卅四 熱川 武内宿祢 弟甘美内宿祢
版元:加賀屋安兵衛 年代:嘉永5(1852)年6月 「武内宿祢」(たけしうちのすくね)は、『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の天皇の時期)に大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物です。『日本書紀』によれば、異母弟の「甘美内宿祢」(うましうちのすくね)から謀反の讒言を受けましたが、熱湯に手を入れて正邪を決める探湯(くかだち)を行って濡れ衣を晴らしたとあります。国芳作品は、この探湯の場面を描いています。それは、「煮えた釜」→「熱(贄)川」という地口です。
五月人形では、神功皇后の隣に赤子(応神天皇)を抱いた烏帽子姿の翁が立っていますが、これが武内宿祢で、そのため、標題の周りはその烏帽子で囲まれています。にもかかわらず、当作品で、武内宿祢が烏帽子を被っていないのは不思議ではありませんか。
さて、その答えは、コマ絵の形を見れば得心が行くはずです。コマ絵の形が烏帽子となっているのです。そのコマ絵に描かれているのは、「本山」から「熱(贄)川」へ向かう途中にあった、松本藩と尾張藩の境に掛かっていた「境橋」で、木曽の山並みが背後に描かれています。一方、英泉・広重版木曽街道の「贄川」は、『木曽路名所図会』巻之三に図版で紹介されている宿場の旅籠風景です。
なお、武内宿祢が、異母弟の甘美内宿祢から謀反の讒言を受け、探湯を行って濡れ衣を晴らした話が、後世、本シリーズ「十 深谷」に登場した「百合若大臣」(幸若舞い)に変じたという説があります。確かに、大臣として最初に浮かぶのは、武内宿祢です。百合若は、九州、朝鮮半島など海外で武功を挙げた後、島に置き去りにされました。これは、神功皇后の三韓征伐と異母弟による謀反の讒言を想起します。ちなみに、武内宿祢は、「武」(たけし)=筑紫の内宿祢という意味に、甘美内宿祢は、「甘美」(あまみ)=奄美の内宿祢という意味に解され、いずれも、九州ゆかりの名前というのが個人的感想です。
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