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55.東海道五拾三次 大尾 京師 三條大橋 :京三條大橋

 東海道は、逢坂山を越えると、やがて伏見街道との分岐点・山科の追分、その先で逢坂山の北側を回ってきた小関越えの道と合流します。「山城国」に入って、いよいよ東海道の西の起点・三条大橋までもう少しです。

Kunisada055_n  「江戸日本橋之圖」から始まって「京三條大橋」で終わる構成ということで、国貞は、橋脚部分をカットした構図ですが、賀茂川に架かる三条大橋の袂から東山を望む景色を描きました。橋の上の人物表現は、『伊勢参宮名所図会 巻之一』「三條橋」を踏襲しているようです。江戸では禁止されていた被衣(かずき)姿の女性がいるのも、京を意識させるためのものです。重ね合わされた美人は、京都北部の山から薪や柴を売りに来る大原女です。「掛川」の美人風景とほぼ同じ構図であることに気付きます。荷物を運ぶ牛は、蒲原を想起させ、牛を山村や田舎のイメージとして利用しています。よく見ると、柴の上に梅の花が挿してあり、北野天満宮(天神)見立ての可能性があります。

 広重は、橋の左詰に武士の一行を描き加えて、日本橋を発った大名行列がようやく京三条大橋に着いたことを表現しています。特徴的なのは、橋の上の、茶筅売りと被衣姿の女性で、いずれも、都の風俗を代表するものとして描かれています。背後の風景に目を向けると、緑の山の中腹に清水寺があり、その先に八坂の五重の塔が見えています。中央の大きな屋根は双林寺、さらに左の大屋根は知恩院と思われます。名所紹介ということです。茶色の山景は、おそらく、比叡山をイメージするものでしょうが、そうだとするとかなり右に寄せられたことになります。

 ちなみに、三條大橋は、豊臣秀吉の命で増田長盛が架け替え、橋杭は我が国初の石造りであったとあります。この解説は、実は、『都名所図会』にあるものです。広重が『東海道名所図会』を参考にしていたことは明らかで、同種類の『都名所図会』をも知っていた可能性はあります。にもかかわらず、広重は橋杭を木製として描いています。東海道シリーズを全体として見てくると、広重は、各種図会を参考にする場合には、構図や配置は別として、基本的には個々の構築物などを修正することなく、そのまま描き写しています。したがって、広重の「京師 三條大橋」は、同図会をそのまま転用したと考えられます。理由は、世に普及している資料に作為を加えない方が、幕府の取締対策として安全であるからです。また、仕事も速いですし…。

 当時、石造りであった三条大橋の橋杭を広重が木製に描いた事実は、広重がこの時点で京都に旅していない証拠であるというのは不正確な表現で、初めから、東海道シリーズは、先行する各種図会などの資料をもとにした広重の構想図であり、それは、当ブログが個々に検討し、明らかにしてきたところです。版元の第一の営業意図は、手軽なサイズで、かつ錦絵(オールカラー)として制作する点にあったと推測されます。「まのあたりにそこへ行ったここちがする」とか「真景」とかいう商売文句に騙されてはいけません。

*掲載作品は、国立国会図書館蔵です。

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