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46.東海道五拾三次之内 庄野 白雨 :庄野ノ圖

Kunisada046_n  国貞の美人東海道を見れば判るように、「庄野」は鈴鹿川に沿って発展した平地の中にある宿場で、しかも、伊勢参りの旅人が通過しないため、先の「石薬師」と同様に、農村色の強い土地柄です。そこで、祠と立札近くの大木上空には燕が飛び、田園風景がイメージされています。『東海道名所図会』には、「石薬師駅中より左の方へ入ること一里ばかり」に「稚武彦祠」(わかたけひこのやしろ)があるとの記述があるので、敢えて言えばその祠が画題に相当するのかもしれませんが、詳細は別の機会に論ずるとして、国貞は、『伊勢参宮名所図会』(寛政9年刊行)の『附録十二』「黒主祠」を元絵に街道風景に作り直しています。ともかく、休息が大半の宿場で、作品の内容は空駕籠の人足が客に声を掛ける風情です。やはり休息が主な宿場、前掲「袋井」と共通する趣で、登場する美人も、同じく当宿を通過する旅姿の女性です。

 ところで、広重の作品は、副題「白雨」とあるように夕立を題材に選び、その激しい雨風の中、急な坂を走る旅人・人足と農夫の慌て振りを描いています。雨の「庄野」として名図の誉れが高い作品です。ただし、最近では、雪の「蒲原」と同様、実景的表現ではないと認められるようになってきました。そうだとしても、東海道シリーズ全体のバリエーションとして、たまたま「庄野」で「白雨」を描くこととしたのでしょうか。当ブログは、このような構想図になった背景には一定の理由があると考えており、その辺りをもう少し探ってみたいと思います。なお、広重作品において、画中右側の傘に、「竹のうち」「五十三次」というように版元と作品の宣伝が入っていて、5枚区切りの冒頭の一枚(46番目)という当ブログの仮説に該当する特徴を有しています。

 話を戻すと、シリーズ全体の構成を考えて、「庄野 白雨」とすることには、いささかの抵抗感があります。なぜならば、「庄野」から四つ後で「土山 春之雨」となっていて、シリーズ全体の構成に配慮すれば、前半にあった「大磯 虎ヶ雨」との間が離れすぎ、かつ後半に雨続きというアンバランスな結果となっています。つまり、「土山」の雨を承知で、しかも「庄野」を雨としなければならない特別の理由があったと考えるのが自然です。

 「庄野 白雨」が偶然ではなくて、ある種必然であったとするならば、その理由は何でしょうか。実は、『東海道名所図会』にも記載されているのですが、日本武尊の白鳥伝説の地・能褒野(のぼの)は、庄野にあったと考えられていました。たとえば、「加佐登神社」「白鳥塚」「奉冠塚」「奉飾塚」などは、すべて「庄野」にある、日本武尊ゆかりの史跡です。国貞は、すでに「石薬師」で描いてしまいましたが、広重も、当然、この「庄野」が日本武尊(絶命)の地であったことは深く意識していたと思われます。

 「庄野」の白雨は、日本武尊の最期を象徴する情景ではないでしょうか。重傷を負った日本武尊は、杖衝坂を越え、足が三重の勾(まがり)のようになって、能褒野で、「倭は 国のまほろば…」と大和を偲び、息を引き取ります。日本武尊(もしくは思いを寄せる人々)の烈しい念が旅人達に慟哭の雨となって襲い、旅人達はその激しい雨に「祟られた」と考えます。前掲「大磯」の雨が虎御前の涙雨とするのと同じ思考です。ちなみに、「白雨」は「白羽」(白鳥)に掛けられているのかもしれません。

 「蒲原」の雪景色は、源義経と浄瑠璃姫の奥州紀行の物語が背景になって生まれ、「庄野」の急坂の白雨は、日本武尊の伝説が深層に置かれて構想されたと読み解いてみました。

*掲載作品は、国立国会図書館蔵です。

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