり大日如来であるので、聖武天皇を大日如来に、光明皇后を阿閦如来に擬らえられたとも考えられる伝説です。標題は、薬玉と宝冠で、光明皇后を指し示しています。

Kom57  コマ絵は、仏教に帰依した光明皇后に因んで、蓮弁の形です。英泉・広重版木曽街道の「赤坂」は、宿場の東を流れる杭瀬川に架かる土橋から宿場を眺める景色です。一方、コマ絵は田園風景の中を竿を担いだ農民と旅人が歩み、桜の花も咲いています。土橋を渡る前の条里が残る地点か、あるいは宿場を越えて兜(甲)塚辺りからの風景でしょうか。『木曽路名所図会』巻之二の図版「赤坂」の遠景がそれに似ています。観光スポットを考えるならば、やはり同「赤坂」に描かれる観音霊場の谷汲街道辺りからの風光という視点もありえます。もしそうならば、全体図、コマ絵とも仏教繋がりとなるのですが…。

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