五十四 加納 坊太郎 乳母
版元:八幡屋作次郎 年代:嘉永5(1852)年7月 彫師:(須川)千之助 田宮「坊太郎」は、寛永18(1641)年、四国の丸亀で親の敵を討ったといわれる少年です。ただし、江戸時代の敵討ち物戯曲の主人公として活躍する伝説上の人物と考えられています。人形浄瑠璃や歌舞伎、講談などで広まり、『金毘羅利生記物』として名高い話です。天明8(1788)年、司馬芝叟ほか作の『花上野誉石碑』(はなのうえのほまれのいしぶみ)において、それまで二人だった子供が一人になり、名前も坊太郎になりました。その四段目、坊太郎の乳母お辻が、身命を捧げて、金毘羅権現に坊太郎の仇討ち成就を祈願する「志度寺」(しどうじ、しどでら)が有名です。蓮の花びらが風に舞う中、少年「坊太郎」と水垢離姿の「乳母」お辻を描く国芳作品も、やはりこの場面を念頭に描いているようです。
坊太郎、乳母お辻と宿場名「加納」との関係ですが、金毘羅権現の御利益で坊太郎の仇討ちが成就したことを捕らえて、仇討ち「叶う」→「加納」と考えます。江戸時代、伊勢参りのオプションとして金毘羅参りは盛んでしたし、広重の保永堂版東海道「沼津」に描かれているように、代参も広く行われていました。標題の周りは、金毘羅権現の眷属である天狗を意識して、雲(風)と天狗の羽団扇でしょうか。
コマ絵の意匠は、やはり、天狗の羽団扇です。英泉・広重版木曽街道の「加納」は、加納城を遠景に江戸に向かう大名行列姿を東海道を進むがごとくに描いています。国芳のコマ絵は、手前の茶屋に目を向けると英泉・広重版と同じ街道筋の加納宿に近い辺りを描いたことになります。
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