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冨嶽三十六景・表富士(1)

 輪郭線が藍で摺られた最初の36枚を「表富士」と題して、シリーズ全体を一括して構造分析をしてみたいと思います。その後、輪郭線が墨摺りである、いわゆる「裏富士」10枚を改めて考察の対象とする予定です。

 さて、富嶽シリーズの中核作品は、「凱風快晴」と「山下白雨」です。「凱風快晴」(赤富士)は、富士信仰の一方の柱である富士講信者が尊崇する、「日神」としての富士を描いています。また、「山下白雨」(黒富士)は、もう一方の柱である富士浅間神社の祭神である「木花開耶姫命」を描いています。「木花開耶姫命」は水神と理解されています。これらは、富士信者が富士を日神あるいは水神として見ていることに対応した構造です。

 日神および水神を富士神霊と呼ぶとすると、その他の34枚の作品は、富士そのものを描く作品群と、富士を背景に庶民生活を描く作品群とに分かれ、前者は富士神霊の在り所を表現し、後者はその富士神霊の庶民生活への表れをそれぞれ描いています。過去のブログでも検討したように、富嶽シリーズでは、実は、富士神霊の「庶民生活への表れ」の方が重要なテーマになっています。

 題名が『冨嶽三十六景』なので、富士に比重を置いて眺めてしまいますが、作品一点一点を見てみると、主題は、庶民生活の中に富士世界を垣間見る趣向です。もとより、浮世絵作品ですから、近景に描かれる庶民生活をこそ肯定するものでなければ、浮世の絵とはならないのです。そして、肯定する主体は、富士神霊です。富嶽シリーズでは、富士神霊が生活する庶民に御利益を与える姿が描かれていると言い換えることも可能です。

 とすると、ここから、以下に述べるような結論が導かれます。

 すなわち、背景となっている富士と描かれた庶民とは対立関係にはなく、一体とした共感関係にあるということです。たとえば、「神奈川沖浪裏」の作品解説では、「大自然の凶暴さに身をまかせるだけ」とか「大自然の前に無力な人間」とかと表現されることが多いのですが、先入観を持たずに作品を見ると、富士に相似する波が描かれ、その海上の富士と船人とは同じ空間世界にあることが判ります。同時に遠方の富士は波の一つの様にも見え、船人の日常の風景の中に確実に捉えられているのです。富士と庶民との共感関係が「神奈川沖浪裏」の核心であって、それを度外視してしまうと富士信仰を基盤にした富嶽シリーズに加えられる理由が無くなってしまうのです。

 同様のことは、「駿州江尻」についても、言えることです。風は、波と同様、自然の脅威には違いないとはいえ、それらの脅威に対して、富士も、庶民も同じ姿勢を示していると見るべきでしょう。すなわち、両者とも風に耐えている姿の共通性があるのです。そもそも、脅威それ自身、つまり風が、富士神霊の作用なのかもしれず、過剰な戯れなのかもしれないのです。

 「神奈川沖浪裏」など、個々の作品を富嶽シリーズから切り離して鑑賞すると、近代絵画的表現を求めてしまいますが、一連の浮世絵群の一つと理解すれば、当初の意図が自然に浮かび上がってくるはずです。

 富嶽シリーズの役物三点として、通例、「凱風快晴」「山下白雨」「神奈川沖浪裏」が挙げられています。しかし、題名が特定の地域を想定しておらず、一定の状態を表しているという共通性に目を向けると、北斎の思考の中では、「裏富士」の「諸人登山」が気になる存在として浮かび上がってきます。私たちは、「神奈川沖浪裏」に少しばかり、比重を置きすぎなのかもしれません。「裏富士」の詳細は、初めに触れたように、後日ということで…。

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