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冨嶽三十六景「凱風快晴」

Hokusai02  本日、「凱風快晴」をブログの題材とすることによって、主版が藍で摺られた、最初の富嶽シリーズ36枚全てに触れたことになります。通称「赤富士」と呼ばれ、「神奈川沖浪裏」とならんで北斎の錦絵を代表する一枚です。しかし、あまりに有名なためか、意外に、江戸庶民がこの浮世絵に何を感じたのかを、議論の出発点とすることは少ないように思います。

 当該作品は、凱風、すなわち夏の南風によって、快晴となった青空を背景に、富士が朝焼けに赤く染まる瞬間を描写するものであると説明されています。ただし、当ブログでは、「山下白雨」と同様、描かれた場所が題名に指定されていないので、特定の場所ではなく、富士そのものを描いた作品である、というところから話を進めていきます。

 「凱風快晴」が赤富士と言われるのは、朝日を映し出した富士の赤い山肌の色から命名されています。つまり、赤富士は、反射する太陽の光が主題となっているということです。富士の風景という先入観があるので、「珍しい富士景色だなあ!」ということで満足してしまいますが、実は、富士はスクリーンであって、映し出されている太陽にこそ注目する必要があるのです。

 富士登山の目的、とくに富士講信者のそれは、ご来光を仰ぎ見ることにありました。つまり、富士に日神を見ていたのでした。仙元菩薩の本地は大日如来と言われる所以です。したがって、「凱風快晴」は、朝日に染まる富士ではなくて、富士を通して、朝日に象徴される日神を描いているのです。日神を描いているという意味で、赤富士は江戸庶民にとって吉景です。「相州七里濱」が光のハレーションを主題とし、日神を描いていると述べたことと同じ道理です。

 「凱風快晴」は、富士そのもの(神霊)を日神として見る作品です。そして、それが、以下の富嶽シリーズの重要なテーマであることを宣言する作品なのです。こう述べると、富士そのものを水神であるといった従前の見解と矛盾しないのかということが、当然、問題となってきます。議論よりも前に、北斎の富嶽シリーズをもう一度見直すことが問題解決の糸口です。

 「山下白雨」を除いて、富嶽シリーズは、そのほとんどが晴れの景色です。「山下白雨」でさえ、富士の頂上は晴れています。敢えて言わなかったのですが、富士の水神的要素を絵の主題とする作品においても、日神(日の恵み)は、当然の前提となっているということです。また、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメミコ)を、日の恵みと水の恵みによって豊穣をもたらすサク(作)の神と理解すれば、富士(神霊)が両方の性格を有するのは当然のことなのです。(『冨嶽百景』の最初の絵が、木花開耶姫命であることが重要です。)

 富嶽シリーズから明らかになることは、富士(神霊)は、日神であり、水神であり、全ての人に平等に注がれる日の恵みと水の恵みによって、豊かな果報(御利益)をもたらす作神と理解できます。逆に、この趣旨を具体的に絵にしたものが、同シリーズの各浮世絵作品と見ることができます。したがって、「凱風快晴」と「山下白雨」を中心にシリーズは構成されており、その全体を一連の作品群として見通すことが肝要です。そうすると、従来見落とされがちであった、たとえば、富士信仰に派生する各要素などが、間違いなく浮かび上がってきます。話が長くなりましたので、それらについては、機会を改めて、再論してみるつもりです。

*掲載の資料は、アダチ版画です。

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