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冨嶽三十六景「山下白雨」

Hokusai03  題名に描かれた場所が指定されず、しかも、画中に庶民生活が描写されていない二作品の内の一つです。もう一つは、「凱風快晴」ですが、それについては、次回に改めて触れる予定です。「山下白雨」は、俗に「黒富士」とも言われていることはご承知の通りです。

 さて、表題の「山下白雨」から、夏の夕立(雷雨)風景を描いたことが判りますが、絵をよく見ると山頂は晴れていて、青空も出ています。そのため、山頂の晴れと山下の雨とが対照され、天候をも超越した富士を描いていると言われる所以です。しかし、本ブログでは、庶民生活が描写されていない富嶽シリーズは、富士(神霊)そのものを表現しているという立場ですので、その視点から通説とは異なった分析を加えてみたいと思います。

 表題に「山下白雨」が選ばれた事実から、山頂の快晴よりは、山下の白雨に力点があることが判ります。また、ここ何回かの富嶽シリーズの解説では、一連の作品の多くが、富士(神霊)の水神的要素から構成されていることを述べてきました。この二つを総合すれば、当該作品は、雨という水神の要素を基調としていることが自然に理解できると思われます。富士浅間神社の祭神・木花開耶姫命が水神であることの浮世絵的表現が、「山下白雨」の黒富士なのです。

 「山下白雨」は、「凱風快晴」と同じく、富士そのものを描いたと言われますが、富士そのものとは何なのかと言えば、「山下白雨」から判ることは、富士(神霊)は水神であるということなのではないでしょうか。あるいは、水の恵みによって、豊穣をもたらすサク(作)の神とも言い換えることができます。既述した、天候をも超越した富士という見方に関しては、江戸庶民は、確かにそのような富士に対して一種の驚嘆を覚えたかもしれませんが、信仰的共感を広く持つまでには至らなかったのではないかと思われます。やはり、水の恵み(御利益)によって、豊かな収穫(果報)等が約束されることが重要なのではないでしょうか。

 富士を水神と見るからこそ、富嶽シリーズに、海や湖沼からの富士眺望図が多く描かれ、また、同時に農村の収穫、山村の伐採、漁村の漁などの描写が少なくないのだと推測されます。つまりは、「山下白雨」(黒富士)の一枚が、以下、富嶽シリーズの構成内容を具体化する指標として先行して描かれているのです。

 では、富士(神霊)は水神(水の恵み)であるというのが最終結論かというと、必ずしもそうではありません。なぜなら、「凱風快晴」(赤富士)という、重要な一枚がまだ残されているからです。とはいえ、「山下白雨」で山頂が快晴であると述べましたので、それが、すでに最終結論へのヒントになっていることはお気付きでしょうけれど…。

 なお、『冨嶽三十六景』、36枚+10枚、計46枚中、雨の富士は、唯一、この作品だけです。その意味では、雨に特別な思いが託されていると考えるべきでしょう。

*掲載の資料は、アダチ版画です。

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