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五十 御嶽 悪七兵衛景清

版元:住吉屋政五郎 年代:嘉永5(1852)年6月 彫師:須川千之助


Kn50  作品「十八 坂本 五条坂」では、歌舞伎の所作事(舞踊)として『五条坂の景清』を紹介しましたが、 ここでは平家方の侍大将(武将)としての景清が画題となります。「景清」は、平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため、俗に平姓で呼ばれていますが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)です。上総介忠清の七男であり、戦において勇猛果敢だったので、通称として「悪七兵衛景清」の異名で呼ばれました。能・謡曲、幸若舞、浄瑠璃、歌舞伎など多くの作品の題材となっていて、『景清物』と呼ばれる一群を形成しています。国芳の本作品の画題は、謡曲などの『大仏供養』と言われるものです。

 すなわち、源頼朝の命を狙って、僧兵姿で東大寺の大仏供養の場に紛れ込んだ景清でしたが、見つかってします。そこで、大仏の肩に飛び乗り難を避け、下方の追っ手を見やります。国芳作品は、この古典的絵画構成を浮世絵に導入したものです。平重衡の南都焼討の際に延焼した大仏殿を、頼朝が再建するという事跡が背景にあります。景清と大仏の背後に、興福寺の五重塔が描かれています。ところで、奈良の大仏は、景清が肩に乗ることができるほどの身丈ということでしょうか、「身丈」→「御嶽」となったようです。標題の周りは、「坂本 五条坂」で確認したように、景清を象徴する薊で囲まれています。

Kom50  コマ絵の形は、景清が平家ゆかりの武将であることから、平家の紋、浮線蝶(揚羽蝶)となっています。蝶の紋は、「二 板橋 犬塚信乃」のところでも一度出てきています。英泉・広重版木曽街道の「御獄」は、宿場の東方山中にあった謡坂村の立場風景でした。国芳作品のコマ絵も、同じ場所を視点を遠ざけて描いたものと推測されます。

 なお、歌舞伎の『景清』は、歌舞伎十八番の一つで、市川家を代表する荒事演目です。七代目市川團十郎は、天保の改革による質素倹約令に違反し、天保13(1842)年4月に検挙されますが、その時演じていたのが『景清』でした。その後、江戸十里四方追放が解かれて、最初に江戸で演じたのが、やはり『岩戸の景清』といった具合です。つまり、国芳の本作品の背後にあるのは、團十郎の景清であり、それは幕府の規制に反発する気持ちであると見なければならないと思われます。したがって、頼朝の大仏供養に乗り込んだ景清は、徳川幕府の規制に挑戦した英雄(團十郎)を待望する気持ちを仮託した作品と理解されるべきです。当該作品の版元と彫師の組み合わせが、すでに紹介した作品三十六、三十七の光秀と信長に見立てた作品と同じく、版元は住吉屋政五郎、彫師は須川千之助の組み合わせであることにも注意が必要です。

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