卅六 藪原 陶春賢
版元:住吉屋政五郎 年代:嘉永5(1852)年6月 彫師:須川千之助、大久 「陶晴賢」(すえ はるかた)は、周防国の戦国大名・大内氏の重臣です。初名は隆房(たかふさ)。天文20(1551)年に大内義隆を殺害し、義隆の姉の子・大友晴英(後の大内義長)を当主に据えてから晴賢と名乗りました。その後、毛利元就との厳島の戦いに破れ、自害しています。しかしながら、本作品に描かれているのは、陶晴賢に仮託された明智光秀です。これは、織田・豊臣両家に係わる事跡を描いてはいけないという、当時の出版規制を逃れるための方便として採られています。
したがって、馬上にて左手で竹槍を防ぎ持ち、右手で刀を振るう武人の様は、天正10(1582)年、山崎合戦で羽柴秀吉に敗れた光秀が、山城国小栗栖の竹薮で土民に竹槍で刺され、落命する間際を描くものと理解しなければなりません。「竹薮で腹を刺される」→「薮原」となります。したがって、標題の周りも竹(薮)で囲まれています。
春賢の鎧の下に桔梗の花模様が見え、同時に、それをコマ絵の意匠ともしています。言うまでもありませんが、桔梗は明智光秀の家紋です。ただし、このシリーズは、作品に描かれた人物、すなわち、陶晴賢とコマ絵とが関連するように創作されるはずです。とすると、たとえば、コマ絵の意匠が家紋とするならば、本来ならば、晴賢の家紋・大内菱の形でなければなりません。桔梗では、明智光秀を描いたことがあまりに明白すぎて、幕府の規制を考えると、かなり危険な選択であったはずです。
ちなみに、三代豊国『役者木曽街道』の内、「小田井」「藪原」「上松」の3点が、販売の自主規制を意味する「シタ売」作品となっています。『役者木曽街道』を見る限り、その理由はどうも判然としません。ところが、その3点の作品は、いずれも、版元「住吉屋政五郎」、彫師「(須川)千之助」となっていて、本作品と同じコンビであることに気付きます。もしかすると、国芳の当該「卅六 藪原 陶春賢」における明智光秀作品が原因となって、嘉永5(1852)年6月から5ヶ月後の11月に版行された三代豊国の各作品は、版木没収を避けるため、版元住吉屋に販売の自主規制を約束させ、「シタ売」としてシリーズに加えたのではないでしょうか?
英泉・広重版木曽街道の「藪原」は「鳥居峠硯ノ清水」で、『木曽路名所図会』巻之三に同様の図版があります。国芳のコマ絵も、ほぼ同様のモチーフを峠の手前の麓に戻って描いているようです。英泉・広重版「和田」に対する、「廿九 和田」のコマ絵(和田峠)と同じ描き分けです。
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