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猿蟹合戦

Fairy03  明治時代に、浮世絵の縮緬(チリメン)製作の技術を応用した「ちりめん本」というものが発行されます。左の資料は、明治十八年八月十七日発行・昭和四年九月十日第十六版印刷・同月二十九日発行の日本昔噺3号・英語版『Battle Of The Monkey And The Crab (猿蟹合戦)』です。弘文社(長谷川武次郎)という会社から発行され、訳者はダビト タムソン(David Thompson)で、サイズは152mm×102mmという小さいものです。

 和紙を材料としながらもシワを敢えて入れることによって、縮緬布の様な感触を出しています。絵は浮世絵製作の木版摺り、欧文の解説は活版印刷、そして紙はチリメンが施されているのですから、外国人向けのお土産としては大変重宝され、喜ばれたことが想像されます。

 ちりめん本についての詳しい解説は、また別の機会に譲りますが、ここで紹介した「猿蟹合戦」の絵をよく見て下さい。今日では、子蟹の助太刀には多く「栗」が当てられます。ところが、紹介した絵では「卵」が描かれています。このころの「猿蟹合戦」では、「卵」が主流であったようです。たとえば、大正時代の芥川龍之介の「猿蟹合戦」の後日談を描いた作品でも、「卵」が一党として挙げられています。

 実は、本文の挿絵の中では、蟹は和ハサミの旗の下に集まっており、一方、猿は山栗の旗の下に参集しているので、栗より卵の方が話の流れとしては良いかもしれませんね。第一次(もしくは第二次)猿蟹合戦では猿が勝利し、蟹は命を落としてしまいます。そこで、その子蟹が助けを求め、臼、杵、蜂、卵などの協力を得て、仇討ちをするという日本人が大好きな筋立てへと話が進むのです。忠臣蔵を彷彿させます。

 猿は悪巧み・悪知恵の象徴で、これに打ち勝つには蟹の単純な一途さや正直さだけではだめのようです。仲間四人が一体となって、猿を油断させ、自滅に追い込む工夫が必須で、これがこの昔話の核心かもしれません。

 ドラマは負けたところから始まる…

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秋野豊

 十年前の七月二十日、私は不思議な体験をしたことがあります。フランスでの文化イベントを終え、帰国した知人と長野市内のホテルで待ち合わせ、ワインを楽しんでいた時でした。とても愉快な気分で会話をし、フランスでの土産話に聞き入っていました。その際、ふと窓からなにげなく景色を眺めていたのですが、外の空、ビル、木々、車、人々等から急に色が失せ、セピアの風景が見えたのです。あれ、夢を見ているのかな、いやいや悪酔いだなと思い、窓から目をそらしました。

 しばらくは、知人の話を聞くふりをして、躊躇はあったのですが、もう一度窓の外を見ることにしました。いつものオールカラーの景色でした。ああ、よかったと思いながらも、今度は急に虚無感が込み上げてきました。生きているのがイヤになってしまったのです。私は比較的気分の安定した人間で、こんな体験は初めてでした。これは、もうこの場を切り上げろとの合図だなと感じ、さっさと会話を切り上げ、帰宅することとしました。たぶん、知人は私のことを随分自分勝手なやつと思ったに違いありません。

 実は、この時、国連タジキスタン監視団(UNMOT)政務官の秋野豊氏が命を亡くしたのです。秋野氏の師から携帯電話に連絡をいただき、その事実を確認したのでした。それによって、私の不思議な体験の理由は納得できましたが、しかし、なぜ古き友人の死を地球の半周分ほども離れた私が感じたのかは、不思議のまま残ったのでした。

 私は、この体験から変に教訓めいた話は引き出すつもりはありません。ただ、セピア色の景色の中で感じた、あの挫折感はもう二度と味わいたくないということはあります。生きている中での惨めさと死に向かっての惨めさとの間には、まるで橋が架かっていないように思います。

 この七月、秋野豊メモリアルコンサートが開かれるという報に接し、もう十年も経ったのかという感慨です。四つ年上の同僚であった君は、私より若い四十八のままではあるけれど…

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