四十 須原 業平 二條后
版元:上総屋岩吉 年代:嘉永5(1852)年7月 在原業平は、皇統の血筋でしたが、薬子の変後、兄の行平とともに在原の姓を賜って臣籍に下りました。『伊勢物語』では、業平は主人公とも目される人物で、多くの恋愛遍歴が物語られています。そのなかでも、同物語の第四段、第六段などに度々登場する恋の相手が、藤原長良の娘・二条后高子(たかいこ)です。ちなみに、歌舞伎(舞踊)では『六歌仙容彩』(ろっかせんすがたのいろどり)に登場します(『カブキ101物語』220頁参照)。
『伊勢物語』の第六段によると、おとこ(業平)が二条后を背負って盗み出し、芥川(現・大阪府高槻市)という所まで来て草の上に下ろすと、二条后は草の葉に置く露を見て「あの光っているのは何か」と訊ねます。ところが、雨が急に降り出したので、荒れた小屋の中に二条后を入れると何と鬼が現れて二条后を一口に食べてしまったと言います。おとこは、「白玉か何ぞと人の問いし時 露と答えて消えなましものを」という歌を残します。この第六段の末尾には、鬼に食われたと書かれているが、これは高子の兄たち、基経、国経の二人が妹を奪い返したのであると付記されています。
国芳の絵を見ると、業平は海老茶筅(髷)の源氏絵仕立てで、二条后を背負う姿からは歌舞伎の「道行」の場面が思い浮かびます。おそらく、ここに作品のインスピレーションがあります。なお、「すすきの原」→「須々木の原」→「須原」と理解できます。五色の紐に飾られた薬玉が標題を取り囲むのは、魔除けで鬼を避けようとの思いでしょうか。薬玉は、もとは宮中で端午の節句などに飾られました。
コマ絵は宮中で女性に用いられた桧扇をかたどっています。薬玉と桧扇で、業平と二条后を暗示しているのでしょう。英泉・広重版木曽街道の「須原」は雨で景色が不明ですので、『木曽路名所図会』巻之三を参照すると、コマ絵は「兼平羅城」(平沢村)もしくは「須原 定勝寺」の図版に基づく風景であると思われます。
ちなみに、『伊勢物語』同段の背景には、都を再び平城京に戻そうとした平城天皇の后・薬子の画策が失敗し(薬子の乱)、皇統が平城系から嵯峨系に変わったことがあります。臣籍降下した在原業平の二条后への誘惑は、嵯峨天皇の皇統に属する清和天皇への意趣返しと読むことができます。
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