« 卅六 藪原 陶春賢 | トップページ | 卅八 福島 浦嶋太郎 »

卅七 宮の越 大塔宮

版元:住吉屋政五郎 年代:嘉永5(1852)年5月 彫師:須川千之助、大久


Kn37  「大塔(おおとう・だいとう)宮」とは、後醍醐天皇の皇子、護良(もりよし・もりなが)親王のことです。後醍醐天皇の意向を受けて、二度にわたり天台座主となっています。大塔宮は、元弘の乱(元弘元・1331年)に際し、還俗して鎌倉幕府討幕運動に参戦し、反幕勢力を募り、京都の六波羅探題を滅ぼしました。幕府滅亡後の建武の新政では、征夷大将軍に任じられましたが、足利尊氏と対立し、皇位簒奪を企てたとして捕らえられ、鎌倉に送られて、尊氏の弟足利直義の監視下に置かれました。翌年、北条時行の中先代の乱が起き、警戒した直義の命を受けた家臣淵辺義博に殺害されました。

 『太平記』によれば、東光寺の土で壁を固めた牢に閉じ込められ(土牢は鎌倉宮敷地内に復元・現存)、淵辺義博に殺された護良親王は、公家の藤原保藤の娘、南方に弔われたと伝えられています。その悲劇は、人形浄瑠璃や歌舞伎にも採り入れられ、享保8(1723)年2月、竹田出雲・松田和吉(文耕堂)作・近松門左衛門添削『大塔宮曦鎧』(おおとうのみやあさひのよろい)、通称『身替り音頭』(みがわりおんど)として大坂竹本座で初演されています。

 国芳作品は、土牢に閉じこめられた大塔宮が読経し、淵辺が襲おうとしている様子を描いています。宮の傍らにいるのは、南方でしょうか。標題は、敷地を覆う松に囲まれています。「土牢に残された大塔宮」→「宮残し」→「宮の越」という地口と判ぜられます。

 ところで、淵辺の着物には(織田)木瓜紋が入っています。一見、『太平記』の大塔宮を画題としているように装いながら、「藪原」の明智光秀と対応させて、本能寺の変で光秀に殺害された織田信長を描いていると解しうるのです。とすると、天台座主であった大塔宮は、信長に焼き討ちにあった延暦寺を象徴することになります。「藪原」でも触れましたが、「宮の越」との二枚組は、延暦寺の焼き討ち、本能寺の変、山崎合戦を含意していて、かなり危険ながらも痛快な作品ではないでしょうか。ちなみに、版元は住吉屋政五郎、彫師は(須川)千之助です。『役者木曽街道』の「シタ売」作品の謎は、これで解けたように思います。

Kom37  さて、コマ絵の形ですが、宮を弔った藤原家の娘・南方に因んで、藤原家の「下り藤」の紋ではないでしょうか。公家の代表紋です。「上り藤」とする見解もありますが、デザインが相違しています。描かれているのは、鳥居峠辺りから見た木曽御嶽山の近影です。


 なお、コマ絵は藤原家の家紋に関連するのは間違いなく、その場合、「藤紋」(上り藤・下り藤)というのが第一印象ですが、実際には藤原家の多くは、「近衛牡丹」に代表される「牡丹紋」なので、コマ絵はその輪郭を意匠したものと解します。(2017年6月5日付記)

|

« 卅六 藪原 陶春賢 | トップページ | 卅八 福島 浦嶋太郎 »

木曽街道六十九次」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/197953/57259618

この記事へのトラックバック一覧です: 卅七 宮の越 大塔宮:

« 卅六 藪原 陶春賢 | トップページ | 卅八 福島 浦嶋太郎 »